フランツ・リスト(1811〜1886)
Franz Liszt
1.リストの簡単な年譜
リストは、出生地ハンガリー風には「リスト・フェレンツ」であり、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーに生まれています。父親がオーストリア系ハンガリー人、母親がオーストリア人であったことから、リスト自身は「ハンガリー人」との自覚があったものの、家庭及び地域ではドイツ語が使われ、成長してパリに移ってからはフランス語を話し、ハンガリー語は全く話せなかったようです。
なので、一般には「ドイツロマン派」の作曲家として「フランツ・リスト」と呼ばれることが多いようです。
リストの作品数は膨大ですが、イギリスの音楽学者ハンフリー・サールが作成した「サール番号(S.***、作曲順ではなく分野別に付番)を使うことが多いようです。
管弦楽作品は S.95〜119、協奏曲は S.120〜126、室内楽曲は S.127〜135、ピアノ曲が S.136〜254など。
なお、リスト(1811〜86)が成長・活躍した19世紀は、ほぼ同時期に多数の音楽家が活躍し、交通網の発達などで交流も盛んに行われました。
リストは、パリで同時期にポーランドからやって来たショパン(1810〜49)と親しくなって一緒にピアノを弾いたり、「幻想交響曲」初演時にベルリオーズ(1803〜69)に会いに行き「幻想交響曲」のピアノ版を作成しています。さらにはメンデルスゾーン(1809〜47)やシューマン(1810〜56)、ワーグナー(1813〜83)、シューマンの妻となるクララ・ヴィーク(1819〜96)とその父親のフリードリヒ・ヴィーク(1785〜1873)などとも交流がありました。
このような「個々の作曲家の生涯線」がどのように交錯し、同時代にどのような多次元の音楽や社会が進行していたかという視点で書かれたものに、
中川右介「ロマン派の音楽家たち」(ちくま新書)
があります。へ〜、そんな交流やニアミスがあったんだ、と目から鱗の落ちる本ですので、興味があれば一読ください。
1811年10月22日:オーストリア帝国内のハンガリー王国(現在のオーストリア)で、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父、オーストリア人の母の間の一人息子として生まれた。(父親は、職務の一部としてヴァイオリンやチェロを弾くこともあったようで、エステルハージ家の楽長だったハイドン(1732〜1809)やその後継者のフンメル(1778〜1837)とも知己があり、フランツの音楽的才能に早期に気づき援助を受ける環境にあったようです)
1822年(11歳):一家でウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・チェルニー、アントニオ・サリエリに師事する。
1823年(12歳):一家でパリに移住し、パリ音楽院に入学を希望したが、外国人との理由で拒否される。このためフェルデナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事。
ウィーンでコンサートを開き、フンメルのピアノ協奏曲などを演奏。出席していたベートーヴェンに賞賛されたという。
また、イギリスに渡ってロンドンでも演奏会を開き、ウィンザー城でイギリス国王ジョージ4世の前で演奏した。
1825年(14歳):パリでのリストの演奏会を16歳のメンデルスゾーンが聞いて「指は多いが頭が足らない」と辛らつな批判をしている。
初めてで唯一のオペラ「ドン・サンシュ、または愛の館」S.1をオペラ座で4回上演するがそれ以上の再演はなかった。
1827年(16歳):父親が腸チフスで急死。ピアノ教師として家計を支える。サン・クリック伯爵家の令嬢カロリーネ(1歳年下)と恋仲になるが「身分が違う」と解雇される。うつ状態となり、家計のためピアノ教師は続けるが公の活動からは身を引く。
この年、ウィーンでベートーヴェンが亡くなる。
