清和源氏山田流柘植一族について

林芳樹氏編集「笹ゆりの里 潮南物語」からの抜粋を掲載します。


   潮南開闢由来

さて、その「深山 曠原」を開墾し、県庁の役人も煎餅を焼く職人も訪れることなく、遠くシベリヤから日本海を渡って飛んで来た「ツグミ」「ミヤマ」「ヒワ」「ウソ」などの野鳥を「すみ網」で捕り、まさに「桃源境」にも比すべき「潮見の里」を開拓した祖先は誰であったかろうか?

次の資料は潮見 河方本家 河方貝介翁の土蔵の中にしまってあったものである。これに述べてある潮見 開拓之祖 山田小十郎は、渡り鳥を捕って食べたか、猪を撃って食べたのか十二人もの子女を育て上げて居る。 特に こんな山里へ一人で随いて来て十二人もの子供を生み育てた佐口家の姉様は大変だったに違いない。

 

  塩 見 開 闢 由 来(其ノ一)

永禄九年丙寅年(1566年 朝井 朝倉 姉川の戦の前年)之春、一六歳ニ而(シテ)太平ヲ立退、同所 佐口氏ノ娘ヲ召連レ塩見ノ深々タル山中ヘ分ケ入リ、木ノ根ニ休ミ居リ候所、其ノ伏木ノウツボ(空洞)ヨリ猪出デ、十二匹ノ子ヲ引キ連レ、小十郎ヲ見テ恐ル気色ナク、寅卯ノ方(東北東の方向)ニ行ケリ。 天猪(果報者で、幸せな猪という意?)ハ年ニ十二ノ子ヲ生ミ、閏年ニハ十三ノ子ヲ産ムト云ウコト玄猪喜儀(本の名? それとも目出たいことの言い伝え?)ニ見エタリ。

是 子孫繁栄ノ地ノ為知(証拠?)ナラント 猪ノ行方五丁斗(バカリ(五〇〇米ほど))行キ覗見スルニ、木ノ根ヲツトウ(伝う)水音シテ 少シ平ナル所アリ、猪子コゝニ寄集リ 暫シ遊ビ居テ八方エ奔走ス。親猪ハモト来シ方ヘ帰ル。

又 一群ノ (鳩?)来テ栗ノ枝ニ止リ数声シテ地ニ下リ遊ブ。夫(ソ)ノ ハ八幡宮ノ神鳥ナリト云ウ。 我 源氏ノ後裔ナレバ、是八幡宮ノ加護ナラン。コゝニ住居ヲ定メント心決シ八方ヲ見分スルニ、松 柏 荊(イバラ) 茅(カヤ) 斗(バカリ)ナリ。

爰(ココ)ニ茅葺(カヤブキ)ノ小家ヲ取リ建テ、遂々(次々)ニ伐開 田畑ヲ開発シ、苗木様(苗木藩主)ヘ奉棒貢(年貢など奉納) 星霜ヲオクル内 十二人ノ子ヲ設ケタリ。男子ハ子残シ分家 女子ハ嫁ス。

精分次第ニ、伐開キ候ヤウト御免蒙リ、遂々(次々)田畑開発 分家ヲ殖シ一郷ノ基本ヲ立テ候。

 行年九十八歳 慶安元年子年(1648年) 十一月十六日死ス。――――(三代将軍 徳川家光が逝去した三年前)

 

      開 発 記 録(其ノ二)

祖先山田大隅之守某(ナニガシ)、戦場(治承四年〈1180年〉源頼政 宇治橋の合戦に敗る)ノ主君ト共ニ打死(ウチジニ)ス。

云 其ノ末葉相残リ久田見村ノ内 太平ニ農民ト成リ居住ス。然ル所ニシテ兄弟不和ニシテ同居成リ難ク、弟小十郎十六歳ニ而(シテ)、女一人召連レ 久田見村太平ヲ立チ退キ、永禄九年(1566年)春ノ頃 当地ニ来リ苗木表ヘ願イ差シ出(イデ)シ候處、相叶イ 深々タル大山ヲ切開キ本家ヲ造立シ所ニ少シノ茅葺(カヤブキ)ノ小家ヲ取建テ居住ス。

