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かならず仕事につなげるための 『翻訳入門』 実戦篇

(月刊『翻訳の世界』1994年5月号臨時増刊)

現場の必要が生み出した手作りの労作
翻訳者による翻訳者のための辞書

 産業翻訳の現場で、日々英語と格闘している第一線の翻訳者が作った英語の用例辞典が、 この一月に発売された。『最新ビジネス・技術実用英語辞典』(日外アソシエーツ発行・紀伊國屋書店発売・定価五八〇○円)がそれだ。英和と和英が一体になったもので、 英和の見出し語一万三千、 和英の見出し語一万二千にそれぞれ三万五千件の用例が収められている。編者の海野文男さん、和子さんはご夫婦で翻訳の仕事をしてきた。その間に蓄積してきた英文の用例データベースを基にこの辞書はできあがった。既存の辞書にはない、実践的な活用法が期待できる一冊だ。

手書きのノートからコンピュータのデータベースへ

 海野文男さんは、翻訳者として独立した十一年前から、使えそうな英文の用例を見つけるとそれをノートに書き記していた。そんな風に書きためたノートが数十冊。
 一九八六年に和子さんと結婚。二人の出会いは恵比寿の英会話喫茶というから、まさに英語がとりもつ縁だったわけだが、この出会いが後の辞書づくりを可能にする。
 文男さんはもともと電気工学を専攻したエンジニアとして外資系自動車会社に勤務していたが、その後貿易会社を経て翻訳者として独立した。電気関係はもちろん、OA関連、ビジネス文書など幅広い分野での英訳の仕事をこなしている。和子さんは化学が専門で研究所に勤務していたが、英語とコンピュータが好きで、翻訳会社に移りコンピュータ関連のマニュアルの英訳をする翻訳者へと転じた。結婚後に独立した。
 コンピュータが得意な和子さんとの出会いによって、文男さんがこつこつとノートにためてきた用例が、パソコン上のデータベースとして活用される道が開けた。NECのPC-9800シリーズのパソコンを使って、和子さんがデータベースソフトdBASEVによるデータベース・システムを設計した。
 辞書の作成にとりかかったのは四年前。出版のあてがあるわけでもなかったが、それからの毎日は辞書づくりがお二人の日課になった。
 仕事場には数台のデスクトップ・タイプとノート・タイプのパソコン、電子ブックプレーヤーがある。辞書編集用のPC-9800の他に、CD-ROM検索用のFM-TOWNS, DOS/Vマシンなどがところ狭しと並ぶうえに、大型の辞書類が何冊も横になって積まれている。今もまだ辞書編集作業が続いているかのようだ。
実際、翻訳の仕事を進めながらも、データベースは日々新たにデータを増やしているわけで、辞書づくりはある意味ではまだ続いているとも言える。

日々の仕事の積み重ねから生まれた辞書

 最初は個人用に作られたデータベースだが、それを辞書として世に問おうという気持ちにさせたのは、日々の翻訳作業で生じるさまざまなトラブルが原因だった。せっかく作成した英文を、発注側の担当者がたんなる表現の好みによって書き換えを要求してくるようなことがある。それがよい方向への書き直しならいいが、逆に不自然な表現を要求されることもある。そういう時、根拠になる用例というのが一般の辞書などでは見つからない。「ネイテイヴでもその分野に詳しくない人だと、こちらが作った英文を間違って直してしまうようなことがある。そんなときに、こういう辞書があれば、反論することもできる」と文男さん。
 また、他の翻訳者にも仕事を依頼して翻訳するようなときでも、共通のデータベースとしての辞書があれば、後で大幅な直しをしなければならないような見当違いの訳が生まれる可能性を防げる。
 「工業英語というと日本ではある種の固定観念が強いようです。堅苦しく型にはまったような表現というイメージができているようですね、文体一つでもYouをつかってはいけないということが言われていたりして、それを律儀に守ろうとする発注側の人もいる。でも、米国のマニュアルではYouはよく使われています。実際の用例を見てもらえば納得してもらえるはずなんです」と文男さん。
 翻訳の現場にいる人間にとって役に立つ、生きている言葉の用例をふんだんに盛り込んだ辞書を作りたいという願いが、二人を本業の翻訳を休んでまでも辞書作りをしようという情熱に駆り立てた。

