それはただの「再会」ではあった。 「おっかしいなあ。確かにこの辺だと思ったんだが…」 夕闇せまる狭い路地の一角に彼はいた。夕食前の賑やかな雑踏がかすか遠くに聞こえる。ほんのちょっと手を伸ばせば届く距離にあるはずの暖かい灯りもここには届かない。すえた匂いと濁った人いきれ。それでも彼は此処をそれほど嫌いではない。 普段なら手頃な獲物を待つ者のひそめた息遣いや、常夜灯に群がる蛾のように毒々しく着飾った街娼を見かけるのだが今日は人の気配自体がしない。 この辺りで能力を使った名残が確かにあった。結界を張った人間の「色」がほんのしばらくの間だけその場に残ると気がついたのはつい最近の事だ。色…。その喩えが一番言葉に表しやすい。今の彼に感じられるのは鮮血の様な赤と底知れぬ暗闇、そしてほんのかすかだが…光。これほど複雑な「色」を感じるのは初めてだ。いや、一度何処かで見た気もする。 「ちっ、降って来やがったか」 もったりと鉛色に染まった空から落ちてくる雨粒を見上げて毒づきながら、まあいいか、とつぶやいて彼は踵を返した。今、自分を追う者でなければ無理に関わる事もない。自然に足が早まり急に暗くなった道を急ぐ。その時、狭い路地のその奥、建物と建物のほんの隙間にふと人影を見た気がした。自然足がそちらへと向かう。そうして、彼は会った。 …どうしてこんな処に居るのか…。ぼんやりと考えている。身体が冷え切っている様に動かない。何処かに怪我をしているらしいが腕を上げる事さえおっくうだ。右手にぬるりとした感触がある所からすると多分その辺りで血でも流れ出しているのだろう。痛みは感じない。いや、感じているのかもしれないが痛みとはどういう物なのかを忘れてしまった。もう疲れた…。半分睡魔に飲み込まれながらそれでもしぶとく考え続けている。考えて何になるのか?不意に自分の滑稽さが身に染みた。このまま眠っていたい。何も考えず今、全てを終わらせる。全てを。 「…よう、こんな所で何をしてるんだ?」 不意に頭上から降ってくる声に顔を上げる。ゆっくりと。 「あんた、前に一度会ったな。ブラド、だろ?」 「バーン…グリフィス…?」 それはただの「再会」ではあった。だが、彼らは本当に出会ったのだ。 【 Human System 】 Another story for PSYCHIC FORCE Act.1
「何だ、怪我してるのか?」 ブラドの右脇腹から血が滲み出しているのを見咎めてバーンが覗き込む。心配そうな表情をしている彼からあっさりと視線を外して、ブラドは煩そうにその姿を追い払うかのごとく手を振った。 「いいから放っておいてくれ」 その心底迷惑そうな様子に気づいているのかいないのか、彼の言葉を無視してバーンはブラドの側に屈み込んだ。そうしてちょっとの間首をかしげて思案にふける顔をしてからおもむろにその傷口へ手を当てる。 「何を…しているんだ?」 何を尋ねるでもなく警戒するでもなく、何やら妙に深刻そうな表情をして理解不能な行動を取っている目の前の男に、ブラドは苛々しながら問いかけた。 「何をしているんだ、と聞いているんだが?」 「ちょっと黙っててくれないか?」 今度はバーンの方が煩そうに応えた。深刻な表情はそのままだ。 「気が散るんだよ。初めてなんで勝手が分からないんだからさ」 何を、と思わず声が上がりかけた時、傷口に当てられた手の平から暖かいものが流れ込んできたような気がした。反射的にバーンの顔に視線を合わせると、彼はうつむき加減に目を閉じていた。身動きひとつせずに一心に何かに祈っているようにも見える。ひどく無防備なその姿。今なら*今の*自分の手でもこの男を殺せるかもしれない。 