伊福部 昭(1914〜2006)〜ゴジラの音楽を産んだ世界に通用する日本の独立楽派〜

2024年 4月 18日 初版作成


 伊福部昭は北海道で林野官をしながら独学で音楽を勉強し、チェレプニン作曲賞を受賞することで一躍有名になったという経歴を持つ「独立楽派」です。当時の音楽家(作曲家も含む)がもっぱら東京音楽学校という養成機関から出発した中にあっては「異端児」でした。
 そして、その先祖をたどると、大和王権に対抗した出雲の古代豪族の子孫であり、また「ゴジラ」という映画音楽で一般に知られるようになったという点も含めて、二重・三重に異端的存在でした。
 伊福部氏自身も、当初は「ゴジラの作曲家」と呼ばれることにコンプレックスがあったようですが、晩年には自宅にゴジラのフィギュアを置くなど、ご自分の音楽人生を肯定的にとらえていたようです。
 弟子に芥川也寸志氏、黛敏郎氏、矢代秋夫氏などそうそうたる顔ぶれが並ぶ、さらには東京音楽大学の学長を務めるなど、実は日本のクラシック音楽界の最重要人物なのではないかと思います。

 伊福部 昭(1914〜2006)



1.略歴

1914年5月31日:北海道釧路に生まれる。出雲(因幡の国)の古代豪族で代々宇倍神社の宮司を務めたが、祖父の代で明治維新となり、父・利三の代で北海道に転身して警察署長や村長を務めた。
1923年(9歳):父が音更村の村長を任じられ転居。そこでは村長という役目柄アイヌと日常的に交流した(和人とアイヌはコミュニティが分かれてあまり交流はなかったらしい。伊福部氏はアイヌの結婚式や祭りなどの行事にも頻繁に出席したとのこと。「オスティナート」の原点はアイヌだと語っている)。
1926年(12歳):札幌第二中学し、そこで生涯の友となる音楽評論家・三浦淳史と出会う。独学でヴァイオリンを始めるが、三浦に「音楽をやるなら作曲もやらないと意味がない」とそそのかされて作曲も独学で勉強する。
1932年(18歳):北海道帝国大学農学部林学実科に入学。大学管絃楽部のコンサートマスターになるとともに弦楽四重奏団を組織する。
この頃後の作曲家・早坂文雄と知り合う。
三浦、早坂らと名曲喫茶ネヴォでレコードを聴く。他の客がいなくなるとストラヴィンスキーやラヴェル、ファリャ、ドビュッシー「ペリアスとメリザンド」などの最新の音楽を聴いたという。
また、札幌の演奏旅行に来たヴァイオリニストのハイフェッツやジンバリスト、ピアニストのケンプ、山田耕筰などを聴いた。
1933年(19歳):三浦が文通していたスペイン在住のアメリカ人ピアニスト、ジョージ・コープランドのために「ピアノ組曲」を作曲して送るが、スペイン内戦のため演奏されなかったらしい。
1934年(20歳):兄2人、三浦、早坂、大学オケのメンバーとともに「新音楽連盟」を結成し、札幌で「現代国際音楽祭」を開催。ストラヴィンスキー、ミヨー、ファリャ、シュールホフ(伊福部のヴァイオリンで「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を日本初演)、サティなどを演奏したという。
1935年(21歳):大学を卒業し、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。
アメリカの指揮者ファビエン・セヴィツキー(セルゲイ・クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。
パリで催されるアレクサンドル・チェレプニン賞の審査員の中に憧れのモーリス・ラヴェルの名を見つけ『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった(第2位は松平頼則)。
1936年(22歳):『日本狂詩曲』(第1楽章欠)がファビエン・セヴィツキー指揮ボストン・ピープルズ交響楽団によってアメリカで初演。来日したチェレプニンに短期間師事。
1937年(23歳):室内管弦楽曲『土俗的三連画』を作曲し、チェレプニンに献呈。
1938年(24歳):1933年に作曲した『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭に入選し初演。
1940年(26歳):林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演。
1941年(27歳):札幌出身の舞踊家・勇崎アイと結婚。
ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。
1942年(28歳):2歳上の次兄・勲が東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。
1943年(29歳):勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールで第1位・文部大臣賞を受賞し、山田和男指揮東京交響楽団により日比谷公会堂で初演されるとともに、同じ演奏者で伊福部の作品として初めてレコード化された。
1944年(30歳):管弦楽曲『兵士の序楽』、『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』、『管絃楽のための音詩「寒帯林」』。
1945年(31歳):宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務し、放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、それが原因で放射線障害を発症する。
1946年(32歳):自宅で静養中、映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良町に転居。その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆の招聘により作曲科講師に就任。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』。

この作曲科では、芥川也寸志、黛敏郎などを初めて担当。その後も松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育てた。

