シェーンベルクのちょっと寄り道  〜次回(第89回)の演奏曲目から〜

初版作成:2023年10月20日

 シェーンベルクと聞いただけで拒絶反応を起こす人が多いのではないでしょうか。
 「調性の破壊者」「醜いゲンダイ音楽の創始者」と考えられて毛嫌いされることが多いようです。
 しかし、決してそうではなく、19世紀末のウィーンで音楽活動を始め、20世紀を生きる中でドイツ音楽の伝統の発展を探求し続けたパイオニアだったのです。
 今回、シェーンベルクが管弦楽編曲した「ブラームス作曲・ピアノ四重奏曲第1番ト短調」を演奏するにあたり、シェーンベルクについてのあれこれをまとめてみました。
 「聴かず嫌い」ではなく、しっかり「ドイツ音楽の伝統の延長線上の発展形」を受け止めるきっかけになればよいと思います。

Arnold Schoenberg(1874〜1951)
 


1.はじめに

 そんなシェーンベルクを紹介する良い本が出ました。
 音楽之友社の「作曲家・人と作品」シリーズの最新刊、浅井佑太・著「シェーンベルク」(2023年5月10日初版)です。
 ウィーンの音楽の伝統、ドイツ音楽をどのように継承・発展させていくかというシェーンベルクの真摯な人生が生き生きとした文章で語られています。
 興味のある方は是非お読みください。

浅井佑太・著「シェーンベルク〜作曲家・人と作品」(音楽之友社、2023年)

 また、シェーンベルクは「教育者」でもあるので、数多くの講演や文献を残しています。
 そのうち、下記が日本語版として出ています。本人が楽譜入りで説明している「十二音による作曲」や、ブラームスを評価した「革新主義者ブラームス」などが含まれていますので、興味のある方は読んでみてください。

アーノルト・シェーンベルク著・上田 昭・訳「シェーンベルク音楽論選〜様式と思想」 (ちくま学芸文庫、筑摩書房、2019年)
 

2.アルノルト・シェーンベルクの生涯

1874年9月13日:ウィーンに生まれる。父ザムエルはスロヴァキアのブラティスラヴァからやって来たユダヤ人、母パウリーネもプラハからやって来たユダヤ人で、アルノルトが生まれたころにはウィーンで靴屋を営んでいた。
1882年(8歳):この頃ヴァイオリンの手ほどきを受ける。
1885年(11歳):国民学校を卒業して実科学校に進む。そこで1歳年下の友人オスカー・アドラー(同じくヴァイオリンを弾いた)に音楽の初歩的理論を学ぶ。
1890年(16歳):父ザムエルがインフルエンザで他界。家族を支えるため学校を中退して銀行で働き始める。余暇に弦楽四重奏を楽しみながら、自作の四重奏曲を作曲し始める。
 
1895年(21歳):アマチュア・オーケストラ「ポリュフムニア」にチェロ奏者として入団。そこの指揮者が3歳年上のツェムリンスキーであった(ツェムリンスキーはウィーン音楽院を卒業していた作曲家)。シェーンベルクはツェムリンスキーに作曲の指導を受けるとともに、ツェムリンスキーの妹マティルデと親しくなる。また、ツェムリンスキーを介してウィーンのブルジョア社会、音楽界とのつながりを持つようになる。
勤めていた銀行が破産して失職。アマチュア合唱団の指揮者で生計を立てることとする。
1897年(23歳):「弦楽四重奏曲・二長調」を作曲。
1898年(24歳):「弦楽四重奏曲・二長調」を初演、ウィーン音楽界へのデビューは好評で迎えられる。「2つの歌」作品1を作曲。ユダヤ教からプロテスタントに改宗。
1899年(25歳):弦楽六重奏による「浄められた夜」作品4を作曲。
 