彼の熱がそのまま流れてくるような気がした。ひどく優しく、それ故につらくなるような感覚がブラドを支配していた。否が応でも自分がひどく冷え切っているのが感じられて、それがつらいのだと思う。 「…こんなモンかな」 ようやっと手を離すとバーンが目を開けた。 「取り敢えず傷口は塞がったと思うぞ。自分の身体なら勝手が分かるんだが他人のヤツとなるとさっぱり分からないよな」 疲れた疲れたと言いながら、あっけにとられて自分を見ているブラドにバーンはニッコリと笑いかける。あまりに邪気の無い笑みに、ブラドは今しがたの感覚も忘れて言葉を失ってしまった。 「あのな、余計な事はするな」 何となく怒りが込み上げてきて、それでもブラドは出来る限り静かに諭すようにバーンに言葉を告げる。 「放っておいてくれ、と言ったはずだぞ?迷惑なんだ」 「さてっと」 「迷惑」という単語に一際力を入れて声を荒げるブラドをこれまたあっさり無視してバーンが立ち上がる。 「君は人の話を聞いているのか!?」 自分でも理不尽だとは思うのだが、怒りで爆発しそうになりながらブラドはほとんど怒鳴るように叫んだ。この男は一体何を考えているんだ? 不意にブラドの身体が宙に浮く。何事かと考える間もなく今度は腹這いにストンと落とされた気がした。それからいきなり視界が暗くなる。…察するに、どうやら自分はこの男の肩に担ぎ上げられたらしい。暗くなったのは雨が降っている事で一応気をつかっているのだろう、彼の着ていたジャケットが自分の頭から掛けられたからのようだった。ブラドはため息をついた。そうして先ほどから何回もしている問いを無駄だと思いつつも繰り返す。 「だから、何を、しているんだ?」 「怪我人をこのままにしておけないだろ?」 何を当然な事を聞くのだとでも言いた気にバーンが言葉を返した。 「大丈夫だって。住んでる場所はすぐそこだし、あんた軽いからな」 無邪気に笑って応えるその表情を見てブラドはどっと疲れが出た様な気がした。問題が微妙にずれている気がする。 「何度も同じ事を言って悪いんだが…。放っておいてくれないか?」 ほとんど哀願に近い形でブラドが訴える。どうもこの男といると調子が狂う。 「あのさ」 いきなり髪を引っ張られてバーンの肩からずりさがる感覚に慌てるブラドの眼をバーンが覗き込んで言葉を紡いだ。自然間近でブラドは彼の瞳を見る事になる。真っ直ぐに自分をみつめてくる迷いのない瞳を。 「こうやって荷物代わりに運ばれるのと、新婚さんよろしく両手で抱きかかえられるのとどっちがいい?」 真面目な表情して問いかけるバーンを見て…、ブラドはそのままがっくりとうなだれた。目眩がする。怪我のために血が流れ出したためだけでは決してない。 そのまま答えないブラドの姿に取り敢えずこのままでいいと思ったらしく、バーンはそのまま小走りに家路へと急いだ。─もうどうにでもなれ─。ブラドは密かに毒づいた。今日は最悪の運勢に違いない。 今日何度目かのため息をつきながらブラドは大人しく湯船に沈んでいた。冷え切った身体に染み込むような熱はさすがに心地よい。思いたって怪我を負ったはずの個所を見る。引きつった様な微かな痕は残っているが、痛みも残らずきれいにふさがっていた。彼が能力を使う事に対して存外器用だというより、他人の身体に干渉出来るだけの大きな能力を潜在的に持っているという事なのだろう、つらつらとそんな事を考える。そのまま眠り込んでしまいそうな頭に逆らうように、ブラドはぼんやりと先ほどのバーンとのやりとりを思い浮かべた。 彼に連れられて…いや、担がれて着いた所は今にも崩れそうな小さなアパートだった。