瀧 廉太郎(1879〜1903)  〜早すぎた天才作曲家の死〜

2024年 4月 5日 初版作成


 「花」(春のうららの墨田川・・・)、「荒城の月」、「箱根八里」などで知られる瀧 廉太郎について。

瀧 廉太郎(1879〜1903)



1.略歴

1879年(明治12年):8月24日、旧日出藩士の子として東京に生まれる。(瀧家は藩の家老職を務めた上級武士)
 父は新政府の内務官僚となり、父親の転勤で小学校をいくつか転校。オルガンやアコーディオンを演奏した。
1894年(15歳):東京音楽学校に入学。
1898年(19歳):東京音楽学校の本科を卒業し、研究科に進むとともに嘱託教師としてピアノを教える。
 ピアニストとしてはラファエル・フォン・ケーベルに師事し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いた。
1900年(21歳):麹町の博愛教会にて、立教大学初代学長を務めた元田作之進からキリスト教の洗礼を受けクリスチャンとなる。
 日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲「メヌエット」を作曲。
日本独自の唱歌が求められるようになり、第1曲「花」を含む組歌「四季」を作曲し、「お正月」「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」などとともに文部省編纂(瀧廉太郎が編集者)の「幼稚園唱歌」に収められた。
 また「荒城の月」「箱根八里」を発表し文部省編纂の「中学唱歌」に収められた。
1901年(22歳):ドイツに留学し、ライプツィヒ音楽院でピアノ、作曲、音楽理論を学ぶ。
 入学から5か月後に肺結核が判明して入院。
1902年(23歳):ライプツィヒ音楽院を退学して帰国し、父の故郷大分で療養する。
1903年:死の4ヶ月前に最後の作品としてピアノ曲「憾(うらみ)」を作曲。
 6月29日、大分で逝去、まだ若すぎる満23歳。

代表作

・歌曲が中心である。

組歌「四季」(1900年)
1. 武島羽衣作詩「花」
2. 東くめ作詩「納涼」
3. 瀧廉太郎作詩「月(秋の月)」
4. 中村秋香作詩「雪」

ピアノ曲「メヌエット」(1900年)

ピアノ曲「憾(うらみ)」(1903年)



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