コダーイのガランタ舞曲 〜 コダーイ・ゾルタンのちょっと寄り道

2026年 9月 11日 初版作成

 次の定演(第94回)で、コダーイ作曲の「ガランタ舞曲」を演奏します。
 コダーイを演奏するのは初めてです。
 コダーイ・ゾルターン(Kodaly Zoltan, 1882〜1967)は、ハンガリーの作曲家、民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者です。
 ハンガリーの作曲家といえば、まず出てくるのはバルトーク。
 その次にコダーイでしょうか。
 でも、バルトークはあまり知らない、ましてやコダーイはほとんど知らない、という人が多いのではないでしょうか。

 ということで、ハンガリーの作曲家コダーイ・ゾルターンについて少しまとめてみます。

 なお、ハンガリーでは、他の西欧と違って、日本と同じ「姓→名」の順序で名前を表記します。
 従って「コダーイ(姓)・ゾルターン(名)」。
 同様に、バルトークも「バルトーク(姓)・ベーラ(名)」

 本人は「ハンガリー人」と自称する、ドイツ風には「フランツ・リスト」は、ハンガリー風には「リスト(姓)・フェレン(名)ツ」。

 作曲家ではあまり多くを知らないハンガリーですが、指揮者に関して多数輩出しています。
 古くは、アルトゥール・ニキシュ、ハンス・リヒターから始まり、ヤーノシュ・フェレンチク、イシュトバン・ケルテス、フェレンツ・フリッチャイ、ゲオルグ・ショルティ、ユージン・オーマンディ、ハンス・スワロフスキー、ジョージ・セル、アンタル・ドラティ、フリッツ・ライナーなど・・・。
 けっこうな大家が並んでいますね。

 コダーイ・ゾルタン(1882〜1967)



1.コダーイの略歴

 コダーイの略歴をまとめておきましょう。

1882年12月16日:オーストリア帝国のハンガリー王国ケチケメートの鉄道駅員宿舎に生まれ、父の転勤に伴って幼少時代の多くをガランタとナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)で過ごした。
父親はヴァイオリン、母親はピアノを弾く熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子供の頃からヴァイオリンの学習を始める。聖歌隊で歌い、また曲を書いたこともあったが、系統的な音楽教育を受けることはほとんどなかった。

1900年(17歳):ブダペスト大学のハンガリー語・ドイツ語学科に入学し、同時にブダペストのハンガリー王立音楽院(現在のリスト・フェレンツ音楽大学)で音楽を学んだ。
そこでコダーイはハンス・ケスラーに作曲について学んだ。ドイツ人のケスラーは、マックス・レーガーの従兄で、ブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家であった。

1905年(22歳):田舎の村を訪れて民謡の収集を始める。
1906年(23歳):ハンガリー民謡に関する論文「ハンガリー民謡の詩節構造」を書く。
この頃、コダーイは後に妻となるシャーンドル・エンマと出会う。さらにエンマを通じて生涯の僚友となるバルトーク・ベーラに会い、彼にハンガリー民謡の手ほどきをした。2人は共に民謡集の出版を手がけた。 哲学と言語学において博士号を授かると、コダーイはパリへ行き、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、その影響を受ける。
1907年(24歳):ブダペストに戻り、ブダペスト音楽院教授となる。
1909年(26歳):弦楽四重奏曲第1番 Op.2。
1910年(27歳):19歳年上のエンマと結婚。
チェロ・ソナタ Op.4。
1911年(28歳):バルトークが歌劇「青ひげ公の城」を作曲。

1914年(31歳):ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 Op.7。
1915年(32歳):無伴奏チェロ・ソナタ Op.8。
1918年(35歳):弦楽四重奏曲第2番 Op.10。

