旅行者下痢症の現状と対策
旅行医学事始め 第12話
元東邦大学医学部公衆衛生学教授 海老沢 功 Medical Tribune 2006.3.9
 国の内外を問わず,旅行中に罹患する下痢性疾患を一括して旅行者下痢症と言う。原因は生水,生の乳製品,野菜,生焼きの牛・鶏肉・鶏卵,かきなどの海産物の飲食で,病原体には細菌,原虫,ウイルスがある。しかし,90%以上は細菌性で抗菌物質の効果が期待できる。

  水は1分以上煮沸を
●頻度,原因と対策
 日本人の海外旅行者は年間1,600万人を超え,インドや東南アジア旅行者には旅行者下痢症の頻度が高い。起因菌はインド旅行者では毒素原性大腸菌ETEC(Enterotoxigenic Escherichia Coli)の ほかに,赤痢菌感染者が多い。日本では近年見られなくなった志賀赤痢菌が分離される例もある。欧米人がインドへ行くと,約60%が到着3〜7日以内に3〜5日間持続する下痢をする。

 発展途上国では不完全な上水設備,水道管の破損など水道水が衛生学的に保証できない生水と氷は不可,必ず1分以上煮沸したものを飲む。高地では沸点が下がるが80度Cでも1分間加熱で下痢の起因微生物はすべて死ぬ。煮沸した水は自然に冷却し,歯磨きにもの水を使う。

生の牛乳,山羊乳,かき,うに,あまえびなどの海産物は特に危険で,ビフテキはwelldoneと注文し生焼きは避ける。短期間の旅行であれば生野菜も極力少なくする。

●旅行者下痢症の起因菌
 帰国時に下痢をしていた例からの分離菌はETECが約45%,次いでサルモネラ(11%),腸炎ビブリオ,キヤンピロバクタ一,プレジオモナス,赤痢菌などである。旅行者下痢症既往者ではサルモネラが約27%,次いで腸炎ビブリオ,キヤンピロバクタ一,プレジオモナス,ETECなどの順となっている。欧米の研究者の報告でも急性期患者ではETECが優位を占めている。

●発展途上国の下痢患者の実例と対策
1969年4月,ラオスのナムグム・ダム建設現場に行ったとき,診療所を訪れた慢性下痢を煩っていたラオス人の小児患者を写真(省略)で示す。腹部の皮膚は飯だらけ,つまみ上げて指を放してもなかなか元に戻らなかった。毛髪は薄く,頬骨が突出,両脚の筋肉は萎縮し,陰嚢と両足背に浮腫がある。
慢性の栄養失調により起こるクワシオコールの徴候に一致する所見である。
 発展途上国では乳幼児の離乳期に与える経口食品や飲料水が汚染されているので,下痢性疾患にかかりやすい。

   お粗末な医療体制
●旅行者下痢症の高貴な犠牲者村山首相
1994年7月9日の夕刊に,イタリアのナポリで開催されたG7会議に日本を代表して出席した村山首相が下痢と脱水のため同市のMediterane病院に入院し,会議を欠席した記事が報道された。その後,ナポリで欧州旅行医学会が開催された折,同病院の医師に尋ね起因菌はSalmonella enteritidisであったと教えられた。当時,欧州各地でこの菌による食中毒あるいは下痢症が頻発しており,特に鶏卵がこの菌に感染していることが多かった。ホテルでは朝食に鶏卵を使ったオムレツあるいは目玉焼を出されることが多い。特に卵の黄身の内部は液状で固まっていない,すなわち,ゆで卵のように充分に火力が通っていないことをしばしば経験する。村山首相が何を食べたかまでは確認できなかった。

 退院後,首相は在ローマ日本大使館勤務の日本人医師に付き添われて帰国した。病気になり帰国の段階まで医務官はそばにいなかった。旅行医学会に出席していた米人医師に尋ねたら,米国大統領が国外出張の際は医務官と看護師が同伴し,緊急時入院の病院まであらかじめ決めて行く。また,狙撃などで重傷を負う事態に備え輸血用血液まで準備して持って行く。これに比べると,日本の首相に対する医療体制は大分お粗末なものと痛感した。