追々 子ヲ生ミ男女十二人出生ス。 小十郎コト改名 山田惣右エ門ト名乗リ 段々田畑伐リ開キ 農業ニ出精致シ、苗木御役所ニテモ十二人ノ子供無□成長致セシ儀 目出度キ者ト御稱美ノ上、遠山刑部少輔様(二代目藩主遠山秀友)ノ御子遠山信濃守(三代目藩主 遠山友貞)御誕生ノ節 御生着 献上仕候コト仰セ被サレ、恐レ乍ラ御生着木綿ニテ献上仕ル。大坂表御出陣ニモ御供ニ任(アタ)ル。 夫□御被官無役迎付被御人夫御入用之節ハ罷(マカ)リ出相勤メ来ル。

然ルニ 光陰矢如 年月押移リ、惣右エ門 九十八歳ニテ慶安元年(1648年)中冬(十一月)十六日 死ス。

開発 惣右エ門 死去ヨリ 当文化五戊唇ノ年(1808年)ノ年マデ百六十一年ニ成リ惣右エ門 法名 宗安。

右 十二人ノ子供處々ニ引越シ居住ス。

右 宗安ノ百年忌 元文二丁巳年(1737年)ハ奥所河方為八ノ代ナリ。

此ノ時 九十年ニ相宛リ、同百五十回忌ハ寛成(寛政)六甲寅年(1794年)ハ河方民助ノ代ナリ。

此ノ時 百四十七年ニ相宛リ、開発ヨリ文化五年(1808年)迄二百四十七年ナリ。

 

 

 河方本家の土蔵の中から見付かった これらの古文書を見ても、代々河方家の子孫が、開祖山田小十郎 源清近の五十年忌 百年忌 百五十年忌の節目 節目に相集い、先祖代々の功績を称え、河方一族並びに塩見郷の繁栄を祈願していた様子が伺える。

 

都会指向の熱病に浮かされ、百姓 山仕事を忌み嫌って故郷を捨てた若者達。農村 空洞化現象はとどまるところを知らず、先祖崇拝など何処吹く風、軽佻浮薄(ケイチョウフハク)な不倫女優を真似、讃美歌も聖書も全く知らない二人が、ハワイの教会で結婚式を挙げ、サーフィンの波乗りに現(ウツツ)を抜かしている今の世を、開祖山田小十郎翁はどんな気持ちで眺めていることだろうか。――――この古文書を見て、そんなことを想った。

 


 

 兼ねてから、潮南村の名門 河方家や柘植家の系譜図を知りたいと思っていた。そして我が家(林家)や親戚と どのような拘わりがあるかも興味があった。それというのは――

 

※兄林 建樹から寄せられた

   笠置村毛呂窪の名門 湯屋山本家から同村河方捨次郎に嫁いだちく叔母様とその娘達(志賀 恵津姉妹)の興した福祉事業の数々。(注)河方捨次郎の祖先は潮見 本郷『河方本流家』(現戸主 河方 清氏 117頁写真)とのこと。

「志賀も恵津も男に生まれとったらドエらい者になっとったやらずに、女で全く損こいた…」と我が父林 一郎を嘆かせたという話や、恵津小母様が娘の頃 どういう訳か 我が家から蛭川小学校高等科へ通っていたという。

※纐纈直祐著「大津屋纐纈家系譜図」に載っている

  潮南村の河方家 柘植家と我が家やその親戚との姻戚関係。

※東山道彦著「苗木藩終末記」に出てくる

  「大旦那様の仏檀 私がお護り致しまするッ」と燃え盛る仏檀を抱いて念仏を唱(トナ)えながら悶(モダ)え泣く、柘植市蔵の女房の命懸けの抵抗(苗木藩 廃仏毀釈 潮南村騒動。柘植禎一氏はその子孫 117頁写真) 