解体後というよりただ単に崩れ落ちた感のある瓦礫だらけの空き地がすぐ隣りにある。このアパートもそれほど間を置かずにこの瓦礫の一員になるような気がした。 取り敢えず他にも人は住んでいるんだぜ―と、階段を上りながらバーンが笑う。アパートの見かけ通りにお世辞にも広いとはいえない部屋に、ちょっとしたキッチンにベッドがひとつとくたびれたソファと…それだけだ。驚くほど何もない部屋だった。そりゃそうさ。バーンが当たり前のように言った。大抵追いかけられてるからな。2日もすればまた逃げ出さなきゃならない時もあるし。そうして悪戯っぽく笑う。此処には一週間も居るから長い方だよ。 答える訳がないとは思ったが、やはり気になって一緒に居るはずのウェンディとエミリオの所在を尋ねた。それは内緒だ。バーンがにやにや笑って答える。隠しているというより取っておきの秘密を黙っているのが楽しいというような口ぶりだった。 今は一人の方が何かと動きやすいんだ。それにあいつらが追われる事はあまり心配していないしな。自信ありげな態度にその根拠を尋ねると、バーンは静かに微笑んだ。そりゃ、あいつは俺の事をよく知っているからな。愛しそうに「あいつ」という言葉を使う。 あいつはウェンディやエミリオに何かあったら、俺が今以上にやっかいな存在になるのがよく分かっているのさ。逆に俺に何かあってもあの子らには関係ない。どっちから先に潰したらいいかなんて心得ているだろうよ─ 殺伐とした言葉の割りには優しい表情だった。彼が「あいつ」と呼ぶのが自分達の総帥に対してだという事を知っている。キース様。自分達が尊敬と畏怖の念を込めて呼ぶ名前の人物をこの男は本当に親愛なる友人のごとく呼ぶ。それがとても不思議な気がした。 最後に一番聞きたかった質問をした。どうして僕に何も聞かないのか? 一瞬怪訝そうな表情を浮かべて、それから一言答えた。「聞けば教えてくれるのか?」 言葉に詰まった自分に彼はただ笑ってそれ以上何も言わなかった。 そうしてその辺に放ってあったシャツとジーンズを「着替えだ」と押し付けられ、バスタブに蹴り込まれて今に至る。風呂があるだけマシなんだからな。100数えるまで出てくんなよ、と怒鳴られながら。 「おかしな男だ」 口に出してブラドはつぶやいた。バーン・グリフィスという男の情報は自分の耳にもそれなりに入ってきたし、彼がノアの本部に居た頃には挨拶程度の言葉なら交わした事もあった。自分達の総帥の親友で強力無比な炎の支配者。そして彼に関して最近になってまことしやかに囁かれる噂があった。噂の中の人物と、今現在目の前にいる彼とはあまりにギャップがありすぎる。ブラドはもう一度深いため息をついた。 「よっ。暖まったか?」 眠りを訴える身体を何とか起こしてブラドが風呂から上がると、バーンがキッチンで何やら作っている所だった。豪快にフライパンを煽っている。きわめて大雑把なその仕草はいかにもこの男らしいと思いながらブラドはその姿を見ていた。黙ってつっ立っているブラドを気にかけていない様にバーンは作業を続け、終わってから火を止めるとそのままブラドの所に近づいた。そうして彼のシャツの襟首をつかんでそのままソファの方に引きずっていく。言葉もかけずにいきなり引っ張られて、ブラドは慌ててその後についていった。そうしなければ息が詰まってしまう。 「いきなり何をするんだ、君は!」 ソファに座らされて…というより投げ出されてブラドは思わず怒鳴った。ベッドの側に置いてあった小さなサイドテーブルをブラドの前に運びながらバーンはしれっと答える。 