シベリウスのちょっと寄り道 〜その生涯と主要な作品〜

2020年 8月 2日 初版作成
2021年6月4日 コロナ禍での演奏会繰り延べにより全面変更
2021年9月17日 「4.アドルノ、レイボヴィツによるシベリウス批判」を追加


 横浜フィルハーモニー管弦楽団の次回第84回定期演奏会で、シベリウス作曲「交響曲第1番」、および「交響曲第5番」を演奏します。
 シベリウスの交響曲は、2016年の交響曲第2番以来です。
 交響曲第1番は、1997年11月の第38回定期演奏会で新田ユリさん(当時は中村ユリさん)の指揮で演奏しているので今回が2回目です。
(ちなみに、そのときに演奏したゲーゼ作曲「交響曲第6番」は日本初演だそうです。)

 シベリウスは有名であり、愛好者も多いことから、特に私が新たに追加するような話題もないので、これまで特にまとめた記事は書いていませんでした。
 特に書くべき内容ができたわけではありませんが、自分の中での整理・整頓の意味で、ここに簡単なものをまとめてみようと思います。

 ちなみに、シベリウスは 1865年生まれですから、マーラー(1860年生まれ)の5歳下、ドビュッシー(1862年生まれ)の3歳下、リヒャルト・シュトラウス(1864年生まれ)の1歳下、北欧デンマークの作曲家ニールセン(1865年生まれ)とは同い年です。
 サティ(1866年生まれ)は1歳下、ヴォーン・ウィリアムズ(1872年生まれ)は7歳下、シェーンベルク(1874年生まれ)は9歳下になります。

ジャン・シベリウス(1865〜1957)
Johan Julius Christian Sibelius



1.シベリウスの生涯

 シベリウスは、19世紀末から20世紀前半を生きた作曲家であり、ヨーロッパ社会の激動の時代を生きたとも言えます。
 その中で、時代の最先端を開拓するという立場ではなく、フィンランドというヨーロッパの周辺国、やや音楽の後進国、そしてロシアからの長い間の支配からの独立と混乱という時代の中で、自身の音楽や趣向を貫いた音楽人生を送りました。その結果、最後の30年間はほとんど新作を発表しないという謎の沈黙(「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれる)の時期を送ることになりました。
 その謎の推測は専門家にお任せするとして、ここではシベリウスの生涯を駆け足でたどってみたいと思います。

 その前に、フィンランドという国に関する状況を簡単にまとめておきましょう。
 フィンランドは、その地理的な条件から、長い間スウェーデン(12世紀〜19世紀初め)、その後ロシア(1805〜1917年)の支配下にありました。
 そのため、現代でも、国民の90%以上がフィンランド語を話すフィン人、約6%がスウェーデン語を話すスウェーデン系フィンランド人であり、この2言語が現在でも公用語だそうです。
 シベリウスの時代には、スウェーデン系の「スヴェコマン」が現在よりも多い約14%で社会上層部の支配層、資産家、エリートを占め、大多数のフィンランドを話す「フェンノマン」が人口の約86%で、被支配層・一般大衆としてイデオロギー的・階級的な対立関係にあったようです。
 シベリウスは、スウェーデン語を話す「スヴェコマン」の家庭に育ちますが、学校ではフィンランド語も学び、フィンランド語で編纂されて民族的アイデンティティを形成しつつあった口承叙事詩「カレワラ」にも大いに興味を持っていました。
 また、生涯の伴侶となった妻アイノの実家であるヤーネフェルト家は筋金入りの「フェンノマン」だったようで、シベリウス自身も「スヴェコマン」と「フェンノマン」の国民的融和を進めるように活動したようです。

 さらに、当時のフィンランドはロシア帝国の支配下にあり、当初は「フィンランド大公国」としてかなりの自治が認められていたようですが、19世紀末からの世界的な「労働運動」や「革命運動」の高まり、民族の独立を求める動きなど警戒して強圧的な支配が強まっていました。それは1898年にロシアの愛国主義者ニコライ・ボブリコフがフィンランド総督に就任して一層強くなったようです(結果として、ボブリコフは1904年にフィンランド人青年によって暗殺される)。
 フィンランドがロシアから独立するのは、第一次大戦末期の1917年のロシア革命のどさくさの中であり、ロシアから独立してもフィンランド国内は右派と左派との内戦が起こり、シベリウスもそういった混乱の時代を過ごしました。
 当時のヨーロッパは、そんな情勢でした。

 なお、シベリウスはほとんど音楽の英才教育を受けていません。音楽の専門教育を受けるのは、ヘルシンキ大学で法学の勉強と並行してヘルシンキ音楽院でヴァイオリンを学ぶようになってから、作曲に関しては21歳になってからです。こう言っては何ですが、晩発であっても音楽で身を立てることができたのは、音楽後進国のフィンランドだったから、ということも幸いしているのでしょう。

1865年12月8日:シベリウス誕生。父クリスティアンは医者で、当時はヘルシンキから約100 km北方のロシア軍が駐留する小都市ハメーンリンナに住み、そこで母マリアと出会って結婚していた。
 洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスティアンであるが、家族からは「ヤンネ」の愛称で呼ばれ、シベリウス自身これをフランス風に「ジャン」と呼ぶようになった。

1868年(2歳):父クリスティアンがチフスに感染して死亡。この年フィンランドは大飢饉で、栄養失調でチフスが大流行し、治療にあたった医者も多くが感染したらしい。
 そのため、母マリアは実家の親戚を頼ってハメーンリンナ市内を転々としながら子供たちを育てることになる。