1947年(33歳):東京都世田谷区に転居。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。 バレエ曲『エゴザイダー』。
『交響譚詩』などの業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞。
1948年(34歳):『ヴァイオリン協奏曲』、バレエ音楽『さ迷える群像』、バレエ音楽『サロメ』。
1949年(35歳):父・利三死去。
独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』、バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』、バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』。
1950年(36歳):バレエ音楽『プロメテの火』を作曲。
1951年(37歳):『音楽入門』(要書房)を刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』。
1952年(38歳):『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』がジェノヴァ国際作曲コンクール入選。
1953年(39歳):東京音楽学校が新制大学に移行する際に音楽科講師を退任(新カリキュラムでは生徒数が4倍に増えたため)。バレエ音楽『人間釈迦』。
『管絃楽法』(音楽之友社)を刊行。
ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。
1954年(40歳):映画『ゴジラ』の音楽を担当。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛ける。
管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』、三浦淳史に献呈。
1956年(42歳):『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』、独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』。
1958年(44歳):合唱頌詩『オホーツクの海』。
1960年(46歳):北海道大学合唱団委託作品、独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』。
1961年(47歳):合唱曲『北海道賛歌』。「ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ」。
1965年(51歳):母・キワ死去。
1967年(53歳):ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』(1990年に二十絃箏用に編曲)。
1968年(54歳):『管絃楽法』(音楽之友社)の上巻増補改訂版と下巻を刊行。
1969年(55歳):ギター独奏曲『箜篌歌』。
1970年(56歳):大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を担当。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』。
1972年(58歳):吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』、バレエ音楽『日本二十六聖人』。
1973年(59歳):邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』。
1974年(60歳):東京音楽大学作曲科教授就任。
1976年(62歳):同大学長就任。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』。
1979年(65歳):『ヴァイオリン協奏曲第二番』、二十絃箏曲『物伝舞』。
1980年(66歳):リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』。 紫綬褒章受章。
芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展4 伊福部昭」が開催される。
1982年(68歳):二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』。
1983年(69歳):管弦楽曲『SF交響ファンタジー』。
ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。
1985年(71歳):『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』。
東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。
1987年(73歳):勲三等瑞宝章受章。
1990年(76歳):管絃司判『鞆の音』。
1991年(77歳):『ゴジラVSキングギドラ』で13年ぶりに映画音楽を担当。
1992年(78歳):独唱曲『摩周湖』。
1993年(79歳):交響的音画『釧路湿原』。
1994年(80歳):独唱曲『因幡万葉の歌五首』。
1996年(82歳):日本文化デザイン賞大賞受賞。
1997年(83歳):二十五絃箏曲『胡哦』。
「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団、札幌コンサートホールKitara)開催。
『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演される。
1999年(85歳):二十五絃箏曲『琵琶行』。
2000年(86歳):独唱曲『蒼鷺』、独唱曲『聖なる泉』。
妻・アイ死去。
2002年(88歳):「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団、紀尾井ホール)。
2003年(89歳):チェンバロ独奏曲『小ロマンス』。文化功労者顕彰。
2004年(90歳):「文化功労者顕彰お祝いコンサート」開催(第一生命ホール)。
「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団、サントリーホール)。
2005年(91歳):幼少期を過ごした北海道音更町で、「伊福部昭音楽祭 in 音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催。『管弦楽のための日本組曲』、『リトミカ・オスティナータ』(ピアノ:川上敦子)、『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される。
2006年:前年から体調を崩し、1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院するも、2月8日夜に多臓器不全のため死去。
葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。従四位に叙された。
墓所は鳥取市国府町の宇倍神社にある。
 

2.代表的な作品

2.1 日本狂詩曲(1935年)
 伊福部昭の出世作となったチェレプニン作曲賞受賞作。翌1936年にファビエン・セヴィツキー指揮ボストン・ピープルズ交響楽団によって初演され、セヴィツキーに献呈されている。
 もともと3楽章構成であったが、チェレプニン賞の応募規定に合わせて第1楽章を除外した2楽章構成とし、そのまま初演・出版された。「幻の第1楽章」は後の「交響譚詩」に流用したという。
 第1曲「夜曲」
  小太鼓の「お座敷」風のオスティナート・リズムに乗って、うら寂しい「飲み屋横丁」の雰囲気を漂わせる。
 第2曲「祭」
  変拍子の強烈なリズムが支配する「お祭り騒ぎ」。

2.2 土俗的三連画(1937年)
 チェレプニン賞を受賞した翌1937年に、チェレプニン本人が来日し、伊福部は短期間個人教授を受けた(チェレプニンは横浜のホテル・ニューグランドに滞在し、そこで教わったらしい)。  その成果・返礼として書かれ、前作「日本狂詩曲」が3管編成の大規模管弦楽用だったのに対して、1管編成の小規模なスタイルで書かれている。
 曲は1937年に作曲され、初演は1939年に小船幸次郎指揮日本交響楽団(現NHK交響楽団)によって行われた。
 第1楽章「同郷の女たち」Payses - Tenpo di JIMKUU
  「JIMKUU」とは厚岸地方のアイヌの律動を表わすものらしい。
 第2楽章「ティンべ」TIMBE non regional
 「ティンべ」は厚岸地方の岬の名前。ホルンが都節(陰旋法)の旋律を演奏する。
 第3楽章「パッカイ」PAKKAI chant d'AINO
 「パッカイ」はアイヌ語で「背負う」という意味で、古老が酔うと必ず歌い踊る曲という。