1829年(18歳):ピアノメーカーであるエラールから支援されるようになる。
1830年(19歳):フランス七月革命。
「幻想交響曲」初演前日にベルリオーズを訪ねる。ベルリオーズはローマ賞を受賞(受賞後のローマ留学で、イタリア旅行中のメンデルスゾーンと親しくなる)。
リストはパリ音楽界に復帰し、パリの上流階級のサロンにも出入りするようになり、芸術家や知識人と知り合う。
1831年(20歳):ショパンがパリに到着。
1832年(21歳):パガニーニの演奏を聞いて感激し、「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだという。以降、超絶技巧のピアニストを目指す。
ショパンがパリでデビュー演奏会を開き、リスト、メンデルスゾーン、クララ・ヴィークが聞いている。リストとショパンは親しくなる。
ローマから帰ったベルリオーズが、「幻想交響曲」改訂版とその続編「生への回帰」の演奏会をパリで開き、聞きに来ていた女優ハリエット・スミッソンと婚約する。この演奏会をリスト、ショパン、パガニーニも聞いている。
1833年(22歳):パリのサロンでアイドル的存在となり、マリー・ダグー伯爵夫人と知り合う。
1835年(24歳):マリー・ダグー伯爵夫人と愛人関係になり、マリーの妊娠を期にスイス・イタリアに逃避行の上約10年の同棲生活を送る。長女ブランディーネ誕生。
1836年(25歳):リストとマリーは逗留先のジュネーヴからパリに戻る。マリーはジョルジュ・サンドと仲が良く、リストを介してショパンとサンドは知り合う。
1837年(26歳):パリを出てイタリアに滞在。マリーとの間に次女コジマ誕生。(後に指揮者ハンス・フォン・ビューロー、その後ワーグナーの妻となる)
1838年(27歳):ハンガリーで起こった大洪水の義捐コンサートをウィーンで開いて成功したことから、ヨーロッパ、ロシア、トルコなどの演奏旅行の生活が始まる。マリーとは疎遠になって行く。
ピアノ曲「24の大練習曲」S.137(出版されたのは12曲、タイトルは出版社が付けたもので「続編」を期待してのものか。1851年に改訂して「超絶技報練習曲」S.139)、「パガニーニの主題による超絶技巧練習曲集」S.140(1851年に改訂して「パガニーニ大練習曲」S.141)。第3曲が有名な「ラ・カンパネラ」)。
1839年(28歳):マリーとの間に長男ダニエル誕生。マリーはパリに戻る。
ピアノ協奏曲第2番 S.125。
1844年(33歳):マリーと別れる。
1847年(36歳):演奏旅行先のキエフ(キーウ)で、当地の大地主カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人(1819〜87)と同棲。
1848年(37歳):ヴァイマール宮廷楽長に就任。カロリーネとともにヴァイマールに定住。これ以降、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストを卒業して指揮・作曲活動に専念する。
交響詩「レ・プレリュード」S.97。
1849年(38歳):交響詩「人、山の上で聞きしこと」S.95、交響詩「タッソー」S.96、ピアノ協奏曲第1番 S.124、「死の舞踏」(「怒りの日」によるパラフレーズ)S.126。
1850年(39歳):ワーグナーの「ローエングリン」を初演。交響詩「プロメテウス」S.99、交響詩「英雄の嘆き」S.102。
1851年(40歳):交響詩「マゼッパ」S.100。ピアノ曲「超絶技巧練習曲」S.139(S.137 の改作)、「パガニーニによる大練習曲」S.141(S.140 の改作)。
1853年(42歳):ピアノ・ソナタ・ロ短調 S.178、交響詩「祭典の響き」S.101、ピアノ曲「ハンガリー狂詩曲」S.244(第1集15曲、ただし内奥はロマ(ジプシー)音楽で、ハンガリーでは「勘違いしている」との批判がある。また6曲についてはリスト/ドップラー、あるいは他人による管弦楽編曲が存在するが、原曲と管弦楽版とで番号がかなり混乱している)。