1872年(6歳):ハメーンリンナのスウェーデン語系の学校に入学。叔母からピアノを習い始める。

1874年(8歳):フィンランド語系の学校に転校。

1881年(15歳):ハメーンリンナの軍楽隊長にヴァイオリンを習い始める。作曲にも興味を持ち始めるが、作曲に関しては全くの独学。

1885年(19歳):一家はヘルシンキに移り、ヘルシンキ大学に入学(初め理学部、のち法学部)。併せて設立されたばかりのヘルシンキ音楽院でヴァイオリンも学ぶ。(このころから「ヤンネ」を「ジャン」と呼ぶようになる)

1887年(21歳):極度の「あがり症」だったため演奏家はあきらめ、ヘルシンキ音楽院のマルティン・ヴェゲリウス(1846〜1906)から作曲の指導を受け始める。またヘルシンキ大学に入学してきたアルマス・ヤーネフェルトと知り合い、ヤーネフェルト家に出入りするようになる。アルマスの妹が、伴侶となるアイノ(1871〜1969)である。

アイノ・ヤーネフェルト(1888年)

1888年(22歳):歌曲「セレナード」が初めて出版作品となる。ヘルシンキ音楽院にピアノ教師として来ていたフェルッチョ・ブゾーニ(1866〜1924、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータの「シャコンヌ」のピアノ編曲が有名)と知り合い、生涯続く親交が始まる。また、1882年にフェルシンキ・フィルを創設したロベルト・カヤヌス(1856〜1933)とも知り合う。

1889年(23歳):ヘルシンキ音楽院を卒業し、奨学金を得てベルリンに留学。この時期に過度な飲酒や喫煙、浪費癖や不摂生な生活習慣を身につける。この時期にワーグナーのオペラに熱狂し、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の初演などを聴く。

1890年(24歳):6月に一度帰国しアイノと婚約する。再び奨学金を得てウィーンに留学。保守的な指導であまり得るものはなかった。留学中にヴァイオリンでウィーン・フィルのオーディションを受けたが落ちた。ウィーンでは、もっぱら管弦楽曲の作曲を志し、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」の「クレルヴォ神話」に興味を抱く。文通していたアイノの影響らしい。兄妹の近親相姦を扱っているところがワーグナーの「ニーベルングの指輪」と共通していることから、ワーグナーの影響もあるようである。

1891年(25歳):ウィーン留学から帰国。留学中に交響曲の第1、2楽章として作った管弦楽曲「序曲」「舞踏会の情景」を自身でヘルシンキ・フィルを指揮して初演。管弦楽曲としてのデビュー作、および指揮者としてのデビューとなる。民族叙事詩「カレワラ」の中の「クレルヴォ神話」に題材をとった交響曲に着手。

シベリウス(1891年)

1892年(26歳):交響詩「クレルヴォ」Op.7 初演。成功をおさめるが、シベリウスはこの曲を封印し、生存中は再演されなかった(蘇演は1958年)。
アイノと結婚。新婚旅行でカレリア地方を訪問する。
ヘルシンキ音楽院、ヘルシンキ・フィルのオーケストラ学校に職を得る。
芸術家のサークル「シンポジウム」で不摂生な生活を繰り返す。
交響詩「エン・サガ(伝説)」Op.9。

「シンポジウム」でのシベリウス

1893年(27歳):この頃、音楽の方向性としてワーグナーを目指し、「カレワラ」に基づくオペラ「船の建造」(最終的に未完)に着手するが、なかなか進まず、スランプに陥り酒浸りの生活が続く。
ヘルシンキ大学のカレリア地方出身者のグループからの依頼で、舞台劇「カレリア」付随音楽を作曲。ここから「カレリア序曲」Op.10、「カレリア組曲」Op.11 を改編。
長女エヴァ誕生。

1894年(28歳):管弦楽のための「即興曲」作曲(後に改訂して交響詩「春の歌」Op.16)。
バイロイトへ赴き「パルシファル」などの上演を観る。またミュンヘンで多数のワーグナーのオペラを観て、そこで逆に「ワーグナーとの決別」を決心したらしい。これによりオペラ「船の建造」は放棄する。
バイロイトから直接帰国せず、イタリアを初訪問しヴェネツィアに滞在。
次女ルース誕生。
ロシア皇帝にニコライ2世が即位し、フィンランドの自治に次第に脅威が迫る。

1895年(29歳):交響詩「森の精」Op.15。

1896年(30歳):連作交響詩「レンミンカイネン」(4つの伝説曲)Op.22 (初稿)を初演。一部はオペラ「船の建造」のための曲を転用。最終稿では下記の4曲だが、初稿の時点では第2曲、第3曲の順序が逆転していた。その後、1897年、1900年、1939年に改訂して最終稿となる。
 第1曲「レンミンカイネンと島の乙女たち」
 第2曲「トゥオネラの白鳥」
 第3曲「トゥオネラのレンミンカイネン」
 第4曲「レンミンカイネンの帰郷」

1897年(31歳):ヘルシンキ大学のポストをカヤヌスと争って敗れ、カヤヌスとの関係が悪化。代わりに国からの年金が支給されることになる。
母マリア没(56歳)。

1898年(32歳):保守的なロシア帝国のニコライ・ボブリコフがフィンランド総督に就任。フィンランド国内では「スヴェコマン」「フェンノマン」が団結してナショナリズムが盛り上がる。
歴史劇の付随音楽「クリスティアン2世」Op.28 を作曲。出版社ブライトコップと契約。
三女キルスティ誕生。
ベルリンでベルリオーズの「幻想交響曲」を聴き、交響曲のインスピレーションを得る。交響曲第1番の作曲に集中するという理由で、家族と離れてヘルシンキから10数キロはなれたケラヴァに1人で移り住む。