1923年(40歳):ブダペスト合併50周年記念の演奏会で「ハンガリー詩篇」Op.13 が初演され大成功を収める。この後、コダーイは自作の指揮でヨーロッパ中を巡る。
1925年(42歳):児童向け合唱曲 「ごらん、ジプシーがチーズを食べている」の作曲をきっかけに、コダーイは音楽教育に大きな興味を持つようになる。教育用の曲を多数書き、同様に書物も出版する。この分野におけるコダーイの研究はハンガリー内外を問わず音楽教育に重大な影響を与え「コダーイ・メソッド」と呼ばれた。
バルトークがパントマイムのための「中国の不思議な役人(不思議なマンダリン)」を完成。
1926年(43歳):オペラ「ハーリ・ヤーノシュ」Op.15 を作曲。オペラそのものの上演は少なかったが、その中からの組曲が有名となった。
このような作曲活動と平行して引き続きハンガリーの村々を回り、民謡を収集・録音する作業を続け、民俗音楽における多数の論文を執筆し、また民謡に基づく合唱を作曲していった。
この頃から、民謡の編曲と区別するために付けていた「作品番号」を使わなくなる。
1930年(47歳):ブダペスト大学の哲学科で学生に講義を行い、その中の討論で民俗音楽の歴史と意義についての議論を深めていった。

1933年(50歳):「ガランタ舞曲」。
1936年(53歳):バルトークがパウル・ザッハーの委嘱で「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」を作曲。
1939年(56歳):「ハンガリー民謡『孔雀は飛んだ』による変奏曲」、「管弦楽のための協奏曲」。
1940年(57歳):バルトークが親ナチス政権を嫌ってアメリカに移住。
1942年(59歳):教職から退く。ナチス・ドイツを支持する政権のもとでの第二次世界大戦中もブダペストに残り、戦争中は「いくさ歌」や「神の奇跡」などペテーフィ・シャーンドルの愛国・革命の詞に対して数曲の作曲をする。ブダペストで戦闘が始まると、修道院に待避し、そこでオルガン曲のミサ・ブレヴィスを合唱・独唱・オーケストラ用に編曲した。

1945年(62歳):ハンガリー国民芸術会議の議長。共産政権誕生後もハンガリーにとどまる。
アメリカでバルトークが白血病で死亡。

1956年(73歳):ハンガリー動乱。
1958年(75歳):妻エンマが亡くなる。
1959年(76歳):当時19歳でリスト・フェレンツ音楽院の学生だったピーツェリー・サロルタと再婚。
1960年(77歳)〜1966年(83歳):毎年、海外に長期旅行し、様々な講演や会議への出席。
1961年(78歳):交響曲ハ長調『アルトゥーロ・トスカニーニの思い出のために』。
1962年(79歳):ハンガリー人民共和国の勲位を受ける。コダーイはその他に国際民族音楽評議会会長、国際音楽教育協会名誉会長の職につく。

1967年3月8日(84歳):コダーイ死去。ブダペストのファルカシュレート墓地に埋葬された。
 

2.代表的な作品

(1) 歌劇「ハーリ・ヤーノシュ」Op.15

 コダーイのもっとも有名な作品は、組曲「ハーリ・ヤーノシュ」でしょう。
 もともとは、ハンガリーの民話に基づくオペラで、セリフと歌とで進められるハンガリーに古くからある「歌芝居」の形式ということらしいです。
 最初に1926年に作曲されたものの、上演の制約などから順次追加・改訂が行われたようです。
 また、その中からの抜粋し、新たに序曲を追加した組曲が1927年に作られました。

 オペラは、ホラ吹き老人の盛りに盛った昔語りで、ナポレオン戦争のときの「4つの冒険」を含む4幕からなります。

第1幕〜プロローグ:物語のはじまり
 ハンガリーの片田舎の酒場で、老人ハーリ・ヤーノシュが、常連客や学生を相手に、ナポレオン戦争のときの武勇伝を語り始める。
 ハンガリーでは「話を聞いた人がくしゃみをしたら、その話は真実だ」という言い伝えがあり、オペラの序曲の冒頭は「くしゃみ」で始まる。

第1の冒険:ロシアとの国境地帯
 ロシアとの国境地域に駐屯していたハーリは、ナポレオンの妃でありオーストリア皇帝の娘であるマリー・ルイーズが里帰りでウィーンに向かうのを手助けして国境を通過させた。そこでマリー・ルイーズに惚れられ、ウィーンに来てオーストリア皇帝軍に加わるよう頼まれる。