※そして、中野方の義兄安江赳夫の語った

  「林 史郎(旧姓 柘植)や鈴村妙子(旧姓 河方)んたぁの実家は、玄関を出てから隣村へ行くのに他人様の土地を一歩も踏まんでも行けるという土地持ち山持ちの御大尽の家やぞ…」という話。然らば 中学の漢文で習った

      倉廩実、則知礼節     倉廩(ソウリン)()ちて、則(スナワ)ち礼節を知り

      衣食足、則知栄辱     衣食足りて、則ち栄辱を知る

                          ――中国古典 管子(牧民)より――

  である筈なのに、中学生 柘植史郎は余り礼節を知らなかったし、蛭川国民学校の先生だった妙子さんは、戦時中だったせいもあろうが、皆んなが ケナるがるような良い着物は着ていなかった。―― 何れにしても

  「錦織りなすような潮見の里」の絵巻図が私の頭の隅に残っていて、一度は潮見へ行ってみたいと思っていた。

 

今度 林 史郎が送ってくれた資料は、潮見の河方貝介翁が わざわざ家の家系図をコピーし、彼を通じて下さったという話で「我が祖 山田小十郎源清近は、山で遊んでいた12匹の猪の子を見習って、12人もの子供を作らっせたげなが、その子孫の系譜は、お前らどころか オレらにだって よう判らんわい…」と林 史郎はいう。

猪の話は兎も角、苗木の殿様が「余も其方(そち)にあやかり度いものじゃ…」と褒めらっせた潮見一族の系図は次の通り。

 

◎ 塩見村開祖 山田小十郎とその末裔

 

 林 史郎のくれた資料によれば「山田家では、その次男以下の弟達が分家「河方家」や「柘植家」を興し、塩見郷の 5本柱として地域社会の発展に寄与してきた」と記してある。― その通りであろう。しかし数日前、蛭川の甥 渡辺浩通(姉久子の長男)が梅田 薫著

「信長の中濃作戦」― 可児・加茂の人々― という美濃文化財研究会発行の本を贈ってくれた。

彼 浩通がマークしてくれた その本の或る頁(228)に、八百津町潮見河方家所蔵の古文書「山田氏系図」の解説として、次のようなことが述べてある。

 

 

 この「山田系図」で驚くことは、当家がこの地(美濃)に定住したのは治承年間(11771180) それ以後、連綿と相続され一生懸命この地を護り続けて来た一つの歴史がある。(中略) その後山田小十郎 源 晴近(惣右衛門ともいう)が、佐口の娘と塩見の山中に入り、12匹の猪子を見て、ここ塩見を永住の地と定め、田畑を開墾、この地を苗木藩に奉上した。やがて12人の子供を儲け、慶安元年(16491116 98歳で亡くなっている。

 

   一、大阪御陣のお供で、山田小十郎 及び伜平右衛門は、桑名から押役(守護役)を勤めた。

   一、元和元年(1613) 大阪夏の陣の時、伜平右衛門と弟長助の2名は、苗木藩主のお供をして出陣した。

   一、これにより領地は無役地(非課税地)に、平常は御立山見廻り役と御用材を川で流す時の見廻り役を仰せ

    付けらる。

   一、初代から帯刀御免であった。

 

◎ 潮見 柘植家物語 ― 女性(母方)の人気が高い柘植一族 ―

 

 前記 塩見開祖 山田小十郎(惣右衛門)12人の伜達で、河方姓 柘植姓を名乗る者が続出している ― 何故か?

