横浜フィルハーモニー管弦楽団の次回第56回定期演奏会で、プロコフィエフ(1891〜1953)の交響曲第1番「古典交響曲」を取り上げます。この曲にまつわる意外な話題。
さっそくですが、プロコフィエフと横浜には、どんな関係があるのでしょうか?
実は、プロコフィエフは、27歳の1918年 6月 1日に横浜を訪れ、横浜グランドホテルに泊っているのです。また、 7月 9日には横浜でピアノの演奏会も開いています。
「プロコフィエフの日本滞在記」(1918年 6月 1日)
この 6月 1日という日付を見て、ぴんと来たあなたはさすがです。そう、この日付は、まさに、この年(1918年)の 4月21日にペトログラードで古典交響曲を初演した直後のことなのです。
この事実を、実は私も今回調べてみて初めて知りました。横浜の音楽愛好家として、ちょっとうれしくなってしまいました。
2.プロコフィエフの日本滞在の記録
プロコフィエフは、1917年のロシア革命後、活動の場を求めて、日本を経由してアメリカに出国しますが、その途中、船便の都合で約2ヶ月日本に滞在しています。その間、京都・大阪・奈良を訪問するとともに、東京・横浜でピアノリサイタルも開いています。
そのときの日記が、ご子息により2002年に出版され、その日本語訳が下記ブログに公開されています。あたかも、プロコフィエフ自身が毎日ブログを書いたように、1918年の日付で 5月から 8月までの日付となっています。
7月 9日には、横浜のグランドホテルでピアノ演奏会を開いています。演奏曲目は、7月 6日に東京の帝国劇場で行われた公演と同じだそうで、そのときのプログラムがブログの中でも紹介されています。(自作のピアノソナタの他にショパンも弾いています)
(注)横浜グランドホテルは、現在の人形の家付近にあった洋風ホテルだそうです。(1873年創業、関東大震災で崩壊。現在のホテルニューグランドは別のホテルですが、名前を一般募集して「グランド」の名前を引き継いだそうです)
なお、日本滞在の痕跡は、1921年にシカゴで初演されたピアノ協奏曲第3番の3楽章に「越後獅子」の一節が出て来るところに残っています。
(つづく)
1.プロコフィエフと横浜の意外な関係
「プロコフィエフの日本滞在記」(1918年 7月 9日)
日記は、1918年 5月15日にシベリア鉄道でバイカル湖のほとりのイルクーツクを通過したところから始まります。 5月31日に敦賀に上陸して陸路東京へ、そして 6月 1日には船便を求めて横浜へやって来ました。そして、 8月 2日にサンフランシスコに向けて船出するまで記載されています。(ブログ形式なので、7月→6月→5月で、日付も逆順になっています・・・)
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