黄変米
三笠フーズの事故米事件で思い出したことがある、昭和30年頃(1955)に黄変米事件というのがあった。
その顛末は
----------------------------------------------------------------------------------------------
戦後の食糧難の時代に米が輸入され、配給された。1951(昭26)年12月にビルマ( ミャンマー)より輸入米6,700トンの検査で約1/3が黄変米である事が分かり移動禁止処分とされた。
厚生省(厚生労働省)の食品衛生調査会で、黄変米が1%以上混入している輸入米は配給しないと決定された。基準を超えた米は倉庫内に保管されたが、その後も輸入米から黄変米が発見され在庫の山となった。配給米の管理を行う農林省(農林水産省)は困り、黄変米の危険性は科学的に解明されていないとし、1%未満という基準を3%未満にし配給しようとした。

朝日新聞が1954年7月にこれを報道したことから大騒ぎとなり黄変米の配給停止を求める運動となった。しかし、政府は配給を強行し、配給出来ない米を味噌、醤油、酒、煎餅などの加工材料として出荷しようとした。

その直後、農林省食料研究所の角田廣博士、東京大学医学部の浦口健二助教授が黄変米の高い毒を指摘した。 世論の反発とこの報告で黄変米の配給は継続できなくなり、1954(昭29)年10月には黄変米の配給が中止された。

このため、黄変米の在庫は増え続け、困り果てた政府は1956年2月に安全性を確認せず、黄変米の表面のカビを研り落として配給する計画を発表した。 しかし、黄変米は倉庫に長期間保管され続け、再精米されて家畜の飼料など食用以外の用途として処分された。

なお、角田博士は黄変米が見つかった時点から職をかけて農林省に強硬に抗議した、黄変米の1%基準が作られたのは彼の努力によるものだろう。彼の抗議がなければ黄変米の配給問題は闇に葬られていた可能性が高い
-----------------------------------------------------------------------------------------------
今回の事件とよく似たことが50年以上前にもあった。