●大失敗自験例−hot waterとcold dwater
 ミャンマの首都ラングーンの一流のインヤホテルに投宿したとき,水道の蛇口にHotとColdの文字板があった。Hotなら加熟してあるからよいだろうと一口飲んでしまった。その後入浴するため浴槽のHotの蛇口を開いたら,濁ったぬるま湯が出てきて,温度はせいぜい35度Cくらい。いくら流してもそれ以上の温度にはならなかった。その湯を飲んでから数時間後,腹痛もなく水様便が水道の栓を全開したような激しさで出てきた。コレラの流れるような水様便とはこんなものかと実感した。

「来たな!」と直感。早速,持参したテトラサイクリンを飲んで2〜3日後には正常便に戻った。このホテルのすぐ近くに湖があり,そのホテルの飲料水は湖の水を汲み上げ,粗大ゴミを濾過しただけの代物と思われた。

 その後,ソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)のホテルでも浴槽に汲んだHotの蛇口から出た湯は濁っていたことがある。

●Please give me boiled water!
 欧州,米国以外の地域に旅行するときは必ずアルミ性の登山用水筒に煮沸した熱湯を入れて持参し,ホテルに泊ってもこれを飲み,翌朝歯を磨くときもこれを使う。朝食時この水筒を食堂に持参、ボーイに少しチップを与え“please give me boiled water!”といってboiledに強いアクセントをつけて水筒を渡す。ボーイがOKといって持ってきた水筒は熱くて熱湯であることがわかる。これを一日中持ち歩き翌朝まで使う。なお,食事のときは熱いスープや紅茶などをたっぷり飲み,外出時昼食までは水分を欲しがらないように努める。昼,夕食も同様に努めた。ペットボトル入り市販水の安全性は信用ならない。

 勧められない予防的服薬
●原虫とウイルス
 東南アジア,特にネパールでは赤痢アメーバとジアルジアによる亜急性〜慢性下痢症,および最近問題にされてきた原虫Cyclospora cayetanensisによる慢性下痢症がある。下痢患者の検査で顕微鏡検査の重要性を再確認させた疾患である。
本症にはST合剤(バクタ一,バクトラミン)が有効である。国際回遊船上ではノロ(SRSV,小型円形)ウイルスにより飲料水が汚染されて集団下痢症が起きたことがある。このウイルスは,日本でも老人収容施設で集団下痢症を起こして問題になった。

●下痢症起因菌の薬剤感受性
 ETEC,赤痢菌,キヤンピロバクターのドキシサイクリン,アンピシリンとST合剤耐性菌が増加,ニューキノロン薬に対する赤痢菌とETECの耐性は一般に10%以下である。ナリジクス酸耐性菌は少ない。

●治療指針
 予防的抗生物質の服用は勧められない。止潟薬ロベラミド単独の使用は避ける。病院・診療所ではオフロキサシン,シプロフロキサ、シプロフロキサシンを1回200mg、1日2〜3回2〜3日間与える。問題は旅先での下痢である。旅行者下痢症は安静だけでも2〜3日で軽快するが,時間単位で行動している海外旅行時には一刻も速く症状を軽減し旅行を継続できることが望ましい。

 起因菌は不明であるが,確率的に細菌性でETECの可能性が高いため,筆者はナリジクス酸1日1.5g,分3,2〜3日間の処方を愛用し,インドなど危険な地域旅行者の出発前に処方している。帰国後有症状者にも有効。安価で,副作用も少なく飲みやすい。

●消毒薬クレオソートを主成分とする民間下痢治療薬・正露丸について
 衛生状態の悪い地域を旅行する者に抗生物質を処方すると,「正露丸があるからそれは不要」と拒否する者がいる。本剤は日露戦争時代に開発され,初めは征露丸と呼ばれていた。消毒薬フェノール,クレゾールなどを含むクレオソートが主成分で,獣医学辞典によると,現在では消毒薬としても使われていない大量内服すると中毒する(肝・腎不全など)。


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