第2幕〜第2の冒険:ウィーン・ブルク王宮の庭園にて
 ハーリはウィーンにやって来て、荒馬を乗りこなしたり、皇帝の通風を直したりして、オーストリア軍の大佐に任命される。

第3幕〜第3の冒険:イタリア・ミラノ近郊の戦場
 イタリアのロンバルディアでナポレオン軍と戦い、最後はナポレオンと一騎打ちで勝利する。ナポレオンに愛想をつかしたマリー・ルイーズはハーリに言い寄る。

第4幕〜第4の冒険:ウィーンのブルク宮殿
 ウィーンで戦勝の祝宴が開かれ、ハーリはオーストリア皇帝からもマリー・ルイーズとの結婚を勧められるが、婚約者がいると断り、除隊を申し出て許される。 誇り高きハンガリー人を讃える合唱の中、ハーリはウィーン宮廷を去る。

エピローグ:ハンガリーの田舎の酒場
 最初の酒場の場面に戻り、聞き手は誰一人その話を信用しないが、事実の証人は女房だけだ(上の話での故郷の婚約者で、既に他界しているらしい)とうそぶいて幕となる。

コダーイ自身が、オペラの中から6曲を選んで管弦楽組曲としています。
第1曲:前奏曲、酒飲み話は始まる (「プロローグ」より、くしゃみから始まる)
第2曲:ウィーンの音楽時計 (第2の冒険より)
第3曲:歌 (第1の冒険、ハーリと婚約者の二重唱より。民俗楽器ツィンバロンを使用)
第4曲:戦争とナポレオンの敗北 (第3の冒険より)
第5曲:間奏曲 (第1幕と第2幕との間奏曲。ここでもツィンバロンが活躍)
第6曲:皇帝と廷臣たちの入場 (第4の冒険より)

 組曲の録音は多いですが、ツィンバロンという特殊楽器を使うため、実演で演奏される機会は少ないです。
 オペラ全曲の録音は、英語のナレーションとともにイシュトバン・ケルテスがロンドン交響楽団を指揮したものがあります。
 

(2) ガランタ舞曲

 ブダペスト・フィルハーモニック協会の創立80周年記念のために委嘱され、1933年に作曲されました。
 素材に使われたのは、コダーイが幼年時代を過ごしたガランタ地方(現在はスロヴァキア)の民謡で、1800年代の初めにウィーンで出版された「ガランタ・ジプシー音楽集」という曲集から、ハンガリーの新兵徴募の踊りであるヴェルブンコシュの音楽とジプシーの演奏スタイルを取り合わせたものとなっています。
 曲は、1933年に、エルンスト・フォン・ドホナーニ指揮のブダペスト・フィルによって初演されました。(指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニは、この初演指揮者の孫です)

 曲は次の部分からなります。

導入部:最初にチェロ、続いてホルン、オーボエ、クラリネットに主題が提示され、クラリネットのカデンツァを経て第1舞曲に入る。
第1舞曲:導入部で提示された主題が、こぶしのような装飾とルバートを伴いながら繰り返される。
第2舞曲:弦のピツィカートに乗ってフルートの飛び跳ねるような主題が提示される。第1舞曲の再現をブリッジとして、第3舞曲に進む。
第3舞曲:オーボエによるのどかな主題で始まり、ところどこと突然速いテンポになる部分をはさみ、重々しい第1舞曲の再現をブリッジに第4舞曲に進む。
第4舞曲:シンコペーションの急くようなリズムの主題。そのまま加速して第5舞曲へ。
第5舞曲:ホルンののっそりした足音の上に、木管がおどけた主題を展開する。中間部は軽やかになるが再びのっそりに戻り、テンポを上げて第6舞曲へ。
第6舞曲:アクセントの付いたシンコペーションと激しい動きの主題。次第にクレッシェンドして興奮度が高まり終結部へ。
終結部:突然静まり、第1舞曲が再現してクラリネットのカデンツァ。これが終わると一層テンポを増した第6舞曲が興奮の坩堝となって終結へ。
 