「いや、歩くのおっくうそうだったから手伝ってやったつもりだけど」 本気なんだか冗談なんだか掴みきれずに二の句が継げないブラドから離れて、バーンがさっきのフライパンから皿に中身を盛り付けると、もう一度戻ってブラドの前に運んで来たサイドテーブルの上にどんと置く。 「取り敢えず、食え」 それはそれは大盛りのパスタだった。見るだけで食欲を失いそうだ。目の前に置かれた皿と生真面目な表情をしたバーンとを見比べながら、何と言葉を返そうかとブラドは逡巡する。そして仕方なく一番無難だろうと思われる返事をした。 「…ありがとう」 バーンの表情がぱっと明るくなった。嬉しそうに笑う目の前の男を見ていると自分がずいぶんと良い事をした様に錯覚させて、ブラドはそれがほんの少し気持ち良かった。 「君はどうするんだい?」 ブラドの前のサイドテーブルは皿一枚やっと置ける程度の小さなもので、とても他のものを置けそうにない。訝し気に尋ねるとバーンは何とフライパンごと自分の分の食料を持ってきた。 「俺はここで食べるからいいよ」 そう言ってベッドの端に腰掛ける。あっけにとられてフライパンを抱えている自分を見ているブラドに気づいて、バーンはばつが悪そうに苦笑した。 「皿なんて他にないんだよ」 とにかくバーンは食べた。その姿を見ているだけでこっちの食欲まで満たされる気がするほどだ。相手に盛り付けたものより大量のパスタを見る間に平らげ、半分に満たない量で既に食べる気の失せたブラドの分までかきこんだ。そんな細い身体じゃ倒れるぞ、などと説教をしながら食べ続ける姿にブラドは目眩を覚えずにはいられなかった。 こうして眺めている限りバーンはごく普通の青年にしか見えなかった。いや、表情に合わせてくるくると変化する瞳を見ていると幼い少年の様にも思える。とても最近耳に届くようになった噂の人物と同一とは思えなかった。バーンがノアの本部から他の二人を連れて消えてから間もなく、噂と共に何時の頃からか彼は別の名で呼ばれるようになっていた。憎悪と、そして恐怖を込めて。 「…ディアブロ」 食後の一杯としてバーンが煎れてくれたコーヒーに口をつけながら、ブラドが不意に呟いた。その言葉を聞いてバーンの瞳が微かに細められる。 「ネットワークゲームのあの悪魔の事か?」 「ああ、そういうものもあるんだね。本来はスペイン語で『悪魔』の意味があるらしい」 バーンの問いにブラドはしごく穏やかに笑顔さえ見せて答えた。 「この頃君はノアの中ではそう呼ばれている」 ふと、バーンの眼から一切の感情が消えた。それは見事なまでの変化だった。さっきまで彼の表情のひとつひとつを映し出していた瞳からは何の感情も窺う事は出来ない。この瞳と同じものにブラドは見覚えがあった。アイスブルーの凍りついた瞳を。 「君を追う者は誰一人として帰って来る事はなかった。だから君はまるで人の魂を喰らうディアブロのようだと恐れられているよ」 ブラドの言葉を聞いてもバーンの瞳は変化を見せなかった。何の感慨もないかの様に、それでもその眼を逸らす事はない。自分はこの男をひどく傷つけているのだろう、ブラドはバーンの瞳を真っ直ぐに見返しながら考えていた。それでも聞かずにはいられなかった。心の奥底の何かがそれを切望している様な妙な感覚すら覚えていた。 「君ほどの能力があるなら追手を殺さずにやり過ごす事も出来るだろうに、どうして殺すような事になってしまうんだい?」 自分で言った言葉にブラドは嫌悪感と共に皮肉な笑いが込み上げてきた。この言葉を僕が言うのか? 何故殺すのかなどと問うのか? この僕が。 バーンはゆっくり眼を伏せた。所在無さ気に指を組み応えるべき言葉を捜しているように見える。かなりの時間の沈黙が続いて、ようやくバーンが口を開いた。 