2.3 交響譚詩(1943年) BALLATA SINFONICA
 放射線障害で急逝した2歳年上の次兄・勲の追悼として作曲された。ビクターの作曲コンクールで第1位・文部大臣賞を受賞し、山田和男指揮東京交響楽団により伊福部の作品として初めてレコード化された。
 そのSPレコードの解説には「第1譚詩は『早春の譚詩』、第2譚詩は『晩秋の譚詩』と呼びうる」と書かれていた。
 「譚詩」は「バラード」の訳語。

 太平洋戦争後、1946年に札幌から日光に転居する日、札幌放送局がこの曲のレコードをかけてくれて、それを駅に向かう街頭で聴いた記憶があるそうです。

 第1譚詩:Prima Ballata : Allegro cappriccioso
  ゆくゆくは交響曲を書きたいということで、ソナタ形式で作ったという。
  変拍子で律動的な第1主題と、抒情的な第2主題から成る。
 第2譚詩:Seconda Ballata : Andante rapsodico
  もともと「日本狂詩曲」の第1楽章として作って除外した「じょんがら舞曲」の素材を使っているという。オーボエのうら悲しい序奏の後に「じょんがら舞曲」が登場する。   詩吟の詠唱のような中間部を経て、再び「じょんがら舞曲」が戻る三部形式。

2.4 タプカーラ交響曲(シンフォニア・タプカーラ)(1954/79)
 「タプカーラ」とは、アイヌが酒宴の席で「立って踊る」という意味の舞踊で、アイヌの踊りの中では特に格の高いものだという。第3楽章がこの「タプカーラ」のリズムで、4拍目に足で地面を踏み鳴らす「強く長い」アクセントがあるという。
 伊福部が初めて「交響曲」というタイトルで発表した作品。
 東京藝大の講師を辞した翌年の1954年に完成し、翌1955年にフェビアン・セヴィツキ指揮インディアナ交響楽団によって初演された。
 その後1980年に改訂され、改訂初演は芥川也寸志指揮新交響楽団によって行われた。
 親友の三浦淳史に献呈されている。

 第1楽章:ソナタ形式風(伊福部自身は「ソナタ形式ではない」という)。
  序奏部は1980年の改訂で追加された。序奏後、リズミカルな第1主題、弱音器付トランペットによるゆるやかな第2主題。展開部は第2主題に基づき、第1主題は再現部で現れる。
 第2楽章:三部形式の緩徐楽章。
 第3楽章:ヴィヴァーチェ。アイヌの舞り「タプカーラ」のリズムによるフィナーレ。カノン風の中間部をはさみ、「タプカーラ」が再現して狂乱のうちに終わる。

2.5 リトミカ・オスティナート(1961年)
 形の上ではピアノ協奏曲であり、「リトミカ・オスティナートとは、執拗に反復される意です」と作曲者が述べているように、ホルンの呼出しのような短い導入の後に現われる変拍子の主題を執拗に繰り返していく。
 単一楽章の形式であるが、アレグロの部分Aとアダージョの部分Bが「A-B-A-B-A」という形で構成される。
 アダージョの部分は雅楽的である。
 初演は金子裕のピアノ、上田仁指揮東京交響楽団によって行われた。

2.5 オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ(1979年)
 新星日本交響楽団の創立10周年の記念作品として作曲された。
 片山杜秀氏はこれが伊福部の「春の祭典」だと、どこかに書いていました。
 

3.CD情報

伊福部昭/タプカーラ交響曲、土俗的三連画、日本狂詩曲、他 芥川也寸志、山田一雄、井上道義、他(2CD)

日本作曲家選輯・伊福部 昭/シンフォニア・タプカーラ、SF交響ファンタジー第1番(Naxos)

伊福部 昭の純音楽(3CD)

『伊福部昭の管絃楽』 岩城宏之&東京都響、安倍圭子、森正&ABC響、小林武史(2CD)

伊福部昭:日本狂詩曲 若杉弘&読売日本響、有馬礼子:交響曲第1番『沖縄』 内藤彰&東京ニューシティ管

協奏四題 井上道義&東京交響楽団、高田みどり、山根一仁、野坂操壽、山田令子

七ツのヴェールの踊り ― バレエ・サロメに依る〜伊福部 昭 作品集/野坂惠子

伊福部昭/ SF交響ファンタジー全曲 広上淳一・指揮/日本フィル
 

4.参考文献

・Naxos 日本作曲家選輯シリーズCD解説

「伊福部昭: ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠」(文藝別冊/KAWADE夢ムック) 河出書房新社 (2014/5/31)

片山 杜秀・著「大楽必易:わたくしの伊福部昭伝」新潮社 (2024/1/31)

伊福部昭・著「音楽入門 」(角川ソフィア文庫) KADOKAWA/角川学芸出版 (2016/6/18)

伊福部昭「交響譚詩」(ミニチュアスコア)音楽之友社 (2000/9/1)
 


HOMEにもどる