メンデルスゾーンのちょっと寄り道 〜その生涯と交響曲第3番「スコットランド」〜

2017年 11月 23日 初版作成


 横浜フィルの次の演奏会(第79回、2018年4月30日)で、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」を演奏します。
 メンデルスゾーンの交響曲は、第26回(1991年2月24日)に交響曲第4番「イタリア」を演奏して以来の2回目で、27年ぶりです。

 メンデルスゾーンは、有名な割には、演奏される曲、聴かれる曲はごくわずかです。
 交響曲は5曲ありますが、演奏されるのは第3番「スコットランド」、第4番「イタリア」、第5番「宗教改革」の3曲でしょうか。第2番「讃歌」は声楽を含むこともあって、まず演奏されません。第1番もほとんど演奏されませんね。
 交響曲以外では、序曲「フィンガルの洞窟」、ヴァイオリン協奏曲、劇音楽「真夏の夜の夢」(この「結婚行進曲」は誰でも知っていますね)ぐらいではないでしょうか。
 ピアノ曲、室内楽曲も、意外に知られていません。

 ということで、今回はメンデルスゾーンをちょっと寄り道します。

フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809〜1847)
Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy



1.メンデルスゾーンの生涯

 メンデルスゾーンは、裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、何一つ不自由なく暮らし・・・、という紹介文はよく見かけますが、意外にその人生を知りません。
 文庫本や新書本に「ベートーヴェン」や「ワーグナー」などはよく取り上げれれますが、メンデルスゾーンについて書かれた本はほとんど見かけません。私も、実はメンデルスゾーンの本というものを全く読んだことがありませんでした。

 ということで、自分の整理も含めて、生涯を簡単におさらいします。

 フェリックス・メンデルスゾーン(1809〜1847)は、フルネームが「ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)」といい、裕福な銀行家の長男としてハンブルクで生まれました(4人兄弟の2番目、上は姉のファニー)。ユダヤ人の家庭でしたが、父親の代からユダヤ教からプロテスタントに改宗していたようで、フェリックスは初めからプロテスタントの洗礼を受けました。
 生まれ年からわかるように、青年期まではベートーヴェン(1770〜1827)、ウェーバー(1786〜1826)、シューベルト(1797〜1828)も生きていました。同世代にはシューマン(1810〜1856)、ショパン(1810〜1849)、リスト(1811〜1886)、ワーグナー(1813〜1883)がいます。
(こう書いてみると、「ドイツ・ロマン派」の音楽が、ほぼ一世代で誕生から究極まで一気に上り詰めたことが分かります)
 1811年に、一家はベルリンに引っ越し。ハンブルクは前年の1810年にナポレオン軍に占領されており、ナポレオンの大陸封鎖令に逆らった報復を恐れてのことらしい。そう、当時のヨーロッパではナポレオンが跋扈していました。この後、メンデルスゾーンは主にベルリンで成長したようです。(父親の仕事の関係で、一時パリなどにも住んでいるようですが)

 6歳から母にピアノを習い、8歳から作曲を学び始めました。音楽の才能に関しては「神童」と呼ばれたようです。
 12歳のときにヴァイマールで72歳のゲーテにも会っています。
 13歳のとき(1832年)に「ピアノ四重奏曲第1番・作品1」が最初に出版されています。これは親の財力ということもあるのでしょう。(メンデルスゾーンの場合には、曲の番号や作品番号が作曲順に対応しないので要注意です)
 14歳のときに、クリスマス・プレゼントとしてバッハの「マタイ受難曲」の筆写スコアを母方の祖母から贈られたそうです。周囲の音楽的な素養も、メンデルスゾーンの音楽的成長に大きく貢献したのでしょうね。
 1824年(15歳)に、交響曲第1番・作品11を作曲しています。
 16歳(1825年)に、「弦楽八重奏曲変ホ長調」Op.20を作曲。「ピアノ四重奏曲第3番」Op.3をゲーテに献呈。
 17歳(1826年)のときに、シェイクスピアの戯曲「真夏の夜の夢」に対して「序曲」作品21を作曲します。「序曲」以外の劇付随音楽は、のちの33歳のときに作品61として作曲されます。
 1826〜1829年にかけて(17〜20歳)、ベルリン大学で学びます。

