日本におけるクラシック音楽の草分け的存在でしょう。
「日本のクラシック音楽の父」ぐらいに祭り上げてもバチは当たらない偉人だと思うのですが・・・。
1.略歴
1886年6月9日:東京・本郷で7人兄弟の6番目として誕生。父は相場師
2.主な作品
主な管弦楽作品としては、下記のようなものがあります。
(1) 序曲二長調(1912年)
(2) 交響曲ヘ長調「かちどきと平和」(1912年)
(3) 交響詩「暗い扉」(1913年)
(4) 交響詩「曼荼羅の華」(1913年)
(5) 舞踊交響曲「マグダラのマリア」(1916年)
(6) 交響曲「明治頌歌」(1921年)
(7) 長唄交響曲「鶴亀」(1934年)
(8) 歌劇「黒船」(1940年)
3.CD情報
NAXOS レーベルの「日本作曲家選輯」シリーズが貴重で、実際の音楽を高いレベルの演奏で聴くことができます。
山田耕筰「勝ちどきと平和」、「曼陀羅の華」、他 湯浅卓雄・指揮/アルスター管弦楽団、ニュージーランド交響楽団
山田耕作/長唄交響曲『鶴亀』、明治頌歌、マグダラのマリア 湯浅卓雄・指揮/東京都交響楽団、東音 宮田哲男(長唄)、東音 味見亨(三味線)、溝入由美子(篳篥)、他
今日ではもっぱら「赤とんぼ」や「この道」といった歌曲の作曲家と考えられることが多いですが、日本最初の管弦楽曲や交響曲を作り、日本語によるオペラの可能性を追究してついにオペラ「黒船」を完成させたり、日本初のプロのオーケストラの設立に貢献したりと、日本のクラシック音楽界への貢献ははかり知れないものがあります。
東京音楽学校(現在の藝大)の出身ではありますが、三菱財閥からの支援でドイツ留学し、帰国後は主に在野で音楽活動を行ったことから、東京音楽学校に所属して音楽活動を推進した人たちからは「ライバル」とみなされたようです。(東京音楽学校は「官立」なので、お役所的「縄張り意識」の目で見られたのでしょう)
山田 耕筰(1886〜1965)
1888年(2歳):父が破産し横須賀に移り書店を開く。横須賀は軍港であり、軍楽隊の音楽や母がプロテスタント信者であったことから賛美歌に親しむ。家には足踏みオルガンがあった。
1893年(7歳):書店が火災となり、東京に移る。
1895年(9歳):父親がガンで逝去。巣鴨の教会牧師が営む「自営館」という印刷所・夜間学校の寮に入って勤労と勉学に励む。
1898年(12歳):過酷な労働がたたって吐血。2年間鎌倉で療養する。
1900年(14歳):イギリス人と結婚し女学校の教師をしている長姉を頼って岡山へ。義兄は教会オルガニストも勤めるアマチュア音楽家であり、音楽の手ほどきを受ける。
1903年(17歳):母が逝去。
1904年(18歳):東京音楽学校(現・東京藝大)に入学。「作曲科」はなく、声楽を専攻。2人のドイツ人教師(ヴィオラ奏者のアウグスト・ユンケル、ベルリン高等音楽院出身のハインリヒ・ヴェルクマイスター)に音楽理論を学びながら作曲を始める。
1910年(24歳):ヴェルクマイスターが私的にチェロを教えていた三菱財閥の岩崎小弥太にドイツへの留学支援を提案。留学費用を提供してベルリン高等音楽院に留学する。そこでマックス・ブルッフ、カール・ヴォルフに学ぶ。
留学中に日本人の手になる最初の管弦楽曲、交響曲、交響詩を作曲する。
1912年(26歳):3月に「序曲二長調」を完成。日本人の手になる最初の管弦楽曲。
11月、交響曲ヘ長調「かちどきと平和」を完成。第1楽章の第1主題に「君が代」の一部(「ちよにやちよに、さざれいしの」の「やちよに、さざ」に相当)が引用されている。山田の日本を背負う意気込みがみられる。ベルリン音楽院の課題として提出されたため、矢や古典的な作風。
1913年(27歳):2つの交響詩「暗い扉」「曼荼羅の華」を作曲。自由に作られたため、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスやドビュッシーの影響も見られる。
「暗い扉」は三木露風の同名の詩に基づいている。
「曼荼羅の華」は、2年遅れてベルリンに留学して音楽・建築・絵画・デザインに才能を発揮した斎藤佳三の同名の詩に基づいている。
一時のつもりで帰国したが、第一次大戦によりドイツに戻れなくなった。