1899年(33歳):交響曲第1番 Op.39(初稿)を初演、成功をおさめる。
アイノと3人の娘たちもケラヴァに移る。
フィンランド総督ボブリコフが、フィンランドの自治権を廃止する宣言を公布する。
これにより発刊停止となった新聞に対し、報道と言論の自由を求めるイベントの一環として上演された舞台劇「歴史的情景」の付随音楽を作曲。これは太古から現代までのフィンランドの歴史パノラマを描いたもので、特に第6幕「スオミ(フィンランド)は目覚める」の音楽に観衆は熱狂した。この曲が後に「フィンランディア」となる。

1900年(34歳):2月に三女キルスティがチフスのため没。
パリ万博の「フィンランド館」にヘルシンキ・フィルが派遣されることとなり、その持ち曲として「歴史的情景」の終曲を改訂して交響詩「フィンランディア」とした(ただしロシアに配慮して、フィンランドでは音詩「スオミ」、パリでは「祖国」というタイトルで演奏された)。またメインとしてシベリウスの交響曲第1番が選ばれた。
これにより、シベリウスは一躍フィンランドを代表するシンフォニストとして国際的に知られることになる。(なお、パリ万博にはマーラーもウィーン・フィルを指揮して出演している)
スウェーデンの資産家などからの年金を得て、家族でイタリアに約半年間滞在する。

1901年(35歳):イタリアからの帰途、プラハのドヴォルザーク(59歳)を訪問。内心では「フィンランドのドヴォルザークにはなるまい」と思ったらしい。
ドイツを訪問し(ハイデルベルク音楽祭)リヒャルト・シュトラウス(37歳)と親交を深める。
イタリアで構想を練った交響曲第2番の作曲を進める。

1902年(36歳):交響曲第2番を初演、大成功をおさめる。交響詩「火の起源」Op.32。
ケラヴァからヘルシンキに戻り、再び「エウテルベ」という芸術家サークルで飲んだくれの生活を始める。

1903年(37歳):ヴァイオリン協奏曲の作曲を進めるが難航。戯曲「クオレマ」(フィンランド語で「死」)の付随音楽を作曲。組曲化はしなかったが、第1曲を「悲しきワルツ」Op.44-1として再編して独立化させた(人気曲となる)。
乱れた生活から足を洗うため、田舎のヤルヴェンパーに新居を建設することにする。(妻アイノが住むところという意味の「アイノラ」と名付ける)
四女カタリーナ誕生。

アイノラ

1904年(38歳):ヴァイオリン協奏曲(初稿)を初演、失敗に終わる。
ロシアのフィンランド総督ボブリコフが暗殺される。
新居アイノラに引越。スウェーデン劇場から委嘱されたメーテルランクの戯曲「ペレアスとメリザンド」、交響曲第3番の作曲を進める。
ベルリンを訪問してベルリン・フィルで交響曲第2番を指揮。そこでマーラーの交響曲第5番、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」「家庭交響曲」、ドビュッシーの「夜想曲」などを聴く。ドイツの出版社ロベルト・リーナウと契約し、契約金でアイノラにサウナを建てる。

シベリウス(アルベルト・エングストレーム画、1904年)

1905年(39歳):スウェーデン語版「ペレアスとメリザンド」初演し、付随音楽を組曲化して「ペレアスとメリザンド」Op.46 とした。
ヴァイオリン協奏曲の改訂版を完成、ベルリンで初演(指揮はリヒャルト・シュトラウス)。
初めてのイギリス訪問。この後、シベリウスはイギリス国内で人気を得るようになる。

1906年(40歳):戯曲「ペルシャザールの饗宴」付随音楽 JS48(翌1907年に演奏会用組曲「ペルシャザールの饗宴」Op.51とする)。
ロンドンのフィルハーモニー協会から新作の交響曲を委嘱されるが、プレッシャーで作曲が進まず、ヘルシンキで酒におぼれる日々が続く。
ロシアの指揮者・ピアニストのアレクサンドル・ジロティからの招待で、サンクト・ペテルブルクを訪問。そこで交響詩「ポヒョラの娘」Op.49 初演。

1907年(41歳):交響曲第3番はロンドンでの演奏会には間に合わず、ヘルシンキで初演。大きな反響もなく終わる。
ヘルシンキ・フィルを指揮するためマーラーがやって来る。シベリウスの曲を聴いたマーラーは妻アルマに酷評する手紙を書いているし、2人の対面では芸術観がすれ違いのまま終わったらしい。

1908年(42歳):極度の飲酒・喫煙による体調不良で、ローマ、ベルリン、ワルシャワへの訪問はキャンセル。医者の診断で喉に初期の腫瘍が見つかり、ベルリンで摘出手術を受ける。酒とたばこを断った生活が始まる。
戯曲「白鳥姫」付随音楽JS189 を作曲(演奏会用組曲「白鳥姫」Op.54 に改編)。
五女マルガレータ誕生。
交響詩「夜の騎行と日の出」Op.55 を作曲(初演は翌年、ジロティ指揮によりサンクト・ペテルブルクにて)。

1909年(43歳):3回目のイギリス訪問。そこでドビュッシーと会い、相互に敬意を払う。
ベルリンで手術後の診察を受け、順調との結果に安堵する。
弦楽四重奏曲「親愛なる声」Op.56。