 20歳の1829年に、ベルリンでバッハ没後初めての「マタイ受難曲」の公開演奏(復活上演)を行います。メンデルスゾーンはピアノで通奏低音を弾きながら指揮したようです。当時の広告では「100年ぶりの復活演奏」とされていたようですが、バッハの生前には1727年の初演以降何度か演奏されています。ただし、バッハの没後はほとんど忘れられていたので、この復活上演はバッハ再評価の大きな契機となりました。

(注)バッハを「音楽の父」、ハイドンを「交響曲の父」、ベートーヴェンを「楽聖」、バッハ〜ベートーヴェン〜ブラームスを「3大B」などと称するのは、「ドイツ音楽こそクラシック音楽の王道である」とするドイツ・ロマン派至上主義派の陰謀、キャッチコピーですから要注意です。すでに日本人のほとんどがその教義に洗脳されていますが。

 また、この年(1829年)には初めてイギリスを訪れ、序曲「フィンガルの洞窟」作品26などに結実しています。メンデルスゾーンは、生涯に10回もイギリスを訪問しています。なお、交響曲第3番「スコットランド」が完成したのは1842年(33歳)ですが、最初の着想はこのイギリス旅行のときと言われています。

 1829〜30年にかけて、ルーテル教会300周年を記念して交響曲第5番「宗教改革」を作曲。ただし、出来に満足できず、その後の改訂も含め、生前には出版されませんでした。(そのために番号が「第5番」になっている)
 1830年10月〜1831年4月にかけてイタリアを訪問。ここで交響曲第4番「イタリア」に着手しましたが、完成したのは1833年です。この曲も改訂のため出版されず、出版されたのはメンデルスゾーンの没後です。また、イタリアに続き、翌1832年までヨーロッパ各地やイギリスを演奏旅行します。

 1833年(24歳)に、デュッセルドルフの音楽監督に就任。
 1835年(26歳)でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任し、自作以外にも積極的に新作を取り上げます。シューマンが発見したシューベルトのハ長調交響曲(第7番あるいは第9番、現在の国際シューベルト協会版では第8番)を初演したのは1839年のことです。
 1837年(28歳)フランスのプロテスタント聖職者の娘であるセシル・シャルロット・ソフィ・ジャンルノー(1817〜1853年)とフランクフルトで結婚。
 1841年(32歳)でベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任します。この職は若きワーグナーも狙っていて、1842年にドレスデンで初演した歌劇「リエンツィ」の評判により、ワーグナーも1843年にこの地位についています。
 1842年(33歳)のときに交響曲第3番「スコットランド」作品56を完成してメンデルスゾーン自身の指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で初演しました。翌1843年に、一部を改訂してイギリスのヴィクトリア女王への献辞とともに出版。
 1843年(34歳)でライプツィヒ音楽院を創設。作曲とピアノの教授としてシューマンを招く。
 1844年(35歳)のときにヴァイオリン協奏曲・作品64を作曲。
 1847年(38歳)5月に、イギリス訪問の途上で姉ファニーの訃報に接して神経障害を起こす。一時回復しますが11月に再度意識を失い、そのまま帰らぬ人となりました。享年38歳。

 存命中には、先品番号72までの作品が出版されましたが、没後に遺族や知人の音楽家によって作品121までが出版されました。
 さらに1870年代のメンデルスゾーン全集(旧全集)には作品番号なしも含めて156曲が収録されました。現在は、1997年(メンデルスゾーン没後150周年)から「新メンデルスゾーン全集」の刊行が進められており、既出版に限らず未完成の作品などの刊行も計画されているようです。

