市場原理と医療 米国の失敗から学ぶ 『どうする日本の医療』
李 啓充 医師/作家(前ハーバード大学医学部助教授)
日医ニュース 2005.5.20
 「市場原理を導入して、患者の選択の幅を広げよう」 という、耳ざわリの良いキーワードを使って、アメリカ型の医療をまねしようという勢力がある。先進国のなかで、医療を市場原理に委ねているのは、アメリカだけである。アメリカの医療に詳しい李氏が、その問題点を指摘した。

 日本の医療制度改革の論議のなかで、主に二つの勢力が声を強めている。
一つは、ビジネスチャンスの創出を目指す規制改革・民間開放推進会議に代表される勢力による動き。そのなかで市場原理の導入、株式会社による病院経営、混合診療の解禁などが主張されている。

 もう一つのグループは、医療費抑制が最優先であると主張する財務省あるいは財界である。

■民間企業に支配された医療保険
 アメリカは、医療を市場原理で行っているため、民間の保険会社が販売する医療保険が主流となっている。

 ところが、市場原理で物事を運営すると、力の弱い人、お金のない人がシステムから排除されてしまう。その典型例が高齢者である。有病率が高い高齢者を対象に民間の保険会社が医療保険を設定すると、どうしても保険料が高くなる。すると、年金で暮らしている高齢者は、保険料が高いために保険に加入できないということになる。

1965年まで高齢者の医療保険もすべて民間企業が運営していたが、ジョンソン大統領(当時)が、高齢者のために「メディケア」、低所得者のために「メディケイド」という公的医療保険をつくった。
市場原理から落ちこぼれた人々への救済制度である、この二つの保険には、国家総予算の16%という巨額の税金が投入されている。それでも救い切れずに、無保険者が4千万人以上いる。これがアメリカの医療保険制度の実情なのである。

 さらに、市場原理で医療保険を運営すると、非常にお金がかかる。民間の医療保険会社は利潤を上げないと株価が下がるので、保険料を集めても、医療費を抑えることが美徳だとされている。アメリカの保険会社は、集めた保険料を100とすると、平均では81しか医療に還元していない。結果として、国民一人当たりの医療費支出は5千ドルを超え、日本と比較すると非常に高いのである。

 アメリカの一人当たり医療費支出のうち、2306ドルを税金が占めている。この金額は、日本人一人当たりの医療費総額よりも高い。アメリカが使っている税金だけで、日本の医療費はお釣りがくるということになる。

 ポイントは二点。日本が極端に医療費を切り詰めていること。そして、アメリカは医療費を贅沢に使ってはいるが、医療を市場原理に委ねており、社会全体としては非常に効率が悪くなってしまっていることである。

■市場原理による医療の問題点
 市場原理にリードされた医療には四つの問題点がある。

 第一に、力の弱い人が排除されてしまうこと。民間の保険会社が利益を優先させるために病人などを加入させなくなり、社会に無保険者が増加し続ける。

 第二に、力の弱い人、病気の人ほど負担が重くのしかかる、という負担の逆進性が挙げられる。大口顧客である民間保険加入者には、病院が医療費をディスカウントするが、値引き交渉をする術のない無保険者には高額を請求している事実がある。

 無保険者が病院を利用すると、病院に莫大な借金をすることになり、それが複利で膨らんでいく。さらに、この借金に対して、取り立て会社が持ち家に抵当権を設定し、債務者に対して逮捕状を請求する。こういった裁判の手続きや弁護士の費用までも次々と借金に加算されていくという、地獄のような制度なのである。現実に、医療費負債による個人破産が急増しており、非営利病病院の株式会社までもが、このような過酷な借金取り立てを行うので、無保険者にとって非常に厳しい社会ができ上がっている。

 第三の問題は、非営利病院が営利病院の経営手段を模倣しないと生き残れない「バンパイア効果」。社会から、良心的経営をする医療機関が消えてしまう危険がある。

 第四に、市場原理を導入しても、医療費が下がる保証がない。アメリカでは、薬剤が非常に高い価格で販売されており、世界一高価な薬を患者は買わされている

「官製市場けしからん」といわれているが、医療を「民」に委ねてしまうと、このように恐ろしいことが起こるのである。

■病院の株式会社化がもたらすもの
  株式会社による病院経営を展開している国は、世界中でアメリカのみである。その営利病院の実態は、どうなのだろうか。

 113の病院、2万8千床を所有する、テネット社は、2002年10月に診療報酬の不正請求の発覚により、株価が暴落している。さらに、健康な人に心臓手術を多数行い、FBIが強制捜査に入ったこともある。

 他にも、年商2兆2千億円というアメリカ最大の病院チェーンであるHCA社は、2000年に診療報酬寡占し、競争相手をつぶして、言い値で商売ができる状況をつくり上げる。次に、合理化と称し、ベテラン看護師の解雇、不採算部門の切り捨て患者に対する高額請求などを実行する。そして、大病院チェーンはこのようなあこぎな経営を続けた揚げ句、ほぼ例外なく、組織的診療報酬不正請求などの違法行為を犯すのである。

 テネット社は、2002年10月に診療報酬の不正請求の発覚により、株価が暴落している。さらに、健康な人に心臓手術を多数行い、FBIが強制捜査に入ったこともある。

 他にも、年商2兆2千億円というアメリカ最大の病院チェーンであるHCA社は、2000年に診療報酬の不正請求で970億円を連邦政府に支払い、示談成立。2002年12月にも1090億円、同様の事例で示談を成立させている。株式会社のチェーン病院では、往々にしてこのような事件が起こる。

 患者への高額請求の例として、入院して胸部のレントゲンを撮ると、非営利病院では1万2千円のところを、テネット社の病院では5万円が、また、赤血球、白血球数の測定は、非営利病院で5千円、テネット社の病院では5万4千円が請求される。このように、民間保険加入者はディスカウントがきくが、無保険者は全額請求されている。同様に、血液生化学検査は1万円弱に対して17万円、頭部CTは10万円弱に対して66万円。このような商売をすることで利益を維持しているのである。

  では、日本は大丈夫なのだろうか。在日のアメリカ商工会、あるいは駐日アメリカ公使が、「株式会社による病院経営を早く認可せよ」と日本政府に働きかけている。もし、前述のような企業が強大な資本力とともに日本の医療市場に進出してきたら、どうなるのか。空恐ろしい思いをしているのは私だけであろうか。

 さらに、病院が株式会社になると、死亡率が増えるとのデータもある。非営利から営利に変わると、入院後の死亡率が0.27から0.39に、約50%増加。反対に、営利から非営利に転換すると、死亡率は若干減少。患者一人当たりの入院費は、営利に変わると20%増え、非営利に変わっても、さほど変化しない。全体の傾向としても株式会社の方が医療の質が悪く、コストも高くついていることをデータは示しているのである。

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