1910年(44歳):スカンジナヴィア、ラトヴィアを訪問。
劇付随音楽「とかげ」Op.8、交響詩「木の精」Op.45-1 初演。交響曲第4番の作曲を進める。

1911年(45歳):交響曲第4番Op.63を完成し、ヘルシンキでシベリウスの指揮により初演するが、戸惑いと冷淡な反応。
六女ヘイディ誕生。

1912年(46歳):ウィーン音楽院から作曲科教授のオファーがあるが断る。フィンランドは年金額を増額してこれに応えた。

1913年(47歳):交響詩「吟遊詩人」Op.64(1916年改訂)、ソプラノ独唱付きの音詩「ルオンノタル」Op.70。劇付随音楽「スカラムーシュ」Op.71 作曲(初演は1922年)。

1914年(48歳):生涯ただ一度のアメリカ訪問。交響詩「オセアニデス」(ギリシャ神話の水の女神)Op.73。
6月、サラエヴォでオーストリア皇太子が暗殺され、第一次大戦勃発。ロシアの支配下にあったフィンランドは、ドイツ、オーストリアと敵対関係ということになる。従ってドイツ圏内での演奏活動できなくなり、大きな経済的打撃を受けた(ただし、ブライトコップ社からの印税はきちんと送金されたらしい)。
経済的な理由から、ピアノ曲の作品が増える。「5つの小品」Op.75 はそれぞれ「樹」をタイトルとしており、特に第5曲「もみの木」は有名。

1915年(49歳):12月の50歳の誕生日祝賀コンサートで演奏する交響曲第5番の作曲を進めるが難航。再び酒、たばこ、睡眠薬に依存する。何とか間に合って誕生日に交響曲第5番(初稿、4楽章構成)を初演。初演直後から改訂作業を開始(結果的に3年半を要する)。

1916年(50歳):ホフマンスタールの戯曲「イェーダーマン」付随音楽Op.83(演奏会用組曲には改変していない)。
交響曲第5番の改訂稿の演奏を行う(1, 2 楽章を統合して全体を3楽章とした)が、決定稿とはならない。

1917年(51歳):ロシア革命の動乱の中、フィンランドは独立を宣言、国内は混乱する。
カンタータ「われらの国」Op.92、カンタータ「大地の歌」Op.93。

1918年(52歳):左派と右派との間でフィンランド内戦が勃発。

1919年(53歳):交響曲第5番の最終稿(現行版)を完成、フィンランド初代大統領の臨席の下、ヘルシンキ大学講堂で初演。
戦後初の海外訪問としてデンマークを訪問、カール・ニールセンと再会。

1920年(54歳):ニューヨークのイーストマン音楽学校から作曲科教授として招聘され、経済的理由からいったんは受諾するが、結局断った。

1921年(55歳):イギリス訪問。ヴォーン・ウィリアムズや指揮者のエードリアン・ボールトと親交を結ぶ。

1922年(56歳):友愛結社フリーメーソンに入会。
劇付随音楽「スカラムーシュ」Op.71 初演(作曲は 1913年に完成していた)、弦楽四重奏曲「アンダンテ・フェスティーヴォ」(後に弦楽合奏にも改編)。

1923年(57歳):交響曲第6番 Op.104。
アイノとスウェーデン、イタリアに長期旅行。

シベリウス(1923年)

1924年(58歳):交響曲第7番 Op.105。

1925年(59歳):劇付随音楽「テンペスト」JS182(1927年に演奏会用組曲「テンペスト」Op.109 に改編、この際原曲にかなり手を入れている)

1926年(60歳):交響詩「タピオラ」Op.112。

1927年(61歳):「フリーメーソンの儀式音楽」Op.113。

1938年(72歳):テオドール・アドルノ(哲学者、音楽学者)の「シベリウスに関するコメント」。書評の中でシベリウスの音楽を厳しく批判。

シベリウス(1939年)

1946年(80歳):「フリーメーソンの儀式音楽」Op.113 に2曲を追加。

1955年(89歳):ルネ・レイボヴィッツ(作曲家、指揮者)の「シベリウス 世界最悪の作曲家」。小冊子でシベリウスの音楽を厳しく批判。

 1924年の交響曲第7番完成後、交響曲第8番の創作にとりかかり、指揮者のクーセヴィツキに「初演権」を約束したりしていますが、最後まで公表することはありませんでした。アイノの回想では、1944年か1945年にアイノラでシベリウスが大量の自筆譜を燃やす「火刑」が行われたそうで、その中にほぼ完成していた交響曲第8番も含まれていたのではないかといわれています。
 結果的に、1930年代以降の約30年間は、既存の作品の改訂を除き新しい作品が発表されることはほとんどなく、アイノラのあった地名から「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれています。その間のことは、シベリウスも記録に残しておらず、真相は全て闇の中です。
 ただし、シベリウス自身も創作活動や世界の音楽の動向から完全に離れて引退したわけではなく、また世の中から忘れ去られたわけではなかったようです。アメリカのサミュエル・バーバー(1910〜1981)は、1938年に自作の「弦楽のためのアダージョ」(同年トスカニーニによって初演)などの自作の楽譜を感謝の言葉を添えてシベリウスに送っていますし、イギリスのアーノルド・バックスは交響曲第5番(1932年)を、ヴォーン・ウィリアムズは交響曲第5番(1943年)をそれぞれシベリウスに献呈しています。シベリウスは、そのヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番の演奏(指揮はマルコム・サージェント)をラジオで聴いて感激したことを、感謝の言葉とともに日記に記しているそうです。
 そして、1957年9月20日にシベリウスは世を去ります。享年91歳。
 生涯を共にしたアイノ夫人は、1969年に97歳で亡くなっています。

 2人は、アイノラの敷地内に埋葬されているそうです。残念ながらまだ詣でていませんが、ぜひお参りしたいと思っています。(ちなみに、アイノラは1972年に娘たちからフィンランド国家に売却され、フィンランド・シベリウス協会によって1974年から博物館として公開されています)