こんなにもある実践的な活用法

 この辞書は翻訳者や翻訳を学ぶ人にとってどんな役に立つのだろうか。実際に辞書を開きながらその一例をうかがってみた。
 まず、この辞書は、もともとがお二人の翻訳作業で使うために作られたデータベースなので、それぞれの見出し語に掲載されている用例も、通常の辞書ではほとんどとりあげられないが実際の仕事では頻繁に使うものが優先的に取り上げられている。
 たとえば、製品に「添付されている」とか、コンピュータを「立ち上げる」というような表現を載せている和英辞典はほとんどないが、この辞書では、訳語と共に、実際に米国のマニュアルなどで記載されている文例が載っている。
技術用語関係の専門辞書は数多いが、もっぱら名詞としての専門用語中心の編集になっているので、動詞形の用例はわずかしかない。また、文中でどのような前置詞と組み合わされるのかといった情報も皆無なので、いざ自分で英文を書くときには迷うことが多い。その点でも、 前置詞、動詞、形容詞などの組み合わせの例を数多く紹介しているので、すぐに応用がきく。
 さらに名詞の場合でも、組織名などでtheがつくかどうかの判断がむずかしい場合があったり、どのような冠詞が付くのかわからないケースが結構多いが、その情報も細かく載っている。 和子さんが翻訳会社に勤務していたとき、「外部翻訳者へのトライアルで、よく目に付いたのがequipmentに冠詞のanを付けるミス」だったという。「装置」という意味で使われるequipmentにはanが付かないと明記してある辞書がほとんどないからだろう。
このように、この辞書は実際に翻訳の仕事をしている人にとってはもちろん、学習者にとってもかなり有益な情報が盛り込まれているようだ。
 ついでに、翻訳志望者に向けてのメッセージをうかがった。まず、文男さんから。
「自分のやりたい分野の雑誌や資料を原文でたくさん読むようにした方がいいですね。そして、豊富な用例を見て覚える、それを使えるようにすることが大切です。どんなに英語ができる人でも、ネイティヴのようには表現を使いこなせるわけではない。実際に使われているものを自分のものにするのが近道です」
次ぎに和子さんから。
 「翻訳の良し悪しは経験の長さで決まるものではありません。十年やっていても、こりかたまっていて自分の知っている言葉しか使わない人もいる。言葉は生きているので、辞書だって二年もしたら内容が古くなります。自信満々になったらおしまいです。一年ぐらいでも向上心のある人はぐんと伸びますから、がんばってください」

借金も子育ても辞書の前には苦にならない

 いくら仕事の必要に応じて用例を集めていたと言っても、辞書として集めるにはまだまだ不足している。用例採取のためには、海外の専門誌や書籍はもとより、辞書類も次々に新しいものを買い求めなければならない。紙に印刷されたものだけでなくCD-ROMなどの電子辞書類にもあたった。そのような資料代が昨年だけで六十四万円もかかったという。
 出費が増える反面で、辞書編集作業に専念した四年間は翻訳の仕事もほとんど休業状態となって収入の道は途絶えた。蓄えを食いつぶす生活になったわけだが、それでも足りなくなり親類や友人から借金をして食いつなぐにまでなった。
 さらにお二人には五歳と三歳のお子さんがいるというから、妊娠、出産、子育ての時期が辞書編集作業とほぼ重なっている。この時期の大変さ、特に母親である和子さんの苦労は並大抵ではない。その上、辞書編集のデータベースのメンテナンスは、プログラミングのできる和子さんの仕事なのだ。
 「データベースの扱いに関しては、私にしかできないことがいっぱいある上に、自宅が仕事場なので二十四時間仕事をしているような毎日でした」と和子さん。
 幸い文男さんが積極的に家事を分担し、保育園にも恵まれ、辞書編集の仕事を続けることができたという。

やっと見つかった出版社

 辞書の編集作業が進む一方で、出版社はなかなか決まらなかった。著名な監修者が必要だと言われたり、英和・和英それぞれ数万円という定価でないと出せないと言われたりする中で、日外アソシエーツは五八○○円という低価格でしかも両者を一冊にまとめて出せるという条件だった。
「何万円もするような辞書では一般の人に買ってもらえませんからね。工業英語というと特殊な英語だと思われているようなんですが、そうではなくて普通の英語なんだということを一般の人にも知ってもらいたいということもありましたから、この価格でできるということは重要でした」と文男さん。
 価格を抑えるために版下を写植ではなく、高解像度のレーザープリンタで出力しているのだが、実際にできあがった辞書を見ての印象では、決してプリンタ出力とは思えないような読みやすさだ。
 出版元の日外アソシエーツは電子ブックやCD-ROMなどのデータベースでも知られる会社だが、この辞書をCD-ROMなどの電子媒体として刊行する予定はないかをうかがってみたところ、「日外さんは結構前向きな姿勢ですが、本にするために作ったデータベースのデータがそのままCD-ROM化できるわけではなく、データ構造などを変えたりしなければいけないということもあって、すぐには考えていません」と和子さんの答えが返ってきた。

辞書づくりには終わりはない

 辞書を完成させたばかりのお二人だが、まだまだ現在の内容には飽きたらないようだ。用例に関しても、もっといい例があったのではないかと思えるものがいくつかあったり、語句の選択や解説にも不満が残るものもあるという。さらにこれほど膨大な量をほとんどお二人だけで時間に追われながら校正されたこともあって、校正ミスが気にかかるという。 「間違いや、変な用例だと思われるものがあったら、ぜひ教えていただきたい。増補改訂版が出せるかどうかはわかりませんが、今も毎日、用例を集めています」という文男さんの言葉から、この辞書に対する強い思い入れが伝わってくる、なんとしてでも、さらに充実した改訂版が誕生するように、この辞書が広く翻訳者や翻訳を学ぶ人にとって迎え入れられることを願わずにはいられない。

(取材・構成 楢木裕司)

 

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