モーツァルトの「リンツ」:使用楽譜と演奏について
2002年8月3日
第48回の定演の「リンツ」で使用するベーレンライター版は、いわゆる「新モーツァルト全集」(以降新版)と呼ばれる原典版です。これは、従来一般に流布していた「旧全集」(以降旧版)にはモーツァルト以降の追加・変更が施されている、ということで、徹底してオリジナルに近い形(すなわち原典)に復元したといわれています。
「新全集」は1960年代から刊行が始まっていたようですが、この「リンツ」に関する限りはスコアの校訂報告日付が1971年になっているのでこの頃刊行されたのでしょう。
従って、皆さんがリファレンスとして聞いている演奏が1970年代後半以降であれば新版による演奏、それ以前であれば旧版による演奏の可能性が大きいと思います。(モーツァルトの名盤と呼ばれるワルターやベームの演奏は当然旧版です)
新版と旧版とでは、アーティキュレーションがかなり違っています。また、強弱の大きな違い(pかfか)がいくつかあります。
ただ、ここで問題なのは、すべて新版どおりに演奏してよいか、ということです。新版の趣旨は、楽譜としてオリジナルに近い形にするということであって、音楽的な妥当性や初演時の音の再現ではない、という点です。つまり、譜面上はモーツァルト直筆や信頼できる写譜に基づくものですが、例えば書き間違いや省略もそのまま復元している、ということです。また、当時は「いちいち譜面に書かなくともこう演奏するのが当たり前」ということもあったでしょう。そういった「解釈」はすべて演奏者に任せて、まずはオリジナルを提示する、というのが原典版の趣旨です。(旧版には、おそらく「こう演奏すべき」という後世の加筆も入っているのでしょう)
脱線しますが、類似の話がブルックナーの原典版にもあります。いわゆる「ハース版」「ノーヴァク版」といわれるものです。(後者の校訂者ノーヴァクは、新モーツァルト全集の編纂にも携わっていて、「レクイエム」の音友版スコア(ベーレンライター版のリプリント)の校訂報告はこのノーヴァクが書いています)
故朝比奈隆氏がこのノーヴァクに会った時の話が下記のホームページに載っています。大阪フィルのヨーロッパ演奏旅行のとき、ブルックナーの終演後ノーヴァクが朝比奈氏に挨拶に来て、朝比奈氏が「今日はハース版で申し訳ない」と言ったら、「そんなことはかまわない。学者はいろいろな資料を探すのが仕事で、演奏家は好きなようにやればよい」と語ったとのこと。
(注:http://www.pluto.dti.ne.jp/~relax/version.htm)
このことから言えるのは、原典版の出版とは別の話として、どう演奏するかは演奏者に任されている、逆を言えば演奏者の責任で判断しないといけない、ということのようです。
ということで、手元にあった旧版(全音版、古い音友版)と新版(ベーレンライター版=現在の音友版)の目立った相違点と、手元にある演奏での聴き比べをしてみました。この結果を表にまとめたものを後に示します。
比較した演奏は下記のとおりです。
クリストファー・ホグウッド指揮/アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(1979年?録音)
オトマール・スイトナー指揮/ドレスデン国立歌劇場管(1968年録音)
ブルーノ・ワルター指揮/コロンビア交響楽団(1960年録音)
この3種類の録音で、ホグウッドはがぜん演奏時間が長くなっています(下記参照)。これは、各楽章の繰り返しを全て実施していること、3楽章ではダカーポした後も全て繰り返していることによります。当時の演奏ではダカーポ後も全て繰り返していたというのが定説らしく、レヴァイン/ウィーンフィルの全集でも全て繰り返しているそうです。このように、オリジナル楽器の使用有無にかかわらず、当時の様式を考慮に入れた演奏を「HIP」(Historically Informed Performance)と呼ぶそうです。ヴァイオリンの両翼配置も、一種のHIPなのでしょうね。
| ホグウッド | スイトナー | ワルター |
第1楽章 | 10分30秒 (提示部返し)
| 10分19秒 (提示部返し)
| 8分39秒 (繰返しなし)
|
第2楽章 | 12分33秒 (前半、後半とも繰返し)
| 7分41秒 (繰返しなし)
| 8分23秒 (繰返しなし)
|
第3楽章 | 4分08秒 (ダカーポ後も繰返し)
| 4分00秒 (ダカーポ後繰返しなし)
| 4分15秒 (ダカーポ後繰返しなし)
|
第4楽章 | 10分55秒 (前半、後半とも繰返し)
| 7分43秒 (前半を繰返し)
| 5分40秒 (繰返しなし)
|
合計 | 38分06秒 | 29分43秒 | 26分57秒 |
聴いてみる限り、ワルターは明らかに旧版、ホグウッドは新版です。ただし、新版を使っているはずのホグウッド盤も、明らかに新版に従っていないところが結構ありました。スイトナーは演奏を聴く限り旧版ですが、新版に近いところが結構あります。部分的に、新版の研究成果を取り入れていたのでしょうか。