 ちなみに、フィンランドでは、2002年に共通通貨ユーロが導入されるまで、100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていたそうです。
 また、2011年以降は、シベリウスの誕生日である12月8日は「フィンランド音楽の日」という祝日になっているそうです。

2.参考図書

 シベリウスの生涯と作品については、下記の図書が新しくて参考になります。

   神部 智「シベリウス〜人と作品」(音楽之友社、2017年)

 日本シベリウス協会の会長を務められている新田ユリさんが2015年に上梓された「ポホヨラの調べ」も「シベリウス愛、北欧音楽愛」にあふれていて参考になります。(2019年に増補改訂されているようです)
 新田ユリ氏は、横浜フィルの第38回定期演奏会(1997年11月24日)で交響曲第1番を指揮いただきました。(当時は中村姓)

   新田 ユリ「ポホヨラの調べ〜シベリウス、ニルセンからラウタヴァーラまで 実演的! 北欧名曲案内」(増補改訂版、五月書房新社、2019年)
  
  

3.シベリウスの主要な作品

 シベリウスの音楽は、この時代にありながら、調性に根ざした「響き」を重視しています。
 特に、中音域の充実した安定感のある深い響きを形成することが特徴といえます。健康的、英雄的。イケメン男性のイメージでしょうか。そのため、金管の豊かなハーモニーを多用しています。
 初期の作品(交響曲第2番まで)では、金管のハーモニーを維持したまま極端なディミヌエンド、クレッシェンドをを繰り出し、広大な音響空間を作り出すことが多かったのですが、中期以降の作品では影を潜めます。

 打楽器の効果的な使用、特にティンパニに雄弁に語らせる独特の使用法にも特徴があります。
 弱音でのバスドラムのトレモロ、強拍以外でのシンバルの使用、意味深長なグロッケンの使用など(交響曲第4番の第4楽章)。

 その他、伴奏での「弦楽器のトレモロ」の多用、弦楽器やホルンの伴奏での「シンコペーション」の多用など、延々と同じことを繰り返す「しつこさ」も特徴といえるでしょう。

 なお、シベリウスは晩年の1922年(56歳)に友愛結社「フリーメーソン」に入会しており、モーツァルトの「魔笛」にも見られるような「3」という数字へのこだわりが多く見られます。
 多くの曲で「4分の6拍子」(交響曲第1番・第1楽章、交響曲第2番・第1楽章、交響曲第3番・第2楽章)、「8分の12拍子」(交響曲第5番・第1楽章)などの「3分割された1拍」を使った拍子を採用しています。

 以下に、今回の演奏曲を中心に、ポイントをまとめてみました。

3.1 交響詩「フィンランディア」作品26

 シベリウスの生涯にも書いたように、この曲のもととなる「歴史的情景」という舞台劇は、ロシアの圧力で発刊停止された民族系新聞社を支援するための「報道の記念日」のイベントの中で上演された歴史劇の付随音楽です。
 その付随音楽は、次の7曲で構成されていました。(中身は情報がないので分かりません)

・第1曲:「序曲」
・第2曲:ヴァイナミョイネン(「カレワラ」に登場する詩人)の歌
・第3曲:「司教ヘンリク」(フィンランドにキリスト教が伝道される場)への序曲(1150年頃)
・第4曲:「裁判の場面」(トゥルク城のジョン侯爵の場)への序曲(1556〜63年頃)
・第5曲:「三十年戦争のフィンランド」の場への序曲(1618〜48年頃)
・第6曲:「大いなる怒りの時代」の場への序曲(1713〜21年頃)
・第7曲:「スオミ(フィンランド)は目覚める」の場への序曲(作曲当時の「現代」)

 劇音楽としての初演は、1899年11月4日に、ヘルシンキの「スウェーデン劇場」で行われました。
 劇音楽としての初演後、シベリウスはこの音楽を「組曲」に改編し、第7曲は「フィナーレ」というタイトルとなりました。
 その後、パリ万博での公演の演目として、この「フィナーレ」はさらに改訂されて「フィンランディア」と名付けられましたが、ロシアの検閲に配慮してヘルシンキでの演奏会では音詩「スオミ」、パリ公万博での演では「祖国」というタイトルで演奏されました。
 「スオミ」とは「地域としてのフィンランド」を指し、当時のロシアからは相当に政治的に危険な曲とみなされたようです。

 フィンランド独立後、中間部には「フィンランド賛歌」という歌詞が付けられ、賛美歌、合唱曲としても歌われています。
 この曲は、今日でもフィンランドの独立記念日である12月6日には必ず演奏されるそうです。

 なお、劇音楽「歴史的情景」には作品番号がなく、組曲として組まれたものが「歴史的情景、第1番」作品25、その後独立した交響詩「フィンランディア」が作品26とされますが、旧ブライトコップ版では「作品26-7」となっていたようです。その意味で、新田ユリさんによると、この曲の改訂・出版の経緯と内容には現在でも不明点が残されているとのことです。確かに、クレッシェンドの開始時点で一度ディナミークを落とすべきか、判断に迷うところがいくつかあります。

3.2 交響曲第1番 ホ短調 作品39

 前述のように、初稿版(初演版)は 1899年に初演されていますが、現在演奏されているのは1900年にパリ万博のために改訂したものであり、初演版とどのように変わっているのかは不明だそうです。
 特徴としてはハープがかなり効果的に用いられています。当時としては、ブルックナーの交響曲第8番(1887年)、マーラーの交響曲第1番(1889年)などにも使用されているので、それほど珍しいことではありませんが、シベリウス自身が交響曲にハープを使うのはこの曲以外では第6番のみです。

