モスクワの音楽ゆかりの場所 2013

2013年 8月 11日 作成


 モスクワ出張の折に、明るい夜を利用して、音楽ゆかりの場所を歩いて回ってみました。
 音楽ゆかりの場所とは、オペラハウス、コンサートホールだけでなく、有名な作曲家や演奏家が住んでいたところ、銅像や碑が建っているところ、などなど。



1.音楽家の住んでいたところ

 ショスタコーヴィチの伝記を読むと、モスクワでは、メインストリートである「トヴェルスカヤ通り」に近い音楽家のアパートに住んでいたと書いてあります。同じアパートにはチェロ奏者のロストロポーヴィチ/ガリーナ・ヴィシネフスカヤ夫妻も住んでいたし、音楽学者のソロモン・ヴォルコフが「ショスタコーヴィチの証言」を書くために訪問した家です。
 当時の「ソ連作曲家同盟」の本部があった建物だということで調べてみると、どうやら現在でも「ロシア作曲家同盟」の本部があるところがそれらしいと分かりました。

 
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 この場所に行ってみると、「作曲家の家」(Дом Композиторов = Dom Kompozitorov )という看板が出ていました。現在は、アパートというより、音楽家のための小さなホールや録音スタジオなどの施設になっているようですが、名前からしてショスタコーヴィチが晩年住んでいたアパートはここだと思います。

作曲家の家「作曲家の家」の看板

 建物横の公園には、ハチャトゥリアンの像がありました。おそらくハチャトゥリアンもここに住んでいたのでしょう。
 南西に約50m離れた別の公園には、チェロを弾いているロストロポーヴィチの像がありました。やはりロストロポーヴィチも住んでいたようです。像は2012年に設置された新しいもののようで、土台の石にはプロコフィエフの「チェロ交響曲」とショスタコーヴィチの「チェロ協奏曲第1番」の楽譜が刻まれていました。

ハチャトゥリアンの像ハチャトゥリアンの像と作曲家の家(後方の建物)

ロストロポーヴィチの像ロストロポーヴィチの像

 この「作曲家の家」を目指して「トヴェルスカヤ通り」からアーチをくぐってブリューソフ横丁に入ったすぐに左側に、レリーフの埋め込まれた建物がありました。後で調べたら、演出家メイエルホリドの住んでいたアパートで、今は博物館だそうです。メイエルホリドは、ショスタコーヴィチが若い頃に大きな影響を受けた人で、「ショスタコーヴィチの証言」に何度も登場していた記憶があります。また、樺太で越境してソ連に亡命した女優の岡田嘉子と演出家の杉本良吉が「メイエルホリドの元で演劇を学びたい」と口述したことに関連して、スパイ容疑で逮捕され粛清されたことでも有名です。ただ、そこを通過したときにはそんな知識はありませんでしたので「何だろう」と思った程度でした・・・。

 「作曲家の家」からブリューソフ横丁をさらに南西に進むと、約300mで「チャイコフスキー記念モスクワ音楽院」にぶつかります。交差点にはチャイコフスキーの像があります。

 
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チャイコフスキー像チャイコフスキー像

 このモスクワ音楽院の大ホール(ボリショイ・ザール)は、音響のよいことで有名で、いろいろな演奏会が開かれるようです。残念ながら聴くチャンスはありませんでしたが。表には、下記のポスターが張ってありました。ジョシュア・ベルのヴァイオリン、ゲルギエフ指揮の国立青少年オケの2013年7月16日演奏会のようです。(訪問日の約3週間後の演奏会)
 また、このホールは「チャイコフスキー・コンクール」の会場にも使われることでも有名ですね。
 左の建物が音楽院の校舎らしく、いろいろな楽器の音が聴こえていましたが、このときは改修工事中。「マールイ・ザール」という掲示がありました。「マールイ・ザール」とは「小ホール」という意味です。(ボリショイ劇場=大劇場、マールイ劇場=小劇場)

演奏会ポスタージョシュア・ベル(Vn.)とゲルギエフのコンサートのポスター



モスクワ音楽院代ホールの入口モスクワ音楽院大ホールの入口

 このモスクワ音楽院のあるポリシャヤ・ニキーツカヤ通りには、歩いて5分ぐらいのところに「ゲリコン・オペラ」という小オペラ劇場がありますが、このときは工事中で閉鎖されていました。

ゲリコン・オペラ工事中の「ゲリコン・オペラ」。建物の絵を描いた工事用カバーで覆われている

2.音楽関係の博物館や施設

 モスクワ市内には、音楽家や文学者にちなんだ博物館がたくさんあります。このうち、いくつかを巡り、いくつかは中に入ってみました。ただし、中の展示物は概ねロシア語の説明書きしかありませんので、ほとんどチンプンカンプンです。特に文学関係の博物館は、言葉が分からないのに何を見に来たの? という感じなので、ほとんどパスしました。