「すまないけれど、それには答えられない」 伏せられた瞳には何時の間にか先ほどまでの冷たい光が消えていた。その代わりに悲しい…というより痛い光が宿っているのが分かると、とたんにブラドに堰を切ったような激しい後悔の念が沸き上がった。僕は何て事を言ってしまったのか…! 「いや、僕の方こそすまなかった。言うべき事ではない事を言ってしまった」 心底すまなそうにうなだれているブラドの姿を見て、バーンが慌てて二の句を継ぐ。 「いや、でもそりゃあんたの立場だったら聞きたいのは当たり前だろうし、言ってる事だって本当の事だし。謝らなきゃならないのは俺の方だよ」 そして恐る恐る顔を上げたブラドにバーンはすまなそうに微笑んだ。なのにブラドはバーンが泣き出すのではないかと思った。何の根拠もなかったが。 「でもまあ、出来れば誰も傷つけずにいられたらいいと思ってる」 笑ってバーンはそう言った。俺は実際かなり平凡な暮らしが性に合ってるんだけどな、と付け加えて。その言葉と笑顔にブラドもつられて微笑んでしまった。それを見てバーンが心底ほっとしたように息をつく。この男は自分が傷つくよりも自分のために誰かが傷つく方がつらいのだろう―と、ブラドは何となく分かった気がした。自分を見つめるブラドの視線を受けてバーンはバツが悪そうに苦笑して頭をかいた。が、その途端に急にがっくりとうなだれる。 「ど、どうしたんだ!?」 あまりに急な事だったので今度はブラドの方が慌ててバーンの側に駆け寄った。屈み込んで下を向いてしまって見えないバーンの顔を覗きこむ。 「…眠い」 バーンが絞り出すような声で一言呟いた。脈絡のないその言葉にブラドはつい顔をしかめてしまった。見ると確かに眠そうだった。しかめっ面をしながら半分睡魔に飲み込まれている所を一生懸命押し止めているようだ。 「うー、あんたの傷治すなんてやった事ないことしたからかなー。すっげー眠い」 不機嫌そうな声をあげて眠気を払うように軽く頭を振ると、ポカンと自分を見ているブラドの視線を引き連れてバーンはよろよろと立ち上がった。 「悪いけど俺ちょっと寝るな。ベッドはあんたが使ってくれよ。一応お客さんだしな」 あっけにとられたままのブラドにそう告げて、おぼつかない足取りで何とかソファまで辿り着くとそのままどっかと仰向けに倒れ込んだ。それからほとんど間を置かずに寝息が聞こえてくる。 ―本当に寝てしまったのか?― ブラドには信じられなかった。仮にも自分は彼の敵側の人間なのだ。少しは警戒するとか疑うとかをするものではないのか? 本当は寝たふりをしているだけではないのだろうかとブラドの中に猜疑心が湧き起こる。疑いの眼差しでソファに横たわるバーンを眺め慎重に近づいてみた。すやすやと規則正しい呼吸音が聞こえる。自分が近づいてその顔を覗き込んでも微動だにせず幸せそうに寝息をたてているその姿は、どう見ても気持ち良さそうに熟睡しているようにしかブラドには見えなかった。 複雑な心境だった。警戒を必要としない相手と認識されているとしたら喜んでいいいのか悲しんでいいのか分からなかった。今は違うとはいえ、何時かは彼を追う任を*あいつ*が請け負う事になるかもしれないし、何となくバカにされた気分もしたからだ。 ブラドは大きなため息をついてそのままバーンを見下ろしていた。その時ふと、さっき浮かんだ感情がまた戻ってくるのを感じた。 ―今なら*今の*自分の手でもこの男を殺せるかもしれない― ブラドはバーンの側にひざまずくと、ほとんど無意識にその首に手をかけた。無防備なその姿を眺めながら首にかけられた指に少しづつ力をこめる。夢の中に居るかのようにブラドに現実感は感じられなかった。