日本のクラシック音楽界をけん引した東京音楽学校には、長らく本科の「作曲科」はありませんでした。(作曲を学べるのは研究科であった)
また、実は「足利龍之介」というペンネームで映画音楽や流行歌謡などを作曲していたりもしています。
1.略歴
1904年9月14日:東京の本郷に生まれる。サラリーマンの父の転勤で大阪などで成長する。
2.1 歌曲
当時の日本では、「作曲」とはまず「歌を作る」ということだったのでしょう。
「お菓子と娘」(詞・西条八十)(1928)
「舞」(詞・深尾須磨子)(1929)
2.2 声楽曲
交声曲「光華門」(1937)
交声曲「英霊讃歌」(1943)
2.3 交響曲
交響曲第1番 ニ調(1940)
第1楽章:西洋のソナタ形式と日本の「絵巻物」様式を融合させたものという(片山杜秀氏の説明)。確かに、第1主題、第2主題の提示や展開が、まるで絵巻物のように趣向や色合いを目まぐるしく変えながら姿を表わします。
第2楽章:琉球音階に基づくスケルツォ風の楽章。中間部は無窮動的な祭りの音楽。コーダでは祭り太鼓や拍子木が加わって祭りが高揚します。
第3楽章:主題と変奏曲とフーガ。この「主題」は伊沢修二作曲の唱歌「紀元節」。このメロディは、当時の日本国民ならみんな知っている曲だったので、「初代神武天皇の即位日が紀元節、それから2600年」という祝祭にふさわしい主題だったのでしょう。そして、この主題が出て来たことで、初めて第1楽章の第1主題がこの歌の最初の音形から作られていたことが分かる、なんとも心憎い設計です。
交響曲第2番(1947)
第1楽章:ソナタ形式。憧れに満ちた温和な第1主題(経過的には厳しい表情も見せる)、跳躍的な疑問形の第2主題(最後は断定形)とから成り、平穏な充足感にあふれている。
2.4 通俗音楽
日本の音楽アカデミズムの頂点にあった橋本國彦は、実は流行歌や映画音楽などの通俗音楽の分野でも「足利龍之助」なるペンネームで作品を残しています。
日活映画「ミスター・ニッポン」主題歌(詞・西条八十)(1931)
3.CD情報
NAXOS レーベルの「日本作曲家選輯」シリーズが貴重で、実際の音楽を高いレベルの演奏で聴くことができます。
橋本 國彦/第1番、交響組曲『天女と漁夫』 沼尻竜典・指揮/東京都交響楽団
橋本國彦/交響曲第2番、三つの和讃、感傷的諧謔 湯浅卓雄・指揮/藝大フィルハーモニア、福島朋也(バリトン)
山田耕筰は「声楽科」、信時潔は「器楽科」でチェロを専攻しました。
そんな中、信時潔は東京音楽学校で教鞭をとりながら「作曲科」の創設に奔走し、1931年にそれを実現させますが、信時自身は教授を辞任して講師に退き、初代作曲科教授には若き橋本國彦を立てました。
そんな日本の音楽界の保守本流の頂点に立ったモダニストでしたが、戦争協力の責任を取って戦争直後に教授を辞任し、惜しくも1949年に病に倒れ早世しました。
交響曲第1番は1940年の「皇紀二千六百年奉祝曲」として、交響曲第2番は1947年の新憲法公布を祝って作曲されたという、まさしく時代に翻弄された作曲家だったといえます。
橋本 國彦(1904〜1949)
1923年(19歳):東京音楽学校に入学。ヴァイオリンと指揮を専攻。信時潔にも時々作曲の指導を受ける。
1924年(20歳):本科を終了後、研究科で作曲を学ぶ。
1928年(24歳):このころ多彩な歌曲を作曲。
「黴(かび)」(詞・深尾須磨子)
「斑猫(はんみょう)」(詞・深尾須磨子)
「お菓子と娘」(詞・西条八十)
など。
「感傷的諧謔」作曲。
1929年(25歳):歌曲「舞」(詞・深尾須磨子)
東京音楽学校でヴァイオリンを教える。この頃のヴァイオリンの弟子に朝比奈隆がいる。
1931年(27歳):信時潔の尽力で東京音楽学校に作曲科が創設され、初の作曲科教授となる。
1934年(30歳):「皇太子殿下御生誕奉祝曲を作曲。