1854年(43歳):「ファウスト交響曲」S.108、交響詩「オルフェウス」S.98、交響詩「ハンガリー」S.103。
1856年(45歳):「ダンテ交響曲」S.109。
1857年(46歳):娘コジマが指揮者ハンス・フォン・ビューローと結婚。
交響詩「フン族の戦い」S.105、交響詩「理想」S.106。
1858年(47歳):交響詩「ハムレット」S.104。
1859年(48歳):ヴァイマール宮廷楽長を辞任。リスト、ワーグナーらの「新ドイツ楽派」が保守派から批判され、また同棲していたカロリーネがカトリックの離婚禁止によって正式な妻ではないことへの中傷などによるものらしい。
1860年(49歳):カロリーネの夫との離婚がローマ教皇により認められるが、夫側の画策で無効となる。
1861年(50歳):カロリーネとローマに移住するが、仲は疎遠になり、カロリーネは神秘主義に傾倒する。
1865年(54歳):僧籍に入る。ただし下級生職位で結婚も自由。
娘コジマが、ビューローの妻のままワーグナーの長女イゾルデを出産。1867年に次女エーファが、1869年に長男ジークフリートが誕生。
1869年(58歳):ヴァイマール大公からの要請でヴァイマールに戻る。宮廷楽長の責務はなく、ヴァイマール、ブダペスト、ローマを行き来する生活となる。
グリーグ、マスネ、アルベニス、ボロディンなどが助言を求めて訪れる。
1870年(59歳):娘コジマがビューローと正式に離婚し、ワーグナーと再婚。
グリーグと会見し、ピアノ協奏曲の手稿譜を初見で演奏して賞賛したという。
1882年(71歳):交響詩「ゆりかごから墓場まで」S.107。
1883年(72歳):娘婿のワーグナー没。
1886年(75歳):バイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」を観た後、7月31日に心筋梗塞で逝去。娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬。
2.主な作品
2.1 交響詩
「交響詩」(Symphonic Poem)という音楽ジャンルは、形式の定まった「交響曲」や「ソナタ」では表現しきれない、文学的あるいは情緒的・感情的な内容を表現したいために生まれたもので、リストが始めたものといわれています。決まった形式を持たずに、表現したいこと、情景や感情の動きを自由・気ままに音楽の流れに語らせるという、いわば「ロマン派」の申し子といえます。
同じような意味合いで、「音詩」(Tone Poem)、「交響的幻想曲」「交響的描写」などと呼ぶ場合もあります。
リスト自身は、全部で13曲の交響詩を作曲しています。
リストはワーグナーの義理の父であり、リスト〜ワーグナーはロマン派の一方の派閥のドンであるのに対して、同時代にワーグナー派の対抗馬であったブラームス一派は、意図的に「交響詩」という分野を避けている傾向がみられます。
ブラームス自身は、形式が自由な管弦楽曲を「序曲」と呼んで、「悲劇的序曲」「大学祝典序曲」を作曲しました。
ブラームスによって世に紹介されて恩義のあるドヴォルザークも、「自然と人生と愛」の三部作「自然の中で」「謝肉祭」「オテロ」を「序曲」と呼んでいます。ただし、最晩年になって、突如連続してチェコの民話に基づく連作交響詩「水の精」Op.107、「水の精」Op.107、「真昼の魔女」Op.108、「金の紡ぎ車」Op.109、「野鳩」Op.110、そして自身の(あるいは恩師ブラームスの)人生を振り返って「英雄の歌」Op.111 を作曲しています。ひょっとするとワーグナーへの対抗心かもしれません。
それに対して、いわゆるワーグナー派あるいはワーグナーに憧れを持つ作曲家、スメタナ、リヒャルト・シュトラウスやサン=サーンス、フランクとその弟子(デュカ、ダンディなど)、シベリウスなどは交響詩をいくつか残しています。また、「交響詩」とは名づけられていませんが、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」やレスピーギの「ローマ三部作(噴水、祭り、松)」なども同じようなジャンルになります。