1901年(27歳):ツェムリンスキーの妹マティルデと結婚。仕事を求めてベルリンに赴きキャバレーの楽長の職を得る。
1902年(28歳):キャバレーが財政難に陥り失職。リヒャルト・シュトラウスを紹介され、R. シュトラウスの口利きでベルリンのシュテルン音楽院の講師の職を得るとともにドイツ音楽協会からの奨学金を支給される。さらに、メーテルランクの戯曲「ペリアスとメリザンド」の付随音楽の作曲を勧められる。
ウィーンで「浄められた夜」が初演され、マーラーが関心を抱く。
1903年(29歳):交響詩「ペリアスとメリザンド」作品5を作曲。(交響詩という形態がR. シュトラウスを意識したものとなっている)
ツェムリンスキーの勧めもあり、ウィーンに戻る。シュヴァルツヴァルト女学院で講師。
マーラーと知り合い個人的に関係を深めていく。
1904年(30歳):ツェムリンスキーらとともに「創造的音楽協会」を設立し、保守的なウィーンの聴衆を同時代の新しい音楽に向けさせる活動を開始。(ツェムリンスキーが会長、シェーンベルクが副会長、マーラーが名誉会長)
第1回公演では R. シュトラウスの「家庭交響曲」をウィーン初演。
自宅で音楽の個人授業を始め、ウィーン音楽院の学生だったヴェーベルンが、後にアルバン・ベルクがやって来る。
 
1905年(31歳):「創造的音楽協会」のウィーン楽友協会での演奏会で、交響詩「ペリアスとメリザンド」、ツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」を初演。
1906年(32歳):「室内交響曲第1番」Op.9
1907年(33歳):マーラーの尽力で「弦楽四重奏曲第1番」Op.7、「室内交響曲第1番」Op.9 初演。論評の多くは否定的であったが、シェーンベルクは「無視できない存在」とみなされるようになる。
1908年(34歳):妻マティルデと画家ゲルストルが駆け落ち。弟子たちの奔走で妻マティルデは家に戻るが、ゲルストルはピストル自殺。
「弦楽四重奏曲第2番」Op.10 初演、第3・4楽章にソプラノ独唱を伴い、無調(拡大された調性)に踏み出した作品がスキャンダルを引き起こす。
1909年(35歳):「5つの管弦楽曲」Op.16、この第3曲「色彩」で「音色旋律」を採用。モノドラマ「期待」Op.17
 
1910年(36歳):ウィーンで絵画の個展を開く。ウィーン音楽アカデミー講師となる。
シェーンベルクの描いた自画像

1911年(37歳):マーラー死去。「6つの小さなピアノ曲」Op.19 の終曲はマーラーへの追悼歌。
抽象画の創始者カンディンスキーと知り合い、カンディンスキーの推薦でミュンヘンの「青騎士展」に出品。
ウィーンを去ってベルリンに移住、シュテルン音楽院の講師となる。R. シュトラウスに再会するが、「ばらの騎士」(1910年)以降保守化したシュトラウスとは決別することになる。
1912年(38歳):アルベール・ジローの詩のドイツ語訳に曲を付けた「月に憑かれたピエロ」Op.21、「シュプレッヒゲザング」という「歌うように語る」特殊な歌唱法を採用。好評とはいえないがヨーロッパ中で再演され、ストラヴィンスキーも聞いている。
1913年(39歳):1901年頃から書き進めて1911年に完成させた「グレの歌」をウィーン楽友協会大ホールで初演、大好評を博す。
その翌月のツェムリンスキー、シェーンベルク、ヴェーベルン、ベルクの曲からなる演奏会は再び大スキャンダルを引き起こす。
さらにその1か月後には、パリでストラヴィンスキー「春の祭典」がスキャンダルを引き起こす。
1914年(40歳):第一次世界大戦が勃発。シェーンベルクも従軍する。ここから約10年はほとんど作品を公表していない。
 
1918年(44歳):ドビュッシー死去。第一次大戦終結。
新曲を「何回かのリハーサルと本番をセットで公開する」形式で公開する試みが始まり「私的演奏協会」へと発展する(1921年までに117回開催し、マックス・レーガー、ドビュッシー、バルトーク、シェーンベルクなどが取り上げられた。ラヴェルも招待されて演奏した)。
1921年(47歳):ウィーンに戻る。ザルツブルク近郊の避暑地マットゼーで「ユダヤ人排斥」にあう。
この頃「十二音技法」を確立する。オクターブ内の「12半音」をすべて使った「音高列」を旋律・和声の基本モチーフとして、それを「主題・動機労作」(テーマ・アルバイテン)という伝統的手法で発展させて曲を構成するもの。シェーンベルク自身は、それを「伝統的ドイツ音楽形式の発展」とみなした。
1923年(49歳):十二音技法による「6つのピアノ曲」Op.23「セレナーデ」Op.24「ピアノのための組曲」Op,25
妻マティルデ死去。
1924年(50歳):弟子の妹で24歳年下のゲルトルートに一目ぼれし結婚。
ウィーン市庁舎で50歳記念祝賀会。フランクフルトで、指揮者のヘルマン・シェルヒェンと作曲家ヒンデミットが協力してシェーンベルクの演奏会を開催。
「管楽五重奏曲」Op.26
 