1934〜37年(30〜33歳):文部省派遣留学生としてヨーロッパに留学。ウィーンではシェーンベルクの弟子エゴン・ヴェレスに師事。フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、ワインガルトナー、エーリヒ・クライバーなどの演奏会に通い、レスピーギに会い、帰国途上でアメリカのロサンゼルスでシェーンベルクにも教えを受けた。
1937年(33歳):留学から帰国。南京陥落をテーマとしたカンタータ「光華門」(詞・中勘助)。
1940年(36歳):皇紀2600年奉祝曲として交響曲第1番を作曲。また、奉祝演奏会ではハンガリーのヴェレシュに委嘱された奉祝曲「交響曲第1番」、山田耕筰作曲「交響詩『神風』」を指揮して初演した。
1943年(39歳):山本五十六元帥の戦死を受け、東京音楽学校校長・乗杉嘉壽作詞の「英霊讃歌」作曲。
1946年(42歳):敗戦に伴い、戦時中の活動の責任を取る形で母校の作曲科主任教授を辞任(後任は伊福部昭)。
民主主義啓蒙ソング「朝はどこから」(詞・森まさる)。
1947年(43歳):新憲法の公布を祝う交響曲第2番を作曲。
愛国主義を高揚し多くの若者を死に追いやった知識人の懺悔の念を痛切に歌った「3つの和讃」。
1948年(44歳):絶筆「アカシアの花」(詞・松坂直美)。
1949年:胃ガンにより5月6日に鎌倉で逝去。満44歳。
2.代表的な作品
その中にあって、橋本國彦はかなり「モダン、前衛的」な歌を作曲していたようです。
これはモダンで軽妙な歌。
日本版のシュプレッヒェシュティンメといった前衛的な作品。
https://www.youtube.com/watch?v=BgFioUuW5cU
南京陥落を祝って、中勘助の歌詞で作曲したカンタータ。
勇ましい進軍ラッパで開始するが、激しい戦闘シーンなどを生々しく描写した部分はなく、後半は戦闘の中で散った兵士を悼む鎮魂と浄化の響きで幕を閉じます。
数年前には橋本國彦自身が指揮した音源を YouTube で聴くことができましたが、現在は削除されたようで見ることができません。
著作権か何かの関係でしょうか。
日本の音楽史上の「汚点」だとは思いますが、歴史的事実(○○遺構)として残しておきたいものです。
山本五十六元帥の戦死を受け、東京音楽学校校長・乗杉嘉壽の詞に作曲した交声曲(カンタータ)。
1940年の皇紀2600年奉祝曲として作曲され、1940年6月11日に作曲者の指揮する東京音楽学校オーケストラによって日比谷音楽堂において初演されました。
曲は3つの楽章から成ります。
雅楽風フーガの序奏に続き、主部の第1主題はハープに乗った日本音階(陽旋法)に基づくおおらかなもの。第2主題は「都節」(陰旋法)に基づく。
(この歌の作曲者・伊沢修二が、東京音楽学校の初代校長であることに対する敬意も込めているのでしょう)
8つの変奏の後にフーガが置かれ、第1楽章の第1主題も再現して華麗に終結します。
唱歌「紀元節」(伊沢修二・作曲、1888年)
1947年5月3日の新憲法公布を祝して「新憲法普及会」からの委嘱で作曲しました。
作曲者自身の指揮による初演後、再演されることもなく忘れられてきたこの曲が再び発掘され、東京藝術大学での蘇演・録音に至った経緯については、楽譜作成工房「ひなあられ」、手書きスコアから楽譜を再現された元名古屋フィルのコントラバス奏者・岡崎 隆氏のHPをご覧ください。
曲は平和の喜びをかみしめるような明るいもので、「新憲法公布を祝して」という趣旨に沿ったものとなっています。
日本音階や民謡といった「日本」を感じさせる要素は一切使っていません。
2楽章構成であるが、第2楽章にスケルツォ、フィナーレの性格も持たせています。
第2楽章:主題と変奏。行進曲風の明るく爽快な主題に基づく変奏。主題はハーモニーの使い方がフランスっぽくて面白い。
6つの変奏の後、ホルンのカリオンの響きの上の短い「スケルツァンド」を経て、希望に満ちた行進曲主題の再現と「平和の鐘の主題」上の第1楽章の主題で幕を閉じる。
上記のハーモニカ用の楽譜
このような企画やコンサートがもっと広がってくれるとよいと思います。