では、リストの13曲の交響詩をざっと眺めてみましょう。
(1)交響詩「人、山の上で聞きしこと」 S.95
1833年から1835年に着手されていますが、何度も改訂を繰り返して1849年に完成しました。翌年の1850年にヴァイマルで初演されたあと、改訂が何度も加えられて現在の形となっています。
パリのサロンでリストと親交のあった詩人ヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の葉」の一篇に基づいています。
主人公は、山の中で二つの声を聞きます。一つは、秩序に満ちており、主に向かって喜びに満ちた賛美歌を唱えています。もう一つは、空虚で痛みに満ち、泣き、冒涜と呪いで腫れ上がっています。両方の声は互いに近づき、交差し、溶け合い、最終的には神聖な状態で消えていくという、聖なるもの、俗なるもの、自分の内面の葛藤を、音化したもののようです。
演奏時間:約30分
(2)交響詩「タッソー、悲哀と勝利」S.96
1849年にゲーテの生誕100周年祭に当たって、戯曲『トルクヴァート・タッソー』がヴァイマルで上演された際に、その序曲として作曲されました。
かつてヴェネツィアで、ゴンドラの船頭がタッソーの「解放されたエルサレム」という歌を歌っていたのを聞いて、これを主題にしています。
このゴンドラの歌は、当初ピアノ曲「巡礼の年・第2年補遺『ヴェネツィアとナポリ』」に含まれていましたが、それを交響詩に転用したため、後の「巡礼の年」改訂にあたって除外されています。(なので、現在の巡礼の年・第2年補遺『ヴェネツィアとナポリ』第1曲「ゴンドラを漕ぐ女」とは関係はありません)
演奏時間:約20分。
(3)交響詩「前奏曲(レ・プレリュード)」S.97
全13曲の中で最も演奏機会が多い代表作。
この「レ・プレリュード」(「前奏曲」と表記されることもあります)は、一連のリストの交響曲の中では最も人気があります。
1854年に作曲された交響詩。「人生は死への前奏曲」という考え(アルフォンス・ド・ラマルティーヌの詩による)に基づき、リストの人生観が歌い上げられています。
演奏時間:約17分
(4)交響詩「オルフェウス」S.98
ギリシャ神話に登場するオルフェウスは、妻のエウルキュディケ(エウリディーチェ)が亡くなった後、冥界に赴いて連れ戻そうとしますが、「決せて後ろを振り返らないこと」という禁を破って結局妻を失います。それが原因で女性を忌避するようになったことから、酒神のバッカスの女たちに、八つ裂きにされて海に遺棄されました。
エウリディーチェを連れたオルフェウス
リストは、ヴァイマルの宮廷劇場でグルックの歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」を指揮したときに、ルーヴル美術館で見た古代ギリシャのエトルリアの壺に描かれた絵を思い浮かべたようです。その壺には「優雅でほっそりとした指で竪琴を弾くオルフェウスが描かれており、そこでは彼の奏でる妙なる楽の音が森の中の動物たちをはじめ、全ての事象を魅了する様子」が描かれていたようです。リストはこの壺からの霊感でこの交響詩を作り、このような経緯を楽譜の冒頭に記しました。
しかし、その「オルフェウスが描かれた壺」に相当するものはルーヴル美術館には存在せず、実際にはリストが複数の情報から自分の想像を膨らませたものだったようです。
ルーヴル美術館に存在する壺の中では、下記のものが「オルフェウスの死」と呼ばれているもので、竪琴を持ったオルフェウスが激怒したトラキアの狂女たちに襲われ命を落とす悲劇的な瞬間が描かれています。
「オルフェウスの死」の壺