1925年(51歳):イタリアに新婚旅行。
1926年(52歳):ベルリンのプロイセン芸術アカデミーの作曲家教授として招聘され3たびベルリンに移住。新妻へ「組曲」Op.29 を献呈。
1927年(53歳):弦楽四重奏曲第3番Op.30
1928年(54歳):「管弦楽のための変奏曲」Op.31 をフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルにより初演。(ドイツ音楽の伝統としてブラームスの「ハイドン変奏曲」を意識している)
1929年(55歳):歌劇「今日から明日へ」Op.32「映画の一場面のための伴奏音楽」Op.34(実際の映画に使われたわけではない)。
 
1930年(56歳):歌劇「モーゼとアロン」作曲開始(1932年までに第2幕まで完成するが、未完)。
1933年(59歳):ヒトラー政権誕生。ユダヤ人の公職追放によりプロイセン芸術アカデミーを辞職、パリでユダヤ教に再改宗し、アメリカに亡命。ボストンのマルキン音楽院の教職に就く。
シェーンベルクは「故郷とともに言葉も失うことにまでは準備ができていなかった」と語っている。
ドイツ作曲家組合の会員資格を失ったため、ヨーロッパでの著作権料が一切入らなくなる。
1934年(60歳):喘息の持病があることからロサンゼルスに移住。
 
1935年(61歳):南カリフォルニア大学で教え始める。個人教師も始め、ジョン・ケージなどが弟子入り。ベルク死去(享年50歳)。
1936年(62歳):同じロサンゼルスに亡命していた指揮者オットー・クレンペラーの推挙でカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授となる。
ガーシュインや、亡命していたトーマス・マン、アルマ・マーラー、哲学者のテオドール・アドルノらとご近所さんで交友する。
ヴァイオリン協奏曲Op.36 を作曲(初演は1940年)、弦楽四重奏曲第4番Op.37
1937年(63歳):指揮者クレンペラーの勧めでブラームス「ピアノ四重奏曲第1番」を管弦楽編曲
1938年(64歳):「コル・ニドレ」Op.39(ソプラノ、合唱、管弦楽)。
1939年(65歳):「室内交響曲第2番」Op.38、調性的な作品。
 
1942年(68歳):「ナポレオン・ボナパルトへの頌歌」Op.41(初演は1946年)。ヒトラーを揶揄した作品。ピアノ協奏曲Op.42
1943年(69歳):「吹奏楽のための主題と変奏」Op.43(管弦楽版Op.43B)、これも調性的な作品。
1944年(70歳):カリフォルニア大学を定年退職。
 
1945年(71歳):第二次大戦終結。戦後の混乱の中、ヴェーベルンが進駐した米兵の誤射によって命を落とす(66歳)。
1947年(73歳):「ワルシャワの生き残り」Op.46、ユダヤ人のホロコーストを取り扱ったもの。
1949年(75歳):ウィーン市より名誉市民の称号を授与される。「私が長年過ごしたこの街に自由に入場できる権利をいつか行使したい」と語ったが、果たすことはなかった。
 
1951年7月13日、ロサンゼルスで死去。享年76歳。

 

3.シェーンベルクの「代表作」と入門ガイド

 シェーンベルクの特徴は「室内楽」を基本とした「音楽の横線の組合せ、対位法」にあるようです。
 おそらく、自分の考える音楽を組み立てる際に、分厚い音の塊ではなく、室内楽や独奏楽器の「線」を組合せることで作り上げて行こうとしたものと思います。

 まずお勧めするのは、若き日の代表作

「浄められた夜」Op.4

 ワーグナーの影響を濃厚に受けた後期ロマン派の作品です。
 同時代に詩人リヒャルト・デーメルの詩にインスパイアされたもので、
  2人の男女が月の光の森の中を歩いている。
  女は「お腹の子はあなたの子ではない」と告白する。
  男はそれを受け入れ、女を許す。2人は寄り添って森の中を進む」
という常識的には不道徳な内容です。
 19世紀末ウィーンの「表面はお行儀よく上品」、その裏には「どろどろとした情欲が渦巻いている」という爛熟した社会に対して、赤裸々な人間の内面を表出するものでした。シェーンベルクの挑戦的な熱気に満ちています。
 原曲は「室内楽」である「弦楽六重奏」ですが、作曲者自身が「弦楽合奏」用に編曲しています。
 曲想的には分厚い「弦楽合奏」も合いますが、オリジナルの弦楽六重奏や、やや小ぶりの室内オーケストラの演奏の方がオリジナルの意図に近いのかもしれません。
小澤征爾/サイトウキネン・オーケストラのライブ演奏の YouTube