第1楽章:冒頭でクラリネットで提示されるモチーフは、この交響曲の基本楽想であると思われますが、第1〜第3楽章で用いられることなく、第4楽章序奏で劇的に再現されますが、再び主題として扱われることはありません。チャイコフスキーの交響曲第5番冒頭の「運命の動機」の構成に近いですが、チャイコフスキーの場合には一種の「循環主題」として各楽章に顔を出すとともに、終楽章の冒頭およびコーダで華々しく「勝利の行進」として再現されていますので、取り扱いの重要性がかなり異なります。

 主部の Allegro energico では、民族的で劇的な第1主題が提示されます。
 練習番号「E」から、ハープのハーモニーに乗った木管の可憐な経過句(木々の枝を走り回るリスのよう)を経て、「G」の3小節前の Tranquillo から第2主題がオーボエによって提示されます。
 木管の「リス」の経過句に基づく加速する接続部を経て、「I」の6小節前の Tempo I からが展開部。
 「U」の5小節目から再現部。最初は華々しく第1主題が再現。「X」から第2主題がトランペットに再現。
 そして「加速するリスの経過句」を経て「Z」からがコーダ。最後は低弦とティンパニの持続音の上にハープとピツィカートで終わります。

第2楽章は、民謡風の主題に基づくa−b−aの三部形式。
 aの部分では、ホルンのハーモニーの上に弦楽器が夢見るような第1主題を歌い、木管楽器が合の手を入れます。「C」からファゴットに第2主題が出ます。
 練習番号「F」からが中間部 b。ホルンが牧歌的な旋律を奏でます。続いて木管により軽快な踊りの旋律。
 突然の終止と、アダージョのブリッジを経て、すぐに「I」の7小節前から最初のa部に戻る。最初は嵐の予感の音形を伴う悲劇的な再現。
 「P」でようやく曲頭の穏やかな表情に戻って終止します。

第3楽章「スケルツォ」。ブルックナーの交響曲9番のスケルツォのように、小節の頭が幻惑されるようなリズムです。
 テンポが変わる「H」からが牧歌的なトリオ。
 「M」の11小節目のテンポプリモから、再びスケルツォに戻り、金管によって華々しく締めくくられます。

第4楽章「幻想曲風に」。ソナタ形式。冒頭では、第1楽章冒頭のテーマが、金管の悲劇的な伴奏で、弦楽器のユニゾンにより提示されます。
 「B」からの切迫した経過部を経て、Allegoro molto の主部に入ります。
 第1主題は、民族舞曲風のシンコペーションを伴った切迫したもの。ティンパニが連打するクライマックスを経て、「F」の8小節目の Andante assai からが広大な大地・平原を思わせる第2主題。ここでもハープが効果的に使われています。
 「K」からが展開部で、もっぱら第1主題が扱われる。  「O」殻が再現部で、まず第1主題の再現。
 「T」4小節前のAndanteからが第2主題の再現。
 「X」からコーダ。悲劇的なクライマックスから、最後は急速に減衰して打ちひしがれて終わります。

3.3 交響曲第5番 変ホ長調 作品82

 交響曲第5番は、シベリウス自身の50歳の誕生日の祝賀の意味を込めて1915年に作曲されました。フィンランドでは、「50歳」を人生の節目として祝う風習があるようです。
 1915年といえば、ヨーロッパは第一次大戦の真っただ中。ロシアに革命が迫りながらも、フィンランドはまだロシア帝国の属国のままです。
 そんな中で、1911年の交響曲第4番で内省的、抽象的な曲風に移行しつつあったシベリウスも、ここでは比較的明るく祝祭的な曲を作りました。

 全3楽章の構成ですが、第1楽章の前半が通常の第1楽章、後半(練習番号「N」の後の 3/4 拍子から)が通常でいう「スケルツォ」に相当します。つまり「ソナタ楽章」と「スケルツォ楽章」を統合した第1楽章ということです。
 最近、演奏・録音されることも多くなって来た「初稿版(初演版)」では、「ソナタ楽章」と「スケルツォ楽章」とがきちんと分かれた4楽章構成になっています。

第1楽章
 ソナタ形式の前半は、開始から誰もがイメージするのは広大な自然。ホルンの奏でる第1主題は「大地の夜明け」であり、そこに加わる木管は「鳥のさえずり」。
 第2主題は「B」の3小節目から、何かの鳥の鳴き声のよう。
 「D」からの「2連符」と特異な譜割りによる経過を経て、「E」からが「提示部」の反復。まずは第1主題の反復、「G」から第2主題の反復。
 「I」からの経過部の反復を経て、「J」からが展開部。主題がはっきりしない状態で進み、「K」からは第2主題の展開がファゴットのモノローグ風に現れます。
 あっという間に「N」4小節前から再現部。まずトランペットに第1主題が再現。

 短い再現部のあとすぐに、「N」5小節目から後半のスケルツォ。前半の第1主題に付随した木管の「鳥のさえずり」を含んだスケルツォ主題になっています。
 「D」からはトリオに相当。
 その後、スケルツォ主題とトリオ主題が併存する形で進み、「N」の9小節目には冒頭第1主題(大地の夜明け)がトランペットに現れます。
 次第に盛り上がりながらテンポを上げ、疾走したまま終止します。

第2楽章
 主題と、それに基づく6つの変奏で構成されます。
 主題は弦のピツィカートで提示されます。この主題が、大きく表情を変えることなく、淡々と6回変奏されます。
 穏やかな田園の風景が広がるような楽章です。

 第1変奏:「B」から。
 第2変奏:「C」から。
 第3変奏:「E」から。
 第4変奏:「F」から。
 第5変奏:「G」から。「H」7小節前から第1楽章の第1主題が再現する。
 第6変奏:「H」から。
 「I」の4小節目の poco largamente からがコーダ。