いずれにせよ、そのような背景から、リストはグルックの歌劇への序曲を作曲し、1854年のヴァイマルの宮廷劇場での歌劇上演にあたって、その序曲として作曲し、リスト自身の指揮で初演されました。その序曲を、のちに独立した交響詩として改訂して出版したのがこの交響詩です。
オルフェウスが竪琴の名手であったことから、交響詩ではハープが活躍します。
演奏時間:約10分。
(5)交響詩「プロメテウス」S.99
ギリシャ神話で、プロメテウスは、オリュンポスの神々から火を盗み、人類に、技術、知識、文明をもたらしたとされています。そのため、オリュンポスの神々の王ゼウスは、永遠の責め苦に処しました。
最終的には、ヘラクレスによって救出されます。
ギュスターブ・モロー「プロメテウス」
1850年にヴァイマルで、ドイツの詩人、哲学者のヘルダーの像の除幕式にあたって、その作である「絆を解かれたプロメテウス」が上演された際に、リストはそのための序曲と1曲の合唱曲を作曲しました。後にそれぞれを独立した曲とし、序曲の方は更に手を加えて、1855年に交響詩として発表しました。
演奏時間は約12分。
(6)交響詩「マゼッパ」S.100
「マゼッパ」は、ギリシャ独立戦争にインスピレーションを得たヴィクトル・ユゴーの詩「レ・オリエンタレス」の第34番「マゼッパ」に基づき、1851年に作曲され、1854年に改訂されています。
ポーランド貴族の妻との情事に巻き込まれて罰せられたクライナの英雄イワン・マゼッパの伝説的な人生を描き、前半は若いマゼッパが情事の責任をとらされて裸で馬の背中に縛り付けられ放たれた場面、後半はコサックに助けられコサックの首領となってウクライナ解放の戦いに起ちあがる場面です。
リストは、この「マゼッパ」が大好きだったようで、ピアノ曲として『12の練習曲』S.136/op.1 (op.6)(1826年)の第4曲、その改訂である『24の大練習曲』(実際は12曲)の第4曲(S.137-4)、独立したピアノ曲「マゼッパ」S.138(1840)、『超絶技巧練習曲』第4番「マゼッパ」(S.139-4)を作曲しており、この交響詩にもその主題が共通で用いられています。
演奏時間:約16分
(7)交響詩「祭典の響き」S.101
1854年にヴァイマルでシラーの戯曲「芸術への忠誠」が上演された際に、その序曲として作曲し、初演されています。しかし、内実は、1847年から同棲生活をしていたヴィトゲンシュタイン伯爵夫人(カロリーネ)と近く結婚できそうなことを想定して、そのための祝典序曲として書かれたものだと言われています(ただし結婚は成立せず)。
ティンパニに導かれる行進曲風の主題に始まって、続くいくつかの主題を基に組み立てられており、祝典的で輝かしく喜ばしい気分のうちに進めらます。
なおこの曲の途中の経過句はほかに4つの代替譜(ヴァリアント)があり、指揮者が自由に選択することもできます。
演奏時間:約20分
(8)交響詩「英雄の嘆き」S.102
1850年に第一稿を作曲し、それを第二稿を1854年に改訂しています。ワーグナーに捧げられています。
ヘ短調、葬送行進曲風の導入部が打楽器だけの合奏で始まり、そのまま葬送行進曲となって展開され、中間部では安らぎも見えます。後半に入ったところでテンポが速くなり劇的な音楽が繰り広げられる。最後は元の葬送音楽に戻って寂しく終わります。
演奏時間:約20分。
(9)交響詩「ハンガリア」S.103
1854年に作曲されています。原題の”Hungaria”は、ハンガリーのラテン語で、最初は「ハンガリー風の大行進曲」というピアノ曲でしたが、交響詩として完成させ、初演は大成功だったそうです。
長い導入部はファゴットとホルンに低弦のラルゴ・コン・デュオーロでニ短調、主部はアレグロ・エロイコでリスト特有の金管のファンファーレで始まるロ長調。
なおこの曲には、作曲者が指定した短縮形がオプションで2種類あります。
演奏時間:約23分。
(10)交響詩「ハムレット」S.104
1856年にヴァイマルにおいてリストは『ハムレット』を観劇しており、これが着想を与えたと考えられています。