「室内交響曲第1番」Op.9

 原曲は15の独奏楽器のために書かれています。
 これも作曲者自身が管弦楽用に編曲したものもありますが、多声部の線的な動きを聞き取るにはオリジナルの小編成の方がよいと思います。
 この曲がそれほどのスキャンダルを巻き起こすとは現代の耳では信じられません。
オリジナルの小編成でのライブ演奏の YouTube

 初演は1913年ですが、作風は「後期ロマン派」である
 「グレの歌」 (作品番号なし)
も時間があれば聞いておきたいものです。
 ほとんどオペラに近い、独唱、合唱、大規模な管弦楽による作品で、演奏には約2時間を要します。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を思わせる濃厚な曲で聴きごたえがあります。
 初演時にはウィーンの評論家からも絶賛されました。
 ただし、シェーンベルク自身は「自分の音楽の今後の運命に、この作品の成功が影響を与えることはないだろう」と冷ややかに見ていたようです。
マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響のライブ演奏(2009年)の YouTube

 そういった「挑戦」は、だんだん伝統的な「調性、和声」や「音楽形式」の予定調和的な安定を逸脱する方向に向かいますが、耳に痛いところまでは行きません。
 そういった「調性の拡大」の一つの段階として
 「5つの管弦楽曲」Op.16 
あたりを聞いてみるとよいかも。
 第3曲「色彩」で「音色旋律」を採用しています。
PROMS でのBBC交響楽団のライブ演奏の YouTube

 次のステップは、「無調」に足を踏み入れて、ちょっと身構えてしまいますが
 「月に憑かれたピエロ」Op.21
 これも、ソプラノのおどろおどろしい「シュプレッヒシュテンメ」を伴奏するのは室内楽構成のフルート(ピッコロ)、クラリネット、バス・クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノで、やはり小編成で書かれています。
 7曲がひとまとまりで、全3部の21曲から成ります。
日本人演奏家によるライブ演奏の YouTube(日本語字幕付)
シカゴ響メンバーによるライブ演奏の YouTube(字幕は英語)

 第一次大戦をはさんだ沈黙の期間の後、1923年頃に作曲の指針としての「十二音音楽」の技法を確立すると、曲の様式はかえって保守的・伝統的になります。「組曲」Op,29 などは「序曲」「ダンス・ステップ」「主題と変奏」「ジーグ」などと、バッハの時代に戻ったかのようです。
 十二音音楽の代表作として

 管弦楽のための変奏曲 Op.31

も聴いてみましょう。
 ドイツ音楽の伝統である「主題と変奏」という様式で、構成的にはブラームスの「ハイドン変奏曲」を意識していると思います。
 フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルで初演されており、かのカラヤンもそれを意識してか録音を残しています。
ピエール・ブーレーズ指揮によるライブ演奏の YouTube

 1933年のアメリカ亡命後には、アメリカの保守的な(というよりは未熟な)聴衆を考慮してか、調性的な作品が多くなります。
 おそらく「ドイツ音楽の伝統」「ウィーンの音楽趣味」といった「何も言わなくても分かる」はずのものが、アメリカでは通用しないことに落胆するとともに、そういったものを「教え育てる」教育的な配慮もあったのかもしれません。
 様式的にも、「ヴァイオリン協奏曲」Op.36、「ピアノ協奏曲」Op.42などの複数楽章を持つ伝統的な様式にのっとった曲が多くなります。

 そんな中での代表作は、1939年の
 「室内交響曲第2番」Op.38
 調性的に「落ち着いた」作品になっていて、逆に後世のシュトックハウゼンやブーレーズからは「時代に逆行」と非難されています。
フランクフルト放送響ライブ演奏の YouTube

 同様に調性的な作品として
 「吹奏楽のための主題と変奏」Op.43(1943年)
 オリジナルは吹奏楽ですが、これも作曲者自身による管弦楽編曲版 Op.43B があります。
吹奏楽によるライブ演奏の YouTube

 さらに、ナチスのホロコーストに抗議してユダヤの民族愛に燃えて書かれた
 「ワルシャワの生き残り」Op.46(1947年)
 英語のナレーションと、ドイツ語の「軍曹」の怒鳴り声、そして突如湧き起こるヘブライ語による祈り「聞け、イスラエルよ」は感動ものです。
ドホナーニ指揮ウィーン交響楽団、トーマス・ハンプソンの語りによる屋外ライブ演奏の YouTube

