アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(1903〜1978)は、現在のジョージア出身のアルメニア人で、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフと並ぶソヴィエト連邦の代表的作曲家です。(他の作曲家はほとんど知らないので、おそらく「御三家」といってよいでしょう)
ショスタコーヴィチとほぼ同じ時代を生き、1948年の「ジダーノフ批判」の対象となりながらも、コーカサス(カフカス)由来の民族的な作風から「社会主義リアリズム」(「形式においては民族的、内容においては社会主義的」とされた)の代表選手とみなされ、さらに同じジョージア出身のスターリンとは「同郷人」であったことから、厳しい批判や攻撃の対象にはならなかったようです。(そのため、スターリン没後、スターリン批判後は目立った活躍をしていない)
昔は(いつの話だ?)、「剣の舞」を含むバレエ組曲「ガイーヌ」を小学校か中学校の音楽の時間に鑑賞したような記憶がありますが、最近はそんなこともないのでしょう。特にソ連崩壊以降は。
ということで、日本人にはあまりご縁のなくなったハチャトゥリアンについて、簡単にまとめてみました。
アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(1903〜1978)
Aram Ili'ich Khachaturian
モスクワの「芸術家の家」アパート裏の公園にあるハチャトゥリアンの像
この「芸術家の家」アパートにはハチャトゥリアンやショスタコーヴィチが住んでいました。
1.簡単な生涯
1903年:当時ロシア帝国内であったグルジア(現ジョージア)のティフリス(現在のトリブシ)で、アルメニア人の製本工の息子として生まれた。特に音楽教育は受けず、コーカサス地方で民族音楽に親しみながら育った。
1921年(18歳):大学入学のためモスクワに向かう途上に演奏会に出たのがきっかけで音楽の才能を認められ、音楽の勉強を正式に始める。
1922年(19歳):グネーシン音楽専門学校のチェロ科、作曲科に入学。
1929〜1934年(26〜31歳):モスクワ音楽院でミャスコフスキー、ワシレンコなどに学ぶ。
1933年(30歳):ミャスコフスキーの弟子であったニーナ・マカロワと結婚。
1934年(31歳):モスクワ音楽院の卒業作品として「交響曲第1番」を作曲。
1936年(33歳):ピアノ協奏曲 変ニ長調。初演は翌1937年にピアニストのレフ・オポーリンによって行われ好評を博す。1940年にイギリス、1942年にアメリカでも初演され、国際的にも注目される。
この年の1月、共産党機関紙「プラウダ」にショスタコーヴィチの歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を批判する記事「音楽ではなく荒唐無稽」が掲載され、芸術文化統制が始まる。
1939年(36歳):バレエ音楽「ガヤーネ(ガイーヌ)」を作曲。初演は1942年に疎開中のキーロフ・バレエによる。1943年には組曲(No.1〜3)が作られた。
1940年(37歳):ヴァイオリン協奏曲、劇付随音楽「仮面舞踏会」を作曲。
1943年(40歳):交響曲第2番「鐘」を作曲。
1944年(41歳):アルメニア社会主義共和国・国歌を作曲(1991年に廃止)。
1948年(45歳):スターリン主義的文化政策の中心ジダーノフによる音楽批判(ジダーノフ批判)の対象となり、「形式主義的退廃音楽家」とされる。(1959年に名誉回復)
1953年(50歳):スターリン死去に伴い、作曲活動の自由を求める論文「創造の大胆さとインスピレーションについて」(社会主義リアリズム音楽理論の発展)を公表。
1954年(51歳):バレエ音楽「スパルタクス」を作曲。翌1955年に組曲を作成、バレエ初演は1956年にモスクワ・ボリショイ劇場。
1956年(53歳):グネーシン音楽学校とモスクワ音楽院で教授。
1963年(60歳):来日。京都市交響楽団、結成直後の読売日本交響楽団を指揮。
1978年(75歳):没。
2.代表的な楽曲
2.1 交響曲
3曲の交響曲を作曲しています。
(1) 交響曲第1番(1934)
モスクワ音楽院の卒業作品で、31歳の1934年に作曲。
初々しくも、コーカサスの民族音楽的な部分が多く、色彩的なオーケストレーションになっています。しかし、ずーっとハイテンションが続くの、聴き通すのは疲れます。
3楽章構成で、演奏時間は約45分。
(2) 交響曲第2番「鐘」(1943)
ドイツとの「大祖国戦争」のさなか、40歳の1943年に作曲。元気のよい楽天的で明解な曲風。翌1944年に改訂され、1946年にはスターリン賞第1席を受賞しています。
4楽章構成で、演奏時間は約50分。