1914年(28歳):岩崎小弥太の援助で、軍楽隊・投稿音楽学校関係者・宮内省の楽師などを集めて混成オーケストラを組織し、自作の交響曲「かちどきと平和」、交響詩「曼荼羅の華」を初演。
1915年(29歳):「君が代による前奏曲」。
1916年(30歳):メーテルランクの戯曲に基づく舞踊交響曲「マグダラのマリア」。
1918年(32歳):ニューヨークのカーネギー・ホールでニューヨーク・フィルを指揮して舞踊交響曲「マグダラのマリア」、交響詩「暗い扉」を初演。またラフマニノフ、プロコフィエフ、ストコフスキーらと交流。
1920年(34歳):「日本楽劇協会」を設立。オペラの上演を目指す。
1921年(35歳):日本の伝統楽器(雅楽)を使った「交響曲『明治頌歌』」を作曲。歌舞伎舞踊曲「盲鳥」。
1922年(36歳):このころから唱歌や童謡を多数作曲。歌曲「曼殊沙華」(詞・北原白秋)。
1923年(37歳):歌曲「ペィチカ」「待ちぼうけ」(詞・北原白秋)。
1925年(39歳):歌曲「からたちの花」(詞・北原白秋)。ハルビンからロシア人のオーケストラを招へい。
日本国内にもプロの演奏団体を立ち上げようと近衛秀麿と「日本交響楽協会」を設立。
1926年(40歳):山田とたもとを分かった近衛が「新交響楽団」(現NHK交響楽団)を設立。
1927年(41歳):歌曲「赤とんぼ」(詞・三木露風)、「この道」(詞・北原白秋)。トーキー映画の音楽を作曲(小山内薫監督「黎明」)。
1931年(45歳):オペラ「あやめ」。レニングラード・フィルを指揮して自作を演奏。
1934年(48歳):長唄交響曲「鶴亀」。(その前に作曲・初演された「越後獅子」「吾妻八景」楽譜が消失)
1937年(51歳):ドイツでベルリン・フィルなどを指揮して自作を演奏。
1940年(54歳):オペラ「黒船」。皇紀2600年のための交響詩「神風」。
1941年(55歳):カンタータ「聖戦賛歌『大陸の黎明』」
1943年(57歳):映画主題歌「米英撃滅の歌」
1944年(58歳):歌謡曲「サイパン殉国の歌」
1945年(59歳):カンタータ「沖縄絶唱譜」(牛島満中将の辞世歌による)
こういった活動から、戦後は山根銀二などに「音楽戦犯」と呼ばれた。
1948年(62歳):脳溢血で半身不随となる。以後は小さな歌曲を中心に作曲。
1952年(66歳):「山田耕筰音楽賞」を創設。第1回受賞作は團伊玖磨のオペラ「夕鶴」。
1955年(69歳):18歳の美空ひばりを指導し、「山の小駅」「風が泣いている」の2曲を提供。
1956年(70歳):天理教のためのカンタータ「おやさま」。
1958年(72歳):毎日新聞社の委嘱で管弦楽曲「寿式三番曳の印象に拠る組曲風の祝典曲」。
1965年12月29日:逝去。満79歳。
ベルリン留学中の課題として作曲。
一瞬、メンデルスゾーンかシューマンでも始まったのか、と思うような端正で充実した響きで開始。オーケストレーションも堂に入ったものです。
日本人による最初の管弦楽曲といわれています。
(約3'30'')
これもベルリン留学中の習作ですが、端正で瑞々しい響きがします。管楽器やティンパニーの使い方も手慣れた感じです。
日本人による最初の交響曲といわれています。タイトルは作曲時ではなく第一次大戦後に付けられた可能性があります。
第1楽章 Moderato
堂々としたおおらかな若々しいソナタ楽章。第1主題に「君が代」の一部の日本音階(陽旋法)が引用されています。
第2楽章 Adagio non troppo e poco marciale
ドイツ的というよりはイタリア的な「歌」をもった典雅でゆったりとした行進曲。ティンパニーがアクセントを添えます。終結部では管楽器によるオルガン的な響きも使っていて音色が多彩です。
第3楽章 Poco vivace
トリオを2つ持った複合的なスケルツォ楽章。全体として歌謡的だが、短調の劇的な表現や響きもみられます。
第4楽章 Adagio molto - Molto allegro e trionfante
暗い霧の中から夜が明けていくような序奏から、軽快で輝かしい主部へ。「かちどき」などという重々しいものではなく、口笛を吹くような楽しい音楽です。
(約35分)