当初は『ハムレット』の上演への序曲として計画され1858年に完成されましたが、指揮者のハンス・フォン・ビューローは「演奏に適さない」と判断したようで、初演は1876年まで遅れました。
劇の筋をなぞるのではなく、ハムレットの性格描写に重点を置いています。
途中の穏やかな部分は恋人オフィーリアでしょう。
力強いトゥッティが急速に静まると、主要動機が葬送行進曲の形で現れ力なく終わります。
演奏時間:約14分
(11)交響詩「フン族の戦い」S.105
カウルバッハ「フン族の戦い」
1855年の夏(1856年とも)に、ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人からヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ(Wilhelm von Kaulbach)の壁画「フン族の戦い」の複製画を寄贈されたリストは、複製画を見て感銘を受け、これを交響詩として表現しようと思い立ったことが作曲の動機のようです。曲は1857年に完成されました。
この曲を構想している頃にリストはカウルバッハ本人と直接会っており、また1857年頃にカウルバッハの案内でベルリンの美術館にそれらの原画を見た際、全ての原画を音楽化しようと計画を立てたようですが、実現したのは1曲のみでした。
曲は、1451年に現在の北フランスにおいて、アッティラ率いるフン族の軍勢と西ローマ帝国の将軍アエティウス、西ゴート王テオドリック1世らが率いる西ヨーロッパ諸民族の軍勢との間で起きた「カタラウヌムの戦い」の様子を描いています。フン族は異教徒、西ヨーロッパ諸民族はキリスト教徒として描かれています。
前半は異教徒が猛威をふるいますが、次第にコラールの旋律が強くなります。ここで使用されるコラールは『クルス・フィデリス(Crux fidelis)』という古いコラールです。結尾の部分はコラールの旋律が高らかに歌われ、キリスト教徒の勝利を表します。
演奏時間:約14分
(12)交響詩「理想」S.106
1857年に、ヴァイマルでシラーの詩「理想」を元として作曲されました。
もともとヴァイマル劇場のゲーテとシラー、ヴィーラントの像の除幕式のために作曲されたものです。この曲の完成後、リストの交響詩の作曲は一旦中断され、次の交響詩『ゆりかごから墓場まで』が書かれるのは、この曲が完成してから20年以上後のことです。
木管と低弦のピツィカートに導かれるアンダンテの導入部と、速い弦の動きのアレグロ・スピリトーソの主部からなるが、途中でも序奏の主題が出てきて循環する。なお作曲者自身による短縮形オプションは1種類のみですが、長いためこれ以外にも後半をカットする指揮者も多いようです。
演奏時間:約27分。
(13)交響詩「ゆりかごから墓場まで」S.107
リストがインスピレーションを受けたハンガリーの画家ジッチ・ミハーイ(Mihaly Zichy / 1827-1906)の「ゆりかごから墓場まで」
リストの交響詩「ゆりかごから墓場まで」は、前作の第12番目の交響詩「理想」から、20年ほど経った1881年に作曲されています。
曲は、「ゆりかご」「生きるための闘争」「墓へ」という三部に分かれています。
第1部「ゆりかご」(誕生):子守歌のような、夢見るような優しい音楽。
第2部「生きるための闘争」(人生):力強い弦楽器のユニゾンで始まります。
第3部「墓へ」(未来への目覚め・死):ややおどろおどろしい主題で始まり、次第に安らいで諦観に満ちた静けさへと消えていきます。
演奏時間;約17分
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この他にも、ファウスト交響曲やダンテの神曲による交響曲といった、複数楽章からなる「標題交響曲」もあります。(また追加で何か書きます)
また、リストといえばピノ曲。実は、個人的にはリストのピノ曲はあまり好きではないのですが、若干の代表曲については書いて行かないといけないのでしょうね。
これまた「続く」。