ショスタコーヴィチの第7番「レニングラード」、第8番、プロコフィエフの第5番とほぼ同時期で「戦争交響曲」の範疇に含まれます。第3楽章の中間部に「怒りの日」の主題が登場します。第1楽章冒頭と、第4楽章終盤に登場するチューブラベルの響きから、作曲後に音楽評論家から「鐘」というた表題が付けられたようです。
(3) 交響曲第3番ハ長調「シンフォニー・ポエム」作品67(1947)
大祖国戦争後の1947年に、革命30周年を記念して作曲。冒頭、独奏トランペット15本によるファンファーレとオルガンによるトッカータ風の部分が延々と続きます。静まると、朗々とした映画音楽のような部分が展開されます。最後は民族舞曲的に盛り上がって、金管や打楽器、オルガンも加わって壮大に幕を閉じます。
単一楽章構成で、演奏時間は約25分。
これを交響曲と呼ぶのでしょうか。
ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア国立管の2017年の演奏。
2.2 バレエ音楽
ハチャトゥリアンで最も有名なのはこの分野でしょう。
(1) バレエ音楽「ガヤーネ」(ガイーヌ)(1939)
ハチャトゥリアンの最大の代表作でしょう。もともとは36歳の1939年に作曲され、スターリンが推し進めた農業の集団化による集団農場「コルホーズ」を舞台にした愛国&恋愛物語でした。
スターリン賛美の内容からソ連以外で上演されることはなく、スターリン没後の1957年には脚本・ストーリーが大幅に改訂されて再演されました(これを「ボリショイ劇場版」と呼ぶ)。ストーリー・振り付けを大幅に変更し、曲順や曲の入れ替え(追加・削除)も行われたようです。
私がCDで持っているロリス・チェクナヴォリアン指揮ナショナル交響楽団の演奏は「オリジナル版」に基づく全曲版ですが、「1957年のボリショイ劇場版」によるものも出ています。
1943年には作曲者自身により組曲(No.1〜3)が作られました。ただし、実際に演奏されるのは「第〇組曲」というよりはさらにその中から選んだ抜粋版が多いようです。(おそらく演奏時間や楽器編成、演奏効果などの観点から)
(2) バレエ音楽「スパルタクス」(1954)
1954年(51歳)の作曲。翌1955年に組曲を作成、バレエ初演は1956年にモスクワ・ボリショイ劇場で行われたようです。
こちらは、現代ソヴィエトではなく、古代ギリシャに題材を得たバレエで、スターリン没後の政治的な影響をかわす目的だったのでしょうか。
2.3 管弦楽曲
(1) 「仮面舞踏会」組曲(1940)
バレエ音楽「ガイーヌ」以外で最も演奏されるのは劇付随音楽「仮面舞踏会」からの組曲でしょうか。
1940年、37歳のときにレールモントフ作の戯曲のための付随音楽として作曲され、全14曲からなります。劇付随音楽としての初演は翌1941年、その後1944年に5曲からなる「組曲」を再編成しました。この5曲の組曲として、あるいはその中から抜粋して演奏されることが多いです(特に「ワルツ」)。
2.4 協奏曲
(1) ヴァイオリン協奏曲(1940)
昔からこの協奏曲が好きでした。ハチャトゥリアンらしい、民族色にあふれた曲で、ダヴィッド・オイストラフが初演して十八番にしていました。
骨太のたくましく、相当に土臭い曲です。
ハチャトゥリアンの特徴がよく出た曲であり、もっと演奏されてもよい曲だと思います。
伝統的な3楽章構成で、演奏時間は約40分。
セルゲイ・ハチャトゥリアンのヴァイオリン、トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル管の演奏。
フルート奏者ジャン・ピエール・ランパルの依頼で、新たにフルート協奏曲を作曲するのではなく、この曲を書き換えて「フルート協奏曲」としました。ランパルや、ジェームズ・ゴールウェイ、エマニュエル・パユなどの録音があります。
やはりヴァイオリンの野太い音の方が。この曲には向いていると思います。
(2) ピアノ協奏曲 変二長調 作品38(1936)
ハチャトゥリアン33際のときの曲で、国際的にも演奏されて出世作になりました。
これも民族的で濃厚な曲で、響きはプロコフィエフの作風に近いようです。
第2楽章に「フレクサトーン」という特殊な楽器が使われます。
伝統的な3楽章構成で、演奏時間は約40分。
ジャン・イヴ・ティボーテのピアノ、山田和樹指揮パリ管の演奏。これにはフレクサトーンは映っていないようです。
フレクサトーンの演奏が映っているのは、下記の 17'40" あたりから。
ハチャトゥリアン・ピアノコンクール 2023 の演奏。
(3) チェロ協奏曲(1946)
チェロ奏者のスヴャトスラフ・クヌシェヴィツキーのために作曲し、クヌシェヴィツキーが初演しました。
戦争の重苦しい空気を引きずっており、第1楽章の第2主題の中に「怒りの日」らしきモチーフが現れます。
全体の重苦しい曲想と、民族的というよりは「モダン」な曲調から、作曲直後の1948年に始まる芸術統制いわゆるジダーノフ批判の対象となりました。
現在ではあまり演奏されません。
デニス・シャポバロフのチェロ、フェドセーエフ指揮チャイコフスキー交響楽団の2003年の演奏。