  長男 平左衛門、どうやら山田姓を継承したが、すぐどこか(飯地)へ出て行ってしまった。

   次男 長助、最初柘植姓を名乗り、後 6代目文右衛門より河方姓に改む。

   三男 小右衛門、最初は山田を名乗っていたが孫の九郎衛門は柘植姓を名乗り名場居に分家した。すなわち

(柘植)史郎らの祖である。

   四男 五男 六男、柘植を名乗り、中野方坂折に転出したり、潮見の本郷に分家したりしている。

   七男 九郎左衛門だけが本家(山田家)の隣に分家、山田姓を名乗っている。

   八男 惣右衛門、父の名前と共に山田姓を継承 本家を継いだが、すぐ柘植姓に変え、本家の古文書 不動産

家財を次兄 河方長助に売り払い、どこかへ出て行ってしまった。

 (注)我々よそ者が潮見の総本家は河方家だと思っていたのは、このへんの事情を良く知らなかったからである。

 この山田本家を継承した八男山田惣右衛門は、大阪天満与力の河方勘兵衛の娘を妻に迎えたが、河方勘兵衛の妻乃ち 母方の姓柘植を贈られて、柘植惣右衛門重国と名乗っている。清和源氏山田系 柘植家の誕生である。これは柘植姓を名乗れば柘植氏の相続してきた総ての権限が相続できたからである。

 

 何故 柘植姓がそんなによいのか?

柘植姓の中には織田信長系の柘植氏があり、その系統は

織田信定―織田信広―柘植大炊介(従五位下犬山城主) ―柘植与八郎―柘植左京亮(豊臣秀吉 秀次 秀頼に仕う)

と美濃界隈のエリート連中が綺羅星の如く名を連ねている。

  一方、織田家が滅び豊臣時代になると、織田□□では秀吉に睨まれ危ないというので「柘植道官(旧姓織田)と申す者、尾州に移住、母方の柘植姓を名乗る」とある。

これは その子孫柘植大炊介 弟平左衛門らの言い伝えという。(梅田 薫著「信長の中濃作戦」より)

 

汚職議員金丸 副総理の親戚連中が、後に「金丸の親戚」ということを伏せるようになったのとよく似ている。(芳樹)

 

 そこで「柘植」なる苗字に、もう一つの面白い話がある。(梅田 薫著「信長の中濃作戦」より)

 源 頼朝が16歳で平治の乱(1159)に参戦、美濃関ヶ原で柘植宗清なる男に捕らえられ京都へ連行された。まさに打首という前日、平清盛の異母弟 平頼盛の母(清盛の継母)池ノ禅尼の助命嘆願のお陰で命が助かり、伊豆に流される。

この時、頼朝を護衛し伊豆へ連れて行ったのが、関ヶ原で頼朝を捕らえた彼 柘植宗清であった。この柘植宗清という男は少年頼朝を捕らえたり、護衛したりして 全く妙な男である。護衛して助けてやる位なら最初から捕らえたりしなければよいのに…。(芳樹)

 

  頼朝は柘植宗清の護衛の親切?に感動、後日 鎌倉幕府を開くや、直ちに柘植宗清の恩に報いる為、彼を鎌倉に招こうとする。だが、彼は―

「頼朝という人は、戦功のあったあの弟義経すら殺そうとしたオソガイ(怖い)人、何せらっせるか分からん。俺りゃ 鎌倉へ行くのはオイタ(止めた)ぞよ」と言い、仮病を使って行かなかったという。

 

 関ヶ原で頼朝を捕らえ、首に縄を付けて京都へ連行したのは、この柘植宗清である。

「こりゃ 下手すると鎌倉殿に殺される…」と思ったのは当然であろう。(芳樹)

だが、頼朝は偉いのか 狡(ずる)いのか 何だか知らないが、後で沢山の褒美を柘植宗清に贈っている。乃ち、伊賀国阿拝郡・山田郡の三十三ヶ村で、その使者として来たのが平清盛の異母弟 平盛長(池ノ禅尼の息子)であった。

 使者 平盛長は柘植宗清に―

「この伊賀は貴殿が老後を過ごされるには誠によいところ、こゝに家でも建て鎌倉殿に忠勤を励まれよ」と言ったという。

 平家の平盛長が、源氏の大将に味方し「鎌倉殿(源 頼朝)に 忠勤を尽くされよ…」というなど、当時の人は何を考えていたのか良く分からない。― だが、今の内閣でも、総理が社会党、副総理が自民党と理由の分からぬ組み合せ、鎌倉殿だけの悪口も言えまい。(芳樹)