 こうやって年ごとの記録を書いてみても、メンデルスゾーンのプライヴェートな生活、幸せな人生を送れたのかどうかは分かりませんね。
 メンデルスゾーンは、1837年、28歳のときに結婚しています。相手はフランスのプロテスタント聖職者の娘であるセシル・シャルロット・ソフィ・ジャンルノー(1817〜1853年)。8歳年下ですから、結婚したときには20歳。この奥様も若くして36歳で亡くなっています。5人の子供が生まれていますが、親子の関係やフェリックスがなくなった後の子供たちの人生はどんなものだったのでしょうか。意外と知られていませんね。

妻セシル(1817〜1853)


 私生活では、晩年に、当時のオペラ界の花形であったスウェーデンのソプラノ歌手ジェニー・リンド(1820〜1887)との関係があったようですが、どの程度の関係であったのは謎です。このジェニー・リンドに関しては、デンマークの童話作家アンデルセン(1805〜1875)が片思いの恋をしていたことも有名な話です。(興味のある方は、下記の中野京子・著「芸術家たちの秘めた恋 ―メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代」(集英社文庫)を参照ください)

ジェニー・リンド(1820〜1887)


 中野京子・著「芸術家たちの秘めた恋 ―メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代」(集英社文庫)  
 

2.メンデルスゾーンの主な作品

2.1 交響曲

 前述のとおり、5曲の交響曲がありますが、それ以外に若書きである「弦楽のための交響曲」が13曲あります。

・第1番:ハ長調(1821年)
・第2番:ニ長調(1821年)
・第3番:ホ短調(1821年)
・第4番:ハ短調(1821年)
・第5番:変ロ長調(1821年)
・第6番:変ホ長調(1821年)
・第7番:ニ短調(1822年)
・第8番:ニ長調(1822年)(同年に管弦楽用に編曲)
・第9番:ハ長調「スイス」(1823年)
・第10番:ロ短調(1823年)(一楽章のみ)
・第11番:ヘ長調/ヘ短調(1823年)
・第12番:ト短調(1823年)
・第13番:ハ短調(1823年)(一楽章のみ)

通常の交響曲は5曲あります。

・第1番:ハ短調 Op.11(1824年)
・第2番:変ロ長調「賛歌」Op.52(2ソプラノ、アルト、テノール、バス、合唱、オルガンと管弦楽)(1840年)
・第3番:イ短調「スコットランド」Op.56(1842年)
・第4番:イ長調「イタリア」Op.90(1833年)
・第5番:ニ短調「宗教改革」Op.107(1830年)

2.2 交響曲第3番「スコットランド」作品56

 生涯でもふれたように、着想されたのは1829年(20歳)の初めてのイギリス旅行のときといわれていますが、完成したのは1842年、33歳のときです。
 1829年(20歳)のイギリス旅行のときに、メンデルスゾーンはスコットランド・エディンバラにある悲劇の女王メアリー・ステュアートゆかりのホリルード城の遺跡を訪れ、崩れた礼拝堂の屋根から差し込む光に霊感を受けて第1楽章冒頭の楽想を得たとのことです。その意味で、冒頭の主題は「メアリー・ステュアートのモティーフ」といえるのでしょう。

(注)簡単な説明。でもかなり家系の関係が複雑。
 スコットランド女王であったメアリー・ステュアート(1542〜1587)は、宗教対立や貴族間の抗争、隣のイングランドやフランスの王位継承をめぐる争いの中で1567年25歳でスコットランド女王を退位させられ、王位を息子のジェームズ6世に譲って(即位当時1歳なので、政治の実権は貴族が握った)本人はイングランドに亡命します。
 メアリー・ステュアートの祖母マーガレット・テューダーがイングランド王ヘンリー7世の娘(ヘンリー8世の妹)なので、イングランド王家を親せきとして頼ったわけですが、逆にイングランドの王位継承権も持っていたため、ヘンリー8世の子であるエリザベス1世(1533〜1603)と対立します。
 何せ、エリザベス1世の父ヘンリー8世こそ、王妃と離婚するためにローマ教皇と訣別して「イングランド国教会」を創設した張本人です。そしてスペイン王室から迎えたキャサリン王妃を離婚して、その侍女であったアン・ブーリンと結婚してエリザベス1世が生まれます。さらにアン・ブーリンとも離婚し(しかも姦通罪で処刑)、アンの侍女だったジェイン・シーモアと結婚してエドワード6世が生まれます。このような経緯から、エリザベス1世の王位の正当性には疑問が持たれていました。
 そんなこともあり(自身もエリザベス1世の暗殺未遂に関与したようですが)、メアリー・ステュアートはイングランド亡命から19年後の1587年に処刑されます。
 エリザベス1世は、亡命中のメアリー・ステュアートにはかなりの自由を認め、処刑の命令書にサインするのもためらったと伝えられています。さらに独身で子供のなかったエリザベス1世は、自分の後継イングランド王に、メアリー・ステュアートの子供ですでにスコットランド王に即位していたジェームズ6世を指名します。(イングランド王としては、ステュアート朝初代のジェームズ1世
 ここに、メアリー・ステュアートの子であるジェームズが、イングランド王とスコットランド王を兼ねることとなり、後のグレートブリテン誕生(1707年)につながっていきます。

 こういったいきさつから、第4楽章最後の唐突な長調への転調と華やかな終結は、メアリー・ステュアートの悲劇が、グレートブリテン誕生という大きな前進とその後の大英帝国の栄華につながって行くことに対する希望と敬意の表れなのかもしれません。
 この曲が、大英帝国のヴィクトリア女王(1819〜1901、在位は64年で英国王室最長)に献呈されたこととも関係があるのでしょう。

 また、第2楽章冒頭のクラリネットの主題などは、明らかにスコットランドの「バグパイプ」をイメージしていると思います。第2楽章全体が「祭」をイメージしているような。

 今回のホグウッド校訂のベーレンライター版には、「1842年稿」と「1843年稿」があるように、1842年に完成して3月にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して初演したのち、5月にイギリスを訪問した際にヴィクトリア女王に謁見して献呈を申し出、許可されて翌1843年に出版する際に、一部を改訂したようです。

 今回のパート譜を見比べた限り、相違点は次のようにごく一部のようです。
第1楽章:
・現行板の練習番号O(483小節)から冒頭と同じアンダンテになるまでの間が入れ替わっており、初稿版は現行板よりも10小節長い。
・冒頭と同じアンダンテに戻ってから第2楽章までの間が、初稿版は現行板よりも5小節長い(1フレーズ多い)。
第2楽章、第3楽章:変更なし。
第4楽章:
・現行板の練習番号B(54小節)の前が、初稿版は現行板よりも11小節多い。
・現行板の練習番号H(237小節)からの8小節が、初稿版は全く別な19小節ある。

 それほど大きな改訂ではないようです。ちょっとした修正程度でしょうか。
 ただし、現行板と同じ「1843年稿」の部分にも、気付いたところでは例えば第1楽章267小節のTrp. や、第3楽章143小節のTrp.追加などがあるようです。

 シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の録音(2009年)は初稿版の演奏のようです。
シャイーの演奏は、こちらのYouTubeで聴くことができます

 私が持っているヤニク・ネゼ=セガン指揮ヨーロッパ室内管の録音(2016年)では、交響曲第5番「宗教改革」では初稿版を使っていますが(第4楽章の前に、長いフルートソロがあります)、交響曲第3番では現行板(1843年改訂版)を使っています。

ヤニク・ネゼ=セガン指揮ヨーロッパ室内管の交響曲全集

 一般的な演奏ということであれば、 クルト・マズア指揮/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(1987〜89の録音)
 ベルリンの壁崩壊直前のころの録音ですね。当時ライプツィヒは「東ドイツ」で、マズアは民主化要求デモに対する当局による武力介入を避けるために、平静なデモを行うよう先頭に立ったという伝説が残っていますね。今は昔。
 今は、交響曲全集に初期の「弦楽のための交響曲」13曲も入って¥1,000 ちょっとで買えます。
 マエストロ田尻さんは、クルト・マズアのマスタークラスに参加していますから、マズア直伝のメンデルスゾーンの演奏ができるかも。

クルト・マズア指揮/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の交響曲全集(「弦楽のための交響曲も含む)6枚組¥1,090

 私の愛聴盤はドホナーニ指揮/ウィーン・フィルです。

ドホナーニ指揮/ウィーン・フィルの交響曲全集

 その他、定評のあるところでは下記があります。

・アバド指揮/ロンドン交響楽団の交響曲全集

・カラヤン/ベルリン・フィル

 たまたま読んだ今月号(2017年12月号)の「レコード芸術」誌に、このネゼ=セガン指揮の録音に関する対話記事で初稿版についても載っていました。興味のある方は読んでみてください。音楽之友社のメンデルスゾーンのスコアに解説を書いている星野宏美女史も加わっていて、「作曲者の意志で改訂したものなので、初稿の演奏を普及させる必要はないが、音として聞けるのは価値がある」というようなこともおっしゃっていました。(ただし、「宗教改革」の場合には第4楽章に現行板からの変更はないものの、改訂がないのではなくて「修正が多すぎてどれが初稿か判読できない」ということのようで、「初稿版というよりはホグウッド版と呼ぶべき」というようなことも書いてありました。概して、研究者には他の研究者の成果をけん制する意識が働くようです)

 ちなみに、今回使用するベーレンライター版の校訂を行ったクリストファー・ホグウッド(1941〜2014)は、言わずと知れた音楽学者・古楽演奏家・指揮者です。私も、エンシェント室内管弦楽団を指揮したモーツァルトの交響曲全集を持っています。(「エンシェント室内管弦楽団」というのも奇妙なな訳で、”The Academy of Ancient Music” ですね)

ホグウッド指揮モーツァルト交響曲全集

 ホグウッドは、ハイドンの交響曲録音も進めていましたが、全集の完成はしなかったようです。

 ただし、ホグウッド自体は古楽に限らず20世紀の音楽も得意としていて、特にチェコ音楽、ボフスラフ・マルティヌー(1890〜1959)のスペシャリストだったようです。ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」全曲なども録音しています。また、メンデルスゾーンの友人(後輩)でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で一緒に仕事もしたデンマークの作曲家ニールス・ゲーゼ(またはガーデ、ガーゼ)(1817〜1890)の交響曲全集も録音しています(オケはデンマーク国立放送交響楽団、Chandosレーベル)。

 
 

2.3 協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲

 今後追加予定です。

 
 

3.スコア情報

 まだスコアをお持ちでない人のために。

3.1 メンデルスゾーン/交響曲第3番「スコットランド」作品56

 全音版 メンデルスゾーン 交響曲第3番 イ短調 作品56 「スコットランド」 ¥1,296

 音楽之友社版 OGTー2153 メンデルスゾーン 交響曲第3番 イ短調 作品56 ¥1,512

ドーヴァー版の大型スコアは見つけましたが、ミニチュアスコアは見つかりませんでした。

 ドーヴァー版大型スコア
(交響曲第3番「スコットランド」、第4番「イタリア」、「真夏の夜の夢」全曲、
「フィンガルの洞窟」序曲、「静かな海と楽しい航海」序曲)

 
 

3.2 R.シュトラウス/交響詩「ドンファン」作品20

 OGTー229 リヒャルト・シュトラウス 交響詩 ドン・フアン 作品20 ¥1,260

 日本楽譜出版 R.シュトラウス「ドンファン」 ¥1,404

オイレンブルクスコア リヒャルト・シュトラウス 交響詩《ドン・フアン》作品20 ¥1,512

 
 

3.3 フンパーディンク/歌劇「ヘンゼルとグレーテル」序曲

 フンパーディンク/「ヘンゼルとグレーテル」前奏曲 ¥540

ドーヴァー版の大型スコアは、歌劇の全曲スコアです。
 フンパーディンク: オペラ 「ヘンゼルとグレーテル」全曲版 大型スコア

 
 



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