(1)ガリーナ・ヴィシネフスカヤ・オペラ・センター

 昨年(2012年)亡くなった、チェリストのロストロポーヴィチ夫人でソプラノ歌手のガリーナ・ヴィシネフスカヤが2003年に設立したオペラ関係の組織のようです。オペラ歌手の養成や、ここでオペラやコンサートの上演もするようです。

 
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ガリーナ・ヴィシネフスカヤ・オペラ・センターガリーナ・ヴィシネフスカヤ・オペラ・センターのプレート



ガリーナ・ヴィシネフスカヤ・オペラ・センターガリーナ・ヴィシネフスカヤ・オペラ・センターの建物

(2)トルストイ博物館

 ガリーナ・ヴィシネフスカヤ・オペラ・センターから数百メートル歩いてプレチステンカ通りに出ると、トルストイ博物館があります。円柱の建物がちょっと物々しいです。

トルストイ博物館トルストイ博物館

(3)プーシキン博物館

 トルストイ博物館からさらに100mほど北東に移動すると、プーシキン博物館があります。プーシキン(1799〜1837)は、ロシア近代文学の祖と言われる存在で、ロシアでは偉大な人物とみなされているようです。このプーシキンは、政治的発言により、ときの皇帝が仕向けた刺客と決闘に追い込まれ、37歳で生涯を閉じます。この「国家権力の犠牲になった」存在が、帝政期・ソ連時代を通して反体制知識人に支持され続けた理由でもあるようです。
 プーシキンは、歌劇ではグリンカの「ルスランとリュドミラ」、チャイコフスキーの「エウゲニ・オネーギン」や「スペードの女王」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥーノフ」、リムスキー・コルサコフの「金鶏」「皇帝サルタンの物語」などの原作者ですし、映画「アマデウス」の原作となる「モーツァルトとサリエリ」の作者であり、興味はあるのですが、いかんせんそれほどの読者でもないし、ロシア語の説明が理解できるわけでもないので、中に入るのは諦めました。

プーシキン博物館プーシキン博物館

プーシキン博物館ここが入口らしい

(4)モスクワの銀座、アルバート通り

 プーシキン博物館から閑静な住宅地を数百メートル歩くと、モスクワの銀座アルバート通りに出ます。この通りは歩行者天国になっており、カフェやレストラン、土産物店、劇場などが並んでいます。
 ここでスタバで一休み。普通のコーヒーが飲みたかったので、「ノーマル・カフェ」と言ってみたら、「ストレート?」と聞いてきたので「ダー、ダー」といったら、普通のコーヒーが出て来ました。サイズは、と聞かれたので「ショート」といったら、日本の「トール」の大きさが出て来て、値段は115ルーブル(約350円)でした。

アルバート通りのスターバックスアルバート通りのスターバックス

スタバの中は世界共通スタバの中は世界共通

(5)スクリャービン記念博物館

 スクリャービン(1872〜1915)が晩年の何年かを過ごした家が、そのまま博物館として保存されています。アルバート通りから100m程度入ったところにありますが、入口のプレート以外は目立ったものもなく、素通りしてしまいそうです。


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 スクリャービンの住まいは2階に保存され、1階は小さなサロンになっていて、今でも時々ピアノのコンサートが開かれるようです。
 2階には、スクリャービンが使ったベヒシュタインのピアノや、スクリャービンが晩年発明した色光ピアノの電球(電源コンセントをつないで、12半音に対応して異なった色で点灯するのを実演してくれます。単なる12個のスイッチと電球です)、自筆の楽譜やスクリャービンの所有する楽譜や蔵書が展示され、食堂などが当時の様子を伝えます。私が見学している間は、他の見学者はなく独占状態でした。係りのおばちゃんが、スクリャービン自身の演奏よ、といってラジカセでCDをかけてくれました。多分、ピアノロールに保存されていたものを再現したCDだと思います。
 入場料は200ルーブルですが、写真を撮るならプラス100ルーブルとのことでした。暗い部屋で写真を撮るよりも、日本語のガイドブックがあるので、それを買った方がいいよと言われて、そうしました。何と、日本語のパンフレットがありました!
 また、展示室(2階)が上がる前に、靴の上にビニールの「オーバーシューズ」を付けろと言われます(要するに泥や砂を持ち込まないようにする)。退出するときに外し忘れませぬように。

スクリャービン博物館スクリャービン博物館  知らなければ博物館とは気づきません。

スクリャービン博物館スクリャービン博物館の入口

スクリャービン博物館スクリャービン博物館のコンサート・イベント案内(2013年6月)


スクリャービン博物館スクリャービン博物館の日本語パンフレット!