これもベルリン留学中の習作。前2作が古典派・初期ロマン派風であるのに対して、こちらはリヒャルト・シュトラウスや後期ロマン派を思わせる重苦しい響きで始まります。ハープを効果的に使っています。
一時的にテンポが上がって激しさを増しますが、全体として終始重苦しい深い思索が支配します。
CD解説の片山杜秀氏によれば、序曲と交響曲とは留学先で課題として提出するために作られましたたが、これら2つの交響詩は自主的にやや冒険的に作られたのではないかということです。
(約11分)
これも後期ロマン派風。ハープのグリッサンドで開始され、不安定なハーモニーのうつろいの上に不可思議な音響の光景が漂います。
(約8分)
ドイツ留学からの帰国後、日本語のオペラを作りたいと考えた山田耕筰は、オペラにはバレエが必須であることから、バレエやダンスの普及も必要と考えたようです。
そのためにメーテルランクの戯曲「マグダラのマリア」に基づくパントマイムを構想してピアノスケッチまで完成させますが、国内での上演は見通しが立ちませんでした。
そんな中、アメリカで自作を演奏することで活路を見出そうと渡米し、ニューヨークのカーネギーホールで自作自演の演奏会を企画します。そのときに、ピアノスケッチの一部をオーケストレーションしたのがこの曲で、1918年10月に作曲者の指揮するニューヨーク・フィルによって初演されました。
ドイツ音楽というよりは、ドビュッシーのオペラ「ペリアスとメリザンド」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」などを彷彿とさせる響きに満ちています。
(約15分)
ドイツ留学から帰国後に作曲。1921年(大正10年)に、既に終焉した「明治時代」を回顧する内容で作曲されました。雅楽の楽器である「篳篥」で始まり、雅楽の響きをオーケストラで再現するとともに、それをドイツ仕込みのオーケストラの響きと融合する試みです。
(オーケストラによる雅楽の響きの再現としては、1931年の近衛秀麿作曲(編曲)「越天楽」が有名)
「交響曲」とのタイトルですが、単一楽章で実質的には「交響詩」に近いものであり、幕末の伝統的な日本から「文明開化」と、そこで戸惑いながらも前進する日本人という「ストーリー」がありそうです。最後は明らかに明治天皇の追悼音楽です。
山田耕筰自身はこの曲を「管弦楽曲の自信作」と考えていたようです。
(約18分)
1920〜30年代の日本の音楽界では、ようやく定着してきた西洋音楽と従来からの日本の音楽をどのように融合させるかの試行錯誤が行われていました。
1920年頃から、東京音楽学校の本居長世(童謡「赤い靴」や「七つの子」の作曲者)と箏の演奏家であった宮城道夫が協力して、和楽器と西洋楽器による曲が作られるようになりました。さらに、1929年に宮城道夫が琴と尺八のために作曲した「春の海」の尺八パートを、1933年に来日したフランスのヴァイオリン奏者ルネ・シュメールがヴァイオリンで演奏するなど、和楽器と西洋楽器の融合の試みが盛んに行われました。
そして、1933年には東京音楽学校の教官たちが、オーケストラを伴う新作長唄「曙」を創作して初演します。作詞は「春の小川」や「故郷」で知られる高野辰之、長唄部分は吉住小三郎と稀音家六四郎、オーケストラ部分は橋本國彦が担当しました。
この山田耕筰の「長唄交響曲」も、そういった流れの中で作られたものでした。
さらに、CD解説の片山杜秀氏によれば、日本語によるオペラを模索する中で、日本語の伝統的な歌唱である「長唄」と西洋音楽の合体を試みる目的もあったのでないかとのことです。
そういった背景から、新作ではなく既存の伝統的な「長唄」に、オーケストラ部分を上乗せして協奏します。
皇紀二千六百年奉祝曲として、満を持して「日本語によるオペラ」として完成させたもの。(当初の題名は「夜明け」)ただし録音が存在せず、実際に聴いた(観た)ことはありません。
このような企画やコンサートがもっと広がってくれるとよいと思います。
(収録曲)
・序曲二長調(1912年)
・交響曲ヘ長調「かちどきと平和」(1912年)
・交響詩「暗い扉」(1913年)
・交響詩「曼荼羅の華」(1913年)
(収録曲)
・長唄交響曲「鶴亀」(1934年)
・交響曲「明治頌歌」(1921年)
・舞踊交響曲「マグダラのマリア」(1916年)