得体の知れない焦燥感がその身を浸していた。 その時バーンがうっすらと眼を開けた。その青い瞳を見た瞬間ブラドが我に返る。反射的にバーンの首にかけられた手を引っ込めようとするブラドを、その手を掴む事に寄ってバーンが押し止めた。瞬間ブラドに恐怖の感情が走り抜ける。が、何故かバーンは微笑んだ…ように見えた。見えた、というのはそれをきちんと認識する前にバーンが掴んだブラドの手をそのまま自分の方に引き寄せたので、結果的にブラドの頭がバーンの胸に抱き抱えられる形になってしまったからだった。この体勢で彼の表情を窺い知る事は困難だ。 殺されるかと思うような恐怖から一転して何だか訳の分からない状況になってしまって、すっかり慌ててしまっているブラドの耳にのんびりとした声が届いた。 「眠れないんだったら一緒に寝てやるから―」 どうやら半分寝ぼけているらしい。ブラドの頭を抱きかかえたまま、バーンはもう一度夢の世界へと帰っていった。そのまま彼の胸に身体を預ける形になりながら、驚く気力も怒る体力も失せてブラドは深い深いため息をついた。まったくこの男ときたら。 それほど強い力で押さえられている訳ではなかったが、ブラドはその腕から逃れる気にはなれなかった。子供は体温が高いというがこの男の熱は妙に心地よい。ブラドの耳に直接届くバーンの鼓動にも何故だか安心出来た。先ほどまで自分の身を支配していた焦燥感がゆっくりと融けていくような気がする。そういえば自分も眠かったのだという事を思い出して、ブラドはそのまま眼を閉じた。 身体の中で声がする。深い闇の奥底で。強烈な渇きが襲ってくる。耐え難く、抗い難い渇き…。痛いほどの飢餓感。 ―…タイ……ク…タイ……― ブラドは唐突に眼を開けた。暗闇であるはずの視界が一瞬真紅に染まっているように見えてそれがとても恐ろしかった。跳ね上がった自分の心臓の鼓動がやけに耳につく。夢だと思うにはあまりに生々しい感覚が彼を苛んでいた。ブラドは指一本動かす事が出来なかった。喉の奥が焼けつくように痛いほど息を詰めているのにその息を吐き出す事さえ出来ない。そうする事すら恐かったのだ。 どうしようもない恐怖の中で不意に暖かさが増した気がした。ブラドの変化に気づいてなのかそれとも単に無意識でか、彼の頭を抱いたバーンの腕に力がこもる。ほんの少しだけ安心出来た気がしてブラドはやっと大きく息をついた。 「…まったく、夜くらいはゆっくり寝かせて欲しいと思わないか?」 ようやっと気分が落ち着いて安堵した頃、突然頭上から聞こえた声にブラドは反射的に頭を上げた。仰ぎ見るとブラドを抱いていた手を緩めながら、バーンは既に半身を起き上がらせていた。腐りかけた木枠の窓から先、さらに遠くをじっと凝視しているように見える視線をゆっくりとブラドの方に戻してやれやれといった体で苦笑する。 「実際、あんたの仲間達はマメだよ」 そしてソファから立ち上がると投げ捨てられていたジャケットを拾い上げて肩に担いだ。 「ちょっと出掛けてくる。あんたはゆっくり眠っててくれよ。まだ朝まで間があるからな」 ブラドを安心させるかのように穏やかにバーンが声をかける。にっこりと微笑んで、それでも何か言いた気な彼に言葉を発する隙を与えずに部屋を出ていった。暗闇に響く足音の方向をブラドは黙って見つめていた。暖かな闇だと思った。 狭く汚い路地裏にぽっかりと空間が広がっている。地面は瓦礫の山で足の踏み場もないほどだったが。そんな場所に3人の男の影があった。眼前の小さな建物を見据えている。男達は視線だけでうなずくとその建物に静かに近づいた。その内の一人が小さく呟く。 「この建物ごと吹き飛ばすか」 「―これでも他