第3楽章
 Allegro molto の弦楽器の疾駆するやや不安定で混沌とした主題で始まります。「B」の後から木管が加わり、「B」の16小節目に「ホルン五度」の「希望」の光が見える。
 「D」の5小節前に低弦に5度跳躍の「悠然とした3つの音」が現れ、「D」の2小節目からホルンに引き継がれてハーモニーを変えながら延々と繰り返されます。新田ユリさんによると、これは「16羽の白鳥」を見た印象とのことで「白鳥の悠然としたはばたき」「白鳥の飛翔」のイメージなのでしょう。これを「白鳥のはばたき」のモチーフと呼びましょう。(この「はばたき」は、ホルンが目立ちますが弦楽器や、途中からトロンボーンもしっかり支えています。コントラバスが水面下で足を蹴っているので、「白鳥の飛翔」ではなく「悠然とした泳ぎ」なのかもしれません。でも、私的には「空を悠然と飛ぶ」姿を思い起こします)
 その上に「E」の12小節前から木管のユニゾンで演奏されるゆったりした哀しいモチーフは「白鳥の歌」(もしくは「白鳥を見送るシベリウスのまなざし」)。
 この「白鳥の歌」のモチーフは、若山牧水の歌を思い起こさせます。

  白鳥はかなしからずや 空の青海のあをにも染まずただよふ

 「G」8小節前からの経過部を経て、「G」の3小節前に「希望のホルン五度」、「G」から再び疾駆する主題が今度は木管から始まり、「I」から再び冒頭の弦の疾駆に戻ります。今度は、「J」の9小節目に「希望のホルン五度の音形」が2nd ヴァイオリンに、「K」の9小節目に「白鳥のはばたき」がヴィオラに聴こえます。
 「L」12小節目から、「白鳥の歌」が木管で哀しく歌われます。
 「N」からコーダ。「白鳥の歌」がヴァイオリンに、「白鳥のはばたき」が木管に現れます。そして、ついには「白鳥のはばたき」がトランペットに現れ、力強く盛り上がっていったところで、突然の「空白」をはさんだエンディングとなる。

 初稿版(初演版)では、ほぼ同じ金管の和音による終止のバックに、弦楽器がずっとトレモロで和声を演奏しています。いかにもシベリウスっぽい音形です。
 改訂段階で、この背後の弦楽器をすっぱりとすべて削除してしまったことになります。シベリウスは、ここに「空白」の「残響の空間、時間」を置きたかったのでしょうか。
 新田ユリさんは、ここにも白鳥の影響があるのではないかと言っています。

3.4 弦楽四重奏曲「内なる声」作品56

 シベリウスの活動的な時期、45歳の1910年に作曲されています。
 時期としては、交響曲第3番(1907年)と第4番(1911年)の間で、この頃1908年に喉に腫瘍が見つかり、ベルリンで摘出手術を受けています。このときには「13回も切除手術に耐えなければいけなかった」というように、なかなかの難手術だったようです。シベリウスが「死」を意識した時期でもあったようです。
 実際、交響曲第4番の初演直後の1911年には、5歳年上のマーラーが没しています(シベリウスは、1907年にフィンランドを訪問したマーラーに会っている)。
 そして、手術後は好きだった酒もたばこも禁じられました。
 そのためか、この頃からシベリウスの作風は内向的、内省的、そして簡素化・抽象化の方向に向かいます。

 この弦楽四重奏曲の第3楽章「アダージョ」の21小節目(下記の演奏の 11:15 あたり)に、突如演奏の流れを停めて E-moll のコードが鳴らされるところに、シベリウスはラテン語で「voces intimae」(内なる声)と記しています。
 シベリウスは、どのような「内なる声」を聞いていたのでしょうか。

弦楽四重奏曲「内なる声」作品56 YouTube の音源

3.5 ピアノ曲〜「5つの小品」作品75 より第5曲「もみの木」

 シベリウスのピアノ曲では一番弾かれる曲ではないでしょうか。
 まるでシャンソンのような、憂いに満ちた心に染み入る小品です。
 興味があれば聴いてみてください。

「5つの小品」作品75 より「もみの木」 YouTube の音源(1)

「5つの小品」作品75 より「もみの木」 YouTube の音源(2)
  
  
4.アドルノ、レイボヴィツによるシベリウス批判

 柿沼敏江氏の著書「<無調>の誕生〜ドミナントなき時代の音楽のゆくえ」(2020年2月、音楽之友社)を読んでいたら、第二次大戦後の現代音楽を思想的に牽引した哲学者・音楽学者のテオドール・アドルノ(1903〜1969)が、1938年にシベリウスについて書かれた本の書評の中で、強烈にシベリウスを批判していることを知りました。また、「シェーンベルクとその楽派」(音楽之友社)の著者である音楽学者・作曲家のルネ・レイボヴィッツ(1913〜1972)も1955年に「シベリウス 世界最悪の作曲家」という冊子を発行していることも知りました。

柿沼敏江「<無調>の誕生〜ドミナントなき時代の音楽のゆくえ」(音楽之友社)

 実は、アドルノがシベリウスを批判していることは、神部智氏の「シベリウス」(音楽之友社、作曲家・人と作品シリーズ)の年表の「1938年」にも「アドルノが「シベリウスに関するコメント」を発表し、シベリウスの音楽を痛烈に批判する」とは書かれているものの、本文中では一切触れられていませんでした。
 これらの内容は今年(2021年)になるまでは中身を知ることができませんでしたが、下記のサイトに翻訳されていて初めて目を通すことができました。2021年5月に掲載されたもののようです。