(ただし、聴き間違い、聴きもらし、勘違い、幻聴があるかもしれませんので、正確さは保証できません。万一本記事に起因する損害が発生しても、当方は一切の責任を負いかねます。)
あなたのリファレンスの演奏ではどうか、じっくりと聴いてみてはいかがでしょうか。
ということで、YPOがどう演奏するのかは、指揮者、トレーナーとよく相談して決めましょう。なお、同じベーレンライター版といっても音友版のポケットスコアと指揮者用スコアとで食い違いもあるようですので、要注意です。
(以下、見にくい表ですみません)
第1楽章
小節数 | 新版(ベーレンライター版:1971 =音友版:1974)
| 旧版(全音、 音友旧版:1956)
| ホグウッド (1979) | スイトナー (1968) | ワルター (1959) | 備考 |
16,17 | 1拍目裏:fp (1拍目はpのまま)
| 1拍目:f、 1拍目裏から: p
| 新版 | 全てp | 旧版 | |
18 | 拍の裏がfp | 拍の表がfp | 新版 | ほとんどfpなし (全てp) | 旧版 | |
48,191 | Hrは2分音符 | 左記は全音符 | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
81〜83 227〜229 | Ob,Fgの1,2拍目にスラーなし | 左記あり | 旧版 | 旧版 | 旧版 | |
85,86 231,232 | Vn-1,2:85はスラーあり、 86はスラーなし (231,232も同じ)
| 85,86ともスラーあり (231,232も同じ)
| 旧版 | 旧版 | 旧版 | |
111,114 (257,260)
| 111:低弦のみ3連符 113:全て3連符 (257,260も同じ)
| 111:全て16分音符 113:全て3連符 (257,260は新版と同じ)
| 判別不能(新?) | 判別不能(旧?) | 判別不能(旧?) | |
112,115 258,261
| 8分音符にスラーなし | 左記あり(4つずつ) | 新版 | 新版 | 旧版 | |
127 | 1,2拍間はスラーなし | 左記あり (小節全体にスラー)
| 新版 | 旧版 | 旧版 | |
138,139 | f | fなし(まだp) | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
228 | Vn-1,2のアーティキュレーション 相違 | 新版とは違う形でVn-1,2は一致 | 判別不能 | 判別不能 | 判別不能 | 新版は疑問 |
231 | 3,4拍目のObは4分音符 | 左記は8分音符 | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
第2楽章
小節数 | 新版(ベーレンライター版:1971 =音友版:1974)
| 旧版(全音、 音友旧版:1956)
| ホグウッド (1979) | スイトナー (1968) | ワルター (1959) | 備考 |
5,7 (70,72) | fpなし (pのまま) | fp | 新版 | 旧版 (軽いfp ) | 旧版 | |
5,7 | 4拍目Timpなし | 左記あり | 判別不能 | 判別不能(旧?) | 判別不能(旧?) | |
11,21 76 | ターンなし | Vn-1にターンあり (ただし88にはなし) | 新版 | 新版 | 旧版 | |
18,24 85,92 | ずっとp (次の小節でf) | 4拍目からf (85のみクレッシェンド) | 新版 | 全てクレッシェンド (全て85と同じ) | 旧版 | |
26 | 16分音符6つのうち初めの 2つのみにスラーあり | 16分音符6つにスラーあり | 新版 | 新版 | 旧版 | |
27,49, 54,95 | 4拍目のみスラーあり | 4〜6拍全体にスラーあり | 旧版(注) | 4,5拍間にスラー | 旧版 | 注:27(実音符)と 29(装飾)を区別 |
29,31, 97,99 | 4〜6拍にスラーなし (装飾音符のみスラー) | 4〜6拍全体にスラーあり | 新版(注) | 4,5拍間にスラー | 旧版 | |
42〜44 | ずっとp | 45の1拍目までf | 新版 | 旧版 (42、44でfp程度) | 旧版(ただし、 43でp→クレシェンド) | |
55,57 | Vn-1の上昇音形はスラー | 左記はスタカート | 旧版 | 旧版 | 旧版 | 新版は疑問 |
89 | fpなし(pのまま) 3拍目トリルあり | fp、3拍目トリルなし | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
92 | Tr, Timp は8分音符3つ | 左記は付点4分音符 | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
101 | Vn-2にスラーなし | Vn-2にスラーあり (103にはスラーなし) | 新版 | 新版 | 新版 | 旧版は間違い? |