 鎌倉殿の厚意を半ば疑い、半ば感動した柘植宗清は、冗談半分に そばの柘植(黄楊)の小枝を折って、地に差し

「この枝が根づき繁茂したら、こゝに家でも建てましょうかい…」と笑って答えたという。

ところが翌年、その黄楊(つげ)の小枝は見る見る成長して鬱蒼たる大樹となり、その梢(こずえ)一面に花が咲いた。

 (注)我が家にも黄楊があるが、36年経った今でも精々3米位である。一年でそんなに繁るやろか?(芳樹)

この鬱蒼たる黄楊の樹を見た柘植宗清は大いに喜び、早速 こゝに家を建て、

 

      柘植(黄楊)の野に こしつる花を うゑおきて わが行くすへを 祝うべき哉

 

と詠み、それから姓を「柘植」にしたという。― 然らば、それまでの苗字は一体何であったろうか?(芳樹)

 

 かくて 時は移り、天正7年(1579) 織田信長は次男信雄をして伊賀国を攻略せしめた。

 この時、伊賀柘植一族は「織田勢におとなしく降伏するか、それとも徹底抗戦の途を採るか…」と迷った末、三河の徳川家康に相談してみた。家康の前に両手をついた柘植宗能・清広の父子は、

「伊賀国を徳川殿に献上したいが…」と申し出て、うわ目づかいに 家康の顔色を伺ってみた。

この申し出に家康は

「その話には応じ兼ねる。それより素直に織田殿に従い、本領伊賀国を大事に守るべきであろう。その代わり貴殿たちお二人は三河へ亡命、わが徳川家に仕えたら如何がかの?」と言ったという。

伊賀に帰った柘植宗能・清広父子はこれを皆に伝えたが、諸将はこれを不服とし、遂に伊賀は織田の軍勢に蹂躙されるに至った。 すなわち、これ 天正の「伊賀の乱」である。

 それから三年後(天正10年)信長が本能寺で明智光秀の謀反に倒れるや、京都に居た徳川家康は直ちに泉州堺から百姓姿で伊賀経由の逃避行がはじまる。この時 家康一行は伊賀に居た服部半蔵 柘植三之丞(清広)13名の首領と郷士ら二百人に護られ「夜道の伊賀越え」を敢行、無事三河に戻ることが出来た。

 

 その後、徳川幕府が開設されるや、多くの伊賀郷士が迎えられ、伊賀での協力に報いる優遇を受けることになる。 丁度この頃、八百津 塩見郷の山田家一族も、伊賀柘植一族のように幕府の優遇にあやかり度いと、続々柘植姓を名乗り、独立分家し、お家安泰を願う動きが際立ってきた。塩見の開祖山田小十郎の12人の子供の中の伜達の殆どが、柘植姓を名乗りだしたのもこの頃である。

 

 こう見てくると、伊賀の柘植一族が、織田方についたり豊臣についたり、信長が本能寺に倒れるや、徳川家康の「伊賀越え」の危機を積極的に援け、徳川幕府にうまく取り入ったように、塩見の柘植一族は、せっかく開拓した塩見郷を気前よく苗木藩に奉上し、すぐ年貢米免除に成功している。

 そして、明治の御代になるや苗木から脱藩、笠松県についたり、土岐郡についたり、また恵那郡についたりして最終的には加茂郡八百津につき、現在は八百津町潮見と呼ばれる至った。柘植一族の豹変ぶりが伺える。この機を見るに敏な無党派的豹変ぶりは、柘植一族の祖先から綿々と続いている妙な家風かも知れない。

――いや、そんなことはない。――

廃仏毀釈の時、塩見郷与頭(くみがしら)市蔵の女房が燃えさかる仏檀にしがみつき「大旦那様のこのお仏檀、私がお護り致しまするッ」と髪の焦()げるのも厭(いと)わず「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え悶え泣く。主家を護ろうとする村人達の命懸けの抵抗ぶりを見ても、如何に河方・柘植一族が潮見の人達に慕われて居たかよく分かる。(芳樹)

 

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