スクリャービン博物館スクリャービン博物館のチケット

(6)マリーナ・ツヴェターエヴァの家博物館

 スクリャービン博物館を出て、北に向かって「新アルバート通り」(ここはクレムリンから西に延びる幹線道路で車がいっぱい走っている)を地下道で横切り、200mほど入ったところにあります。向かい側にマリーナ・ツヴェターエヴァの像があるので分かりましたが、博物館自体はこれまた地味で、プレートがなければ普通の家です。

 マリーナ・ツヴェターエヴァ(Марина Цветаева、1892〜1941)はロシアの女流詩人で、革命前の若い時代には高く評価されたようですが、ソ連時代にはほとんど無視され、没後20年以上経った1960年代になってようやく復権・再評価されるようになったようです。ショスタコーヴィチは最晩年の1973年に「マリーナ・ツヴェターエヴァの詩による6つの歌曲」作品143を作曲しています。生涯最後から5番目の作品です。愛着があったのでしょうか、ピアノ伴奏で作曲したものを、翌1974年に管弦楽編曲版・作品143aにしています。
 訳詩はこちらを参照ください

 ショスタコーヴィチの選んだ6つの詩の最後のものが「アフマートヴァに捧げる」という詩で、マリーナが同世代の女流詩人アンナ・アフマートヴァ(1889〜1966)を詠ったものです。アンナ・アフマートヴァもスターリン時代には沈黙し、「頭の中に詩を書き記した」そうです。ショスタコーヴィチとも親交があったようで、ショスタコーヴィチは同時代を生きた2人の女流詩人を称えたいという意図があったのでしょう。
 残念ながら、私には「詩」というものに対するセンスがなく、かつロシア語で詩を読む力もないので、これらの詩人の詩をきちんと味わったことはありません。でも、ショスタコーヴィチが人生のほぼ最後に選んだ詩人の足跡をたどってみたいと思い、この博物館を訪れました。

 
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マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館マリーナ・ツヴェターエヴァの家博物館

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館博物館向かい側にあるマリーナ・ツヴェターエヴァ像 〜苦悩の表情です

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館マリーナ・ツヴェターエヴァの家博物館のパンフレット



マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館博物館のチケット

 プレートがあるので博物館のはずなのですが、扉を開けようとしても鍵が閉まっています。休館日か、この日はまだ開いていないのか、と思っていると、若い女性がやってきて、呼び鈴を押すとアラームが鳴り、その間に扉を開けて中に入って行きました。ひょっとするとこの博物館の関係者の方かと思い、後に続こうと思ったら、すでに扉は鍵がかかっていました。

 このまま入れないのは残念なので、怒られるのを覚悟で真似して入ってみることにしました。何も知らない観光客と言い訳すればよいし、と割り切って。呼び鈴を押すとアラームが鳴り出し、ドアを開けると開きました。中に入ると階段があり、2階に「KACCA」(チケット売り場)を書いてあります。恐る恐る2階に上がり、「KACCA」の矢印の方向の事務所に入ると「いらっしゃい」の雰囲気だったので一安心。受付のおばちゃんが何か言っていますが、分からないというジェスチャーをして財布を出すと、200ルーブルということなので支払いました。
 私がいる間、直前に入って入り方を示してくれた女性以外の客はありませんでしたので、運の良いときに目の前で客が入ってくれたのでした。これも何かのご縁なのでしょう。

 受付を済ませると、こちらに来いと言うのでついていくと、展示室でパソコンのディスプレイの電源を入れてくれました。「English」をタッチせよ、ということでした。スパシーバというと帰って行ってしまいました。確かに解説メニューらしい表示が出たので「English」をタッチしましたが、ほとんど解説はなく、単にマリーナの「手紙」の英訳が切替で出てくる程度でした。

 ショスタコーヴィチが選んだ6つの詩が、いつ頃の何という詩集から選ばれたものか、ほとんど知りませんでしたので、年代順に展示されている写真や出版物、手紙などとの関連は推測しながら見るしかありませんでした。

 なお、この博物館は、ロシアの博物館では一般的らしいのですが、写真撮影する場合には追加で100ルーブル支払う必要がありました。それを知らずに写真を撮ったら、係りの人が来て、「写真を撮るならもう100ルーブル払って下さい」と言われました。最初にそんなことも言われた可能性はあるのですが、それを理解していなかったわけです。

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館展示室

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館展示室

 この博物館は、マリーナが革命前に夫セルゲイ・エフロンや子供たちと過ごした幸福な時代の家です。夫の書斎や食堂、マリーナ自身の書斎が再現され、居間には子供たちが遊んだおもちゃも並んでいました。

 ロシア革命後、白軍(反革命側)に参加した夫とともにヨーロッパに亡命してヨーロッパを放浪。第2次大戦前にソ連の諜報活動に参加することになった夫とともに帰国したものの、夫はスパイ容疑で逮捕され銃殺。娘も逮捕されて強制収容所。マリーナ本人も、疎開先で自ら首を吊って命を絶ちます。息子もその後独ソ戦で戦死したとか。何とも悲惨で悲劇的な生涯を送ったわけです。
 このような立場ですので、その活動や詩作は、死後もソ連の中では抹殺され続け、再評価されて復権するのはスターリン後の雪解けの時代、1960年代になってからのようです。この博物館も、開館したのはかなり最近なのではないかと思います。(調べたら、生誕100周年の1992年にオープンしたらしい)

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館子供のおもちゃやぬいぐるみが置かれた居間

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館マリーナの書斎

 この博物館も、1階は小さなサロンがあり、ピアノが置いてありましたので、小さな朗読会やコンサートなども行われているようでした。

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館1階にあるサロン

マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館サロンに飾られたマリーナの大きな写真

(7)グネーシン音楽大学

 マリーナ・ツヴェターエヴァ博物館のすぐ近くに、グネーシン音楽大学という音楽学校がありました。何でもピアニストのキーシンが卒業した学校らしいです。正式には、「グネーシン記念ロシア国立音楽大学」というようです。

グネーシン音楽大学グネーシン音楽大学のプレート



グネーシン音楽大学グネーシン音楽大学

(8)バラキレフ記念芸術学校

 仕事で行った場所が、地下鉄駅から路線バスに乗っていくところでした。モスクワでは、地下鉄の回数券で路線バスにも乗れます。
 仕事場の最寄のバス停が「バラキレフ記念芸術学校前」でした。停留所の目の前にこの学校がありました。

 ロシア五人組みのリーダ格であるバラキレフの名前を冠した学校ですが、校舎を見る限り新しいようでした。ホームページをみると、子供向けの学校のようです。

   Balakirev art school (Детская школа искусств имени М. А. Балакирева )

バラキレフ芸術学校バラキレフ芸術学校

3.ボリショイ劇場でオペラ

 6月は、どちらかと言えばバレエやオペラはシーズンオフです。ロシアでも、この時期はほとんどバレエの公演はなく、オペラも隔日公演程度です。しかも、おそらく若手や新人中心のメンバーによるものと思われ、ややレアものに相当するロシアのオペラよりも、メジャーなイタリアオペラやドイツものが多いようです。
 さらに、ボリショイ劇場・本館の公演は少なく、「新館」(本館の向かって左側)での公演が多いようです。

 私が見たのも、新館でのモーツァルト作曲の「魔笛」。若手中心のキャストのようでしたが、歌はかなりうまかったと思います。

 まさかロシア語では、と危惧しましたが、きちんとしたドイツ語で、「語り」の部分もおそらく省略なしだったと思います。舞台の両脇には、大きな液晶画面があり、ロシア語の字幕が表示されていました。

 演出は極めて現代的で、おそらく「アメリカ」を意識した舞台で、自動車なども登場。夜の女王の3人の侍女は、初めは婦人警官、パパゲーノが登場した後に出てくるときにはマリリン・モンロー(下からの風でスカートが!)、後半のザラストロの館に忍び込んでくるときには看護婦と、まるでコスプレ。「働く女性」を意図しているのかもしれませんが、意味不明でした。全体として、「ドタバタ・コメディ」のような作りでしたが、悪い印象はなく、面白く観ることができました。

 パミーナとパパゲーノの歌と演技が特にブラボーでした。夜の女王はいかにも「マダム」といういでたちで、例のアリアでは高い音をバッチリ決めていましたが、ちょっと威厳と落ち着きがいまひとつ・・・。

ボリショイ劇場ボリショイ劇場・本館

ボリショイ劇場ボリショイ劇場・本館。奥が新館。

ボリショイ劇場新館ボリショイ劇場新館の演目表示



ボリショイ劇場新館ボリショイ劇場新館

ボリショイ劇場ボリショイ劇場新館のエントランス 〜ちょっと狭い

ボリショイ劇場ボリショイ劇場新館の幕間のロビー 〜女性があでやかです

ボリショイ劇場ボリショイ劇場新館の内部

ボリショイ劇場ボリショイ劇場新館の内部

ボリショイ劇場劇場のオケピット



ボリショイ劇場幕間のオケピット 〜楽器は置きっぱなし

ボリショイ劇場新館プログラム



ボリショイ劇場新館チケット


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