医療の質と安全の向上は果たせるか 産経新聞大阪本社特別記者 坂口 至徳
大阪府医師会報
 いっこうに減らない医療事故をめぐり、医師、看護師、薬剤師に加えて工学、経済、法律など幅広い分野の研究者を交えて検討する「医療の質・安全学会」(理事長、高久史麿・自治医科大学長)が平成17年11月に設立された。高度な先進医療が導入されて患者の救命率が高まる一方で、必ずしも不可抗力とは言えないミスが発生し、医療の質の向上を妨げている。多数の医療従事者がかかわる治療というシステムについて、複雑多様化する医療現場の実情に合わせて見直す段階にきているだけに、医療事故を総点検する全国初の学会の成果に期待したい。

 医療事故が大きな社会問題になったきっかけは、平成11年に関東の大学病院で発生した患者の取り違え事故だった。病気が異なる2人の患者を同時刻に外科手術する際、患者の名前をもう一方の患者と勘違いしたが、医師、看護師ともに気付かなかった。このため、それぞれの患者に他方の患者の病気を治療する手術が行われた。

 取り違え事故は、設備の整った大学病院で起き、当時、各地の病院で医療事故が続発したこともあって医療への信頼は揺らいだ。

 このころ、米国でも医学研究所の「医療の質委員会」が医療事故の大規模調査を行い、入院患者の3%前後が何らかの事故に遭い、このうち8〜14%が死亡していることを明らかにした。この数値を基に全米の人口から推計すると、毎年4万4千人〜9万8千人の死者と、交通事故の死者より多いことになり、世界的な反響を呼んだ。

 調査結果は「人は誰でも間違える」(2001年)というタイトルでまとめられ、過失による事故は必ず起こることを前提にした予防システムの改善が必要なことを力説した。

 その後、WHO(世界保健機関)も医療の安全対策を進めるための特別プログラムを組み、欧米各国が参加している。 一方、厚生労働省は、平成14年に医療安全対策検討会議を設けた。「医療安全推進総合対策」を策定し、病院などの安全管理体制を徹底させるのが狙いだ。16年からは財団法人・日本医療機能評価機構により、病院外に発表されることが少なかった事故例などの収集がスタートした。

 このように医療事故防止の抜本的な対策を求める動きが国際的に大きな流れになる中で、「医療の質・安全学会」が設立されたのはタイムリーだったのだろう。記念の国際シンポジウムでは、質や安全を重視した新しい医療について各分野からの率直な意見が交わされた。

 まず、尾身茂・WHO西太平洋地域事務局長は特別講演で「医療過誤には外科手術のミスなど予防し得るものと、薬の副作用など予防できないものがあります。これとは別に症状は出ていないが、有害になっているかもしれないニアミスが多くあり、こうした症例を徹底的に解析することが改善のカギになるでしょう」と医師の立場から予測した。

 パネル討論では、病院の管理運営システムがテーマの中心になった。永井良三・東京大学医学部附属病院長は、「医療過誤を起こさないのがベストだが、人間は本質的に過ちを犯す」とした上で、どの程度の頻度なら許容できるか試算した。例えば、医師にとって50年に1回のミスであっても、1千人の医療従事者がいれば、病院では年20回の割合で事故が起こることになる。「病院が大規模になればなるほど、医療過誤が増大することが分かります。大病院には1つのシステムとして、リスクマネジメントを中心とした整備・運営が必要です」と強調した。

 また、工業の品質管理の視点から、医療の問題として飯塚悦功・東京大学大学院工学系研究科教授は「医療事故を個人の責任の追及ばかりに走らず、システムの問題としてとらえて保証するととともに、今後の改善の材料とすることが大切」と説明。「質を高めるには、医療提供側の価値観を押し付けることから、顧客である患者本位の医療を実現する方向に持っていくべきだ」と述べた。

 更に、武田裕・大阪大学大学院医学系研究科教授は「医療の品質管理を進めるには膨大な診療データを電子化し、データを科学的に扱いやすくした上で、モデルを作ったり、論理的推論をしたりすることが必要だ」と話した。

 こうした意見に基づく学術研究の成果は平成18年11月の学術大会で発表される。
 
 このような医療現場の実態を見るため、病院で泊まり込みの取材をしたことがある。その時は急患が相次ぎ、病院内は戦場のようになったが、医師や看護師の手はひと時も休まず、献身的な治療に当たっていた。

 日本では、病院当たりの医療従事者の数は、大病院であっても欧米の3分の1程度だ。医療事故を防ぐための学術研究が進み、患者本位の新たなマニュアルが作られることは重要だが、医師らの過重労働が増すだけであれば、意味がない。医療の質と安全の確保には、人件費などコストがどれだけかかるか、なかなか区別しにくい要素についても情報を開示し、患者らの共感を得ることが必要だろう。医療の質の向上と事故の回避は、患者と医療従事者の共通の理解があってこそ果たせるのだから。


    もとに戻る