市大薬理学教室時代の山中伸弥氏
大阪市立大学医学部同窓会報 仁澪 98号
l 国立大阪病院で研修後、1989年に薬理学教室の大学院に来られたのは市大のスポーツ整形外科のリータの大久保衛先生(現びわこ成践スポーツ大学教授)が薬理学を強く勧めていただいたからだと聞いています。以前からそのような関係で整形外科から大学院生が何人も来られていたのですが、山中君もその一人でした。元学長の山本研二郎先生の最後の弟子です。1年上に同じく整形外科から来た山下豊先生がおられて、愛称「やまちゃん」でしたので、山中先生は「やまちゆう」と呼ばれるようになりました。

 私どもが当時行っていた研究に関連した課題である血小板活性化因子の循環作用機序を明らかにすることが彼の研究のスタートでした。基本的には生きた動物を使った循環の実験とそれらから得られた血液サンプルの成分測定といった研究手法だったのですが、当初から彼の優秀さは目を見張るものがあって、私たちが考えた仮説こ対する検証法を極めて論理的に考え出し、かつ得られた結果を踏まえてさらに新しい作業仮説と、それを証明する実験をうまく組み立てるといった能力は早いうちから身につけていました。

 学位論文そのもの(Circulation research,1992)はレフリーとのやり取りで結構苦労したのですか、その間にも追加実験や、研究成果から派生した研究テーマをうまくこなして大学院時代に筆頭著書で4報の論文を仕上げています。結構、同時lこいくつもの仕事をうまくこなす能力かあったのだと思います。ちなみに動物実験の手術も結構器用にこなしていました。研修医時代の呼ばれ方も含め手術の腕前については本人もおもしろおかしく言っていますガ、少なくとも動物の手術については他の外科系の先生方の手技と比べても決して遜色ないものであったことだけは本人の名誉のために言ってあきたいと思います。

 人柄も非常にさわやかで、誰にも好かれるタイプでした。学生時代は柔道、ラグビー、そして院生時代も大学に来る前に大阪城公園をランニングしてくる様なスポーツマンで、バイアスロンやトライアスロンにもチャレンジしていたようです。また、彼は非常に切り替えのいい人間でして、夜を徹して仕事をするタイプではなく、適当な時間になるとさっと帰りますし、効率よく時間を使っていたと思います。

1996年に留学から帰ってからは向こうでの研究の続きでNATl遺伝子のノックアウトを検討したのですが、胚性致死で生まれてこなかったわけです。たいていの人はこんな場合ギブアップするのだろうと思うのですが、彼のすごいとこうは、それを個体発生に絡めて仕事を続けていったことだと患います。

 遺伝子改変マウスを繁殖するとなると当時は動物の世話からケージの交換洗浄に至るまですべて自分がしないといけなかったんで大変だったと思います。分業の概念が明確なアメリカでは研究者自身が動物の世話をすることはあり得ない話で本人もたまらなかったと思います(日本の勤務医が医師としての仕事以外の雑事で疲弊しているのと同じかも)。さすがに今の医学部動物実験施設では研究者自身がケージ交換をする必要はありませんが。そんな中でも留学先から持ち帰った研究を継続、発展させていったことが奈良先端科学技術大学院大学での研究の大きな飛躍とその後の偉大な成果につながったのだううと思います。
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