(3) 「くじゃく」変奏曲

 ハンガリー民謡「クジャクは飛ぶ」に基づく変奏曲で、1938年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の創立50周年記念として委嘱されました。コダーイは、バルトークとともに蒐集した民謡に詩人エディ・アンドレ(1877〜1919)が自由を渇望する詩を付けたものを1937年に合唱曲にしており、その主題と16の変奏曲からなる管弦楽曲にしました。(自由を渇望する詩の内容から、当時のファシスト政権への講義からこの主題を選んだともいわれています。曲そのものには「言葉」はありませんが・・・)
 曲は、1939年にメンゲルベルク指揮のコンセルトヘボウ管弦楽団によって初演されました。

 曲は、主題と16の変奏曲、そして終局とから構成されますが、最初の主題提示は五音音階の主題の一部だけで、「クジャクは飛んだ」の主題全体は終曲になって初めて現われます。
 変奏曲も、始めの方は簡潔で短く、後半になるにつれて長大になって行きます。。
 

(4) 管弦楽のための協奏曲

「管弦楽のための協奏曲」(通称「オケコン」)といえば、もっぱらバルトークの専売特許のように思われていますが、作曲された時期はこのコダーイの方が先です。
 曲は、シカゴ交響楽団創立50周年のために1939〜1940年に作曲されています。
 もともとはコダーイ自身がシカゴに赴いて初演する予定でしたが、第二次大戦のため渡米できず、楽譜は親友バルトークがアメリカに移住する際に携行してシカゴに届けられたようです。なので、バルトークはこの曲の内容を初演以前からよく知っていました。
(バルトークは、1943年にクーセヴィツキーから無期限で条件なしの作曲委嘱を受けたときに、このコダーイの曲に触発されて「管弦楽のための協奏曲」を作曲したのかもしれません)
 曲は5つの部分からなりますが、切れ目なく演奏されます。演奏時間は約20分弱。

 ちなみに、「管弦楽のための協奏曲」という分野は、1925年にヒンデミットが作曲したのが始まりのようで、その後コダーイ、バルトークを経て、ポーランドの作曲家ヴィトルド・ルトスワフスキが1950〜54年に、三善晃が1964年に、大栗裕が1970年に作曲しています。
 

(5) 交響曲ハ長調「アルトゥーロ・トスカニーニの思い出のために」

 コダーイは、1929年にトスカニーニからの勧めに応じて、1906年に作曲した管弦楽曲「夏の夕べ」を改訂し、これをトスカニーニがニューヨーク・フィルで初演して以来、交友関係がありました。トスカニーニはコダーイに交響曲の作曲を勧め、コダーイもそれに応じて構想を持ちスケッチも進めたようですが、なかなか筆が進まなかったようです。1950年代になって、ようやく形になり始めたようですが、1957年にトスカニーニが亡くなり、1961年に完成したときに「アルトゥーロ・トスカニーニの思い出のために」というタイトルを付けました。
 3楽章からなり、演奏時間は約26分。
 初演は、1961年にフェレンツ・フリッチャイ指揮のルツェルン音楽祭管弦楽団によって行われました。
 

3.ハンガリー音楽の特徴

 ハンガリーで話されるマジャール語は、頭にアクセントが来るものが多いらしいです。
 ドイツ語では、冠詞(der, das など)がアウフタクトに来るものが多いですが、ハンガリー音楽ではそれが「強拍」に来るらしいです。

 たとえば、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」でも、第1楽章の最初にフルート、続いてトランペットが提示する主題は譜例1ですが、これをドイツ音楽にすると譜例2のようになるのでしょう。
 音楽表現と「言語」との関係は、けっこう深いものがあるようです。

 譜例1:バルトーク作曲「管弦楽のための協奏曲」第1楽章最初の主題
   (上:フルート、下:続くトランペット)




 譜例2:ドイツの作曲家だったら、こう書いたかも。


 



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