他人の作品の編曲

 シェーンベルクは、作曲とは別に他人の作品の編曲も数多く行っています。
 有名なところでは

バッハ作曲 オルガンのためのコラール「来たれ、創り主たる聖霊の神よ」 BWV667
      →管弦楽編曲(1922年)
      オルガンのためのコラール「おお愛する魂よ、汝を飾れ」 BWV654
      →管弦楽編曲(1922年)
      オルガン曲「前奏曲とフーガ」 BWV552
      →管弦楽編曲(1928年)

マーラー作曲「さすらう若者の歌」 →室内管弦楽(1920年)
      「大地の歌」 →室内管弦楽(1921年、未完)

ヨハン・シュトラウス作曲「入り江のワルツ」Op.411 →室内楽(1921年)
            「南国のバラ」Op.388 →室内楽(1921年)
            「皇帝円舞曲」Op.437 →室内楽(1925年)

マックス・レーガー作曲「ロマンティック組曲」Op.125 →室内管弦楽(1920年)

ブラームス「ピアノ四重奏曲第1番」の管弦楽編曲版(1937年)

 シェーンベルクと同じユダヤ人との理由で、ベルリンの「クロール・オペラ」を追放されてアメリカに亡命していた指揮者のオットー・クレンペラーは、シェーンベルクより一足早くロサンゼルスに赴き、1933年からロサンゼルス・フィルの指揮者となっていて、1934年にロサンゼルスにやって来たシェーンベルクにカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教職を斡旋しました。
 そんなクレンペラーからの提案を受けて、シェーンベルクは1937年にブラームスの「ピアノ四重奏曲第1番」の管弦楽編曲を行い、1938年にクレンペラー指揮ロサンゼルス・フィルによって初演されています。クレンペラーには曲を依頼することで経済的に援助する意図が、シェーンベルクにはそれに答えて「独占演奏権」を与えることで報いる意図があったのでしょう。(クレンペラーは、「十二音技法」による新曲よりも、ブラームスの編曲の方がアメリカの聴衆には受け入れやすいと配慮したのかもしれません)

既存作品の改作
「チェロ協奏曲」(1933年) ←マティアス・ゲオルク・モン(1717〜1750)「チェンバロ協奏曲」の改作
「弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲」(1933年) ←ヘンデル「合奏協奏曲」Op.6/7の改作

 

4.お勧めCD

 いまどきは、YouTube やサブスクのストリーミングサービスで自由に音楽が聴けるので、CDなど過去の遺物かもしれませんが、とりあえずお勧めの演奏を。

 まとまった演奏で新ウィーン楽派のシェーンベルク、アルバン・ベルク、ヴェーベルンの代表的な音楽を聴こうと思ったら、下記のようなセットものがお勧めです。

 シノーポリがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したもの。
 これで、シェーンベルク、アルバン・ベルク、ヴェーベルンの代表作がほとんどそろいます。
 シュターツカペレ・ドレスデンの渋い音色が、かえって深い響きでシェーンベルクを聴かせます。
シノーポリ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン(8CD)

 現代音楽が得意なピエール・ブーレーズの演奏。シェーンベルクだけで 11枚組です。
ブーレーズ指揮 アンサンブル・アンテルコンタンポラン、BBC響、ニューヨーク・フィル(11CD)

 シェーンベルクでは重要な弦楽四重奏曲は、ラサール四重奏団がベルク、ウェーベルン、ツェムリンスキーも含めたものをまとめて録音しています。
新ウィーン楽派室内楽集/ラサール弦楽四重奏団(6CD)

 単品では、「グレの歌」をいろいろな指揮者が振っています。
 たとえば
アバド指揮/ウィーン・フィル(2CD)
 

ブラームス(シェーンベルク編)・ピアノ四重奏曲No.1 G-moll

一昔前までは比較的録音が少なかったのですが、最近かなり増えているようです。

サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィル(2009年録音)
 ラトルはバーミンガム市交響楽団とも1984年に録音しています。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 フランクフルト放送交響楽団(2007年録音)

準・メルクル指揮 ライプツィヒ中部ドイツ放送響(2007年録音)

ミヒャエル・ギーレン指揮 南西ドイツ放送交響楽団(1991年録音)
 現在はセットものの中にしかないようです。
 



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