「アドルノとレボヴィッツのシベリウス批判」

 なぜ、ベルクに作曲を師事した哲学者アドルノや、「ダルムシュテット国際現代音楽夏季講習会」などで現代音楽界の指導的立場にあったレイボヴィッツが、これほどまでにシベリウスをこき下ろしたのか(内容的には「一方的にこき下ろしている」としか言いようがない)、極めて疑問です。

 上記の柿沼敏江氏の著書の論調からいえば、アドルノの「シベリウス批判」が書かれた1938年は、アドルノ自身がナチスに追われてアメリカに亡命した年であり、シェーンベルク一派の音楽が「頽廃音楽」として抹殺されたのに対してシベリウスの音楽が受け入れられているということに対する「政治的な立場」もあるようです。このことが書かれた「第8章:調性の回路」の先立ち、「第5章:クルシェネクの「転向」(無調の政治学T)」で、ジャズなどの要素を取り入れながらも調性の枠内で作曲していたエルンスト・クルシェネク(1900〜1991)が、1938年にプラハで初演された歌劇「カール5世」を十二音技法で作曲したこと、それがナチスに抵抗する政治的な意図であったことが書かれています。さらに続く「第6章:もう一つのダルムシュタット(無調の政治学U)」では、1946年にアメリカ占領軍の肝いりで始まった「ダルムシュタット国際現代音楽夏季講習会」が「非ナチ化」という政治的意図を持っており、そこでアドルノやレイボヴィッツが指導的立場で活動し、やがて「ヴェーベルン」を出発点として「十二音技法」を発展させた「トータル・セリー」が主流となって行くことが書かれています。その延長線上での「シベリウス批判」という位置づけで、柿沼敏江氏はとらえているようです。

 それにしても、アドルノのコメントは「書評」という形であったため、ほとんど話題になることもなく(一般に知られるようになったのは、1968年に「音楽論集」にまとめて刊行されてかららしい)、おそらくシベリウス自身も知らなかったのではないかとのことですが、レイボヴィッツの冊子は、こともあろうに「シベリウスの生誕90年」を記念して発行されたというし、まだシベリウスは健在(1957年逝去)なので、これを知ったシベリウス本人やその周辺はかなりへこんだのではないかと思います。
 この辺のアドルノやレイボヴィッツの真意や、それに対するシベリウス本人や音楽評論家の対応などの事実関係について、残念ながら日本国内ではほとんど論じられていないようです。アドルノは日本でもその音楽評論などが高く評価されているはずなので、シベリウスに関してどのような評価がなされているのか、あるいはこれからなされるのか、知りたいところです。

5.シベリウスの交響曲のスコア

 国内判、海外版含めて、すべての交響曲のスコアが入手可能です。

   シベリウス/交響曲 第1番 ホ短調 作品39 (音楽之友社)

   シベリウス/交響曲 第1番 ホ短調 Op.39 (日本楽譜出版)

   シベリウス: 交響曲 第1番 ホ短調 Op.39 (ブライトコップ&ヘルテル社/小型スコア)

   シベリウス: 交響曲 No.1 & 2 (ドーヴァー大型スコア)

   シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43 (音楽之友社)

   シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43 (全音)

   シベリウス/交響曲 第2番 (日本楽譜出版)

   シベリウス: 交響曲 第2番 ニ長調 Op.43 (ブライトコップ & ヘルテル社/小型スコア)

   シベリウス 交響曲第3番 ハ長調 作品52 (音楽之友社)

   シベリウス: 交響曲 第3番 ハ長調 Op.52 (ロベルト・リーナウ社/小型スコア)

   シベリウス/交響曲 No.3 & 4 (ドーヴァー大型スコア)

   シベリウス: 交響曲 第4番 イ短調 Op.63 (ブライトコップ & ヘルテル社/小型スコア)

   シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 作品82 (全音)

   No.359 シベリウス 交響曲第5番 (日本楽譜出版)

   シベリウス/交響曲 No.5 (ドーヴァー大型スコア)

   シベリウス: 交響曲 第6番 ニ短調 Op.104 (ウィルヘルム・ハンセン社/中型スコア)

   シベリウス/交響曲 No.6 & 7 (ドーヴァー大型スコア) Symphonies Nos. 6 and 7 in Full Score (Dover)

   シベリウス 交響曲第7番 ハ長調 作品105 (音楽之友社)

   シベリウス/交響曲 第7番 ハ長調 Op.105 (日本楽譜出版)
  
  

6.シベリウスのお勧めCD

 交響曲全集が、新旧取り混ぜてさまざまな指揮者、オーケストラによって録音されています。

 ここでは交響曲以外のCDについて、少しご紹介。

 交響曲以外では、「交響詩」や「管弦楽曲」の分野で様々な作品を残しています。
 交響詩は、交響曲全集の余白に収められることが多いですが、それ以外の「劇付随音楽」はあまり録音がありません。
 そんな中で、下記の Naxos 盤の劇付随音楽集があり、演奏もていねいでよいものなので、交響曲・交響詩の次に聴いてみるにはお勧めです。
 レイフ・セーゲルスタム指揮のトゥルク・フィル(フィンランドのオーケストラ)の演奏です。

  シベリウス/劇付随音楽集(6枚組) レイフ・セーゲルスタム指揮トゥルク・フィル

 今は「左手のピアニスト」として活躍されている、フィンランド在住の舘野泉氏がシベリウスの小品を集めて弾いたもの。1971年の録音。

  シベリウス/ピアノ小品集 舘野泉(p)

 シベリウスの隠れた名曲、弦楽四重奏曲「親愛なる声」。

  シベリウス/弦楽四重奏曲「親愛なる声」 フィッツウィリアム弦楽四重奏団

 
 



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