後半 (37〜104) | 繰り返しあり | 繰り返しなし | 繰り返している | 繰り返していない | 繰り返していない | |
第3楽章
小節数 | 新版(ベーレンライター版:1971 =音友版:1974)
| 旧版(全音、 音友旧版:1956)
| ホグウッド (1979) | スイトナー (1968) | ワルター (1959) | 備考 |
6,8,24 | Hrにスラーなし | Hrにスラーあり | 旧版 | 旧版 | 旧版 | |
9,17,31 | 8分音符2つずつスラー | 8分音符6つ全体スラー | 旧版 | 旧版 | 旧版 | |
11〜14 | 低弦にスラーなし | 左記にスラーあり | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
41,43 | 1,2拍目にスラー (42,44と同じ) | 2,3拍目にスラー (42,44と異なる) | 旧版 | 旧版 | 旧版 | |
47 | Ob,Fg,Vn-1,2にスラーなし | 左記に2つずつスラーあり | 旧版 | 旧版 | 旧版 | 新版は疑問 |
53 | Vn-1の3拍目が独立してスラー | 8分音符6つ全体スラー | 判別不能 | 判別不能 | 判別不能 | 新版は疑問 |
第4楽章
小節数 | 新版(ベーレンライター版:1971 =音友版:1974)
| 旧版(全音、 音友旧版:1956)
| ホグウッド (1979) | スイトナー (1968) | ワルター (1959) | 備考 |
3,234 | Vn-1,2にスラーなし | 左記に2つずつスラーあり | 旧版 | 旧版 | 旧版 | |
9,17 240,248 | スラーなし | スラーあり | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
11,19 242,250 | 1拍目表と裏にスラーなし | 左記にスラーあり | 新版 | 新版 | 旧版 | |
42〜43 | Vn-1の小節またがりにタイなし | 左記にタイあり | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
61〜62 69〜70 296〜297 304〜305 | Vn-1の小節またがりにタイなし | 左記にタイあり | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
65 | 2拍目にスラーなし | 2拍目にスラーあり | 新版 | 新版 | 旧版 | |
76,80,84 | 木管は4分音符 (88のみ2分音符) | 木管も2分音符 | 旧版(?) | 旧版 | 旧版 | |
124,126 359,361 | 低弦にスラーなし (125,127はスラーあり) | 左記にスラーあり (124〜127同じパターン) | 新版? | 旧版 | 旧版 | |
150,152,154 385,387,389 | Vn-1,Obにスラーなし (3小節目と同じ) | 左記に2つずつスラーあり | 旧版 | 旧版 | 旧版 | |
155〜157 | Vn-1等にスラーなし | 左記にスラーあり | 新版 | 旧版 (155のみ スラーなし) | 旧版 (155のみ スラーなし) | |
158,160 411,413 | Vn-1,2にスラーなし | 左記にスラーあり | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
220,221 | Vn-1,2の1拍目にスラーなし | 左記にスラーあり | 新版 | 新版 | 旧版 | |
249,250 | Vaの2拍目が8分音符 (241〜242等と同じ) | 左記が16分音符 (Vnと同じ) | 判別不能 | 判別不能 | 判別不能 | |
272〜273 274〜275 276〜277 278〜279 | Vn-1の小節またがりにタイなし | 左記にタイあり | 旧版 (ただし278〜279 のみタイなし) | 旧版 | 旧版 | |
319 | Fg-1は4分音符 | 左記は2分音符 | 新版(?) | 旧版(?) | 旧版 | |
332〜335 | Vn-2はVn-1と同じ音 | Vn-2はVn-1のオクターブ下 | 新版(?) | 旧版 | 旧版 | |
333 | 低弦の2つ目の音はC | 左記はCis | 新版 | 旧版 | 旧版 | |
355 | Ob-1にタイあり | Ob-1にタイなし | 新版 | 新版 | 旧版 | 旧版はミスプリ? |
390〜392 | Vn-1等にスラーなし | 左記にスラーあり | 新版 | 旧版 | スラーなし(新版) | |
405,409 | Vn-1,2にスラーなし | 左記にスラーあり | 新版 | 旧版 | スラーなし(新版) | |
164〜416 (後半) | 繰返しあり | 繰返しなし | 前半、後半とも 繰返し | 前半:繰返し 後半:繰返しなし | 前半、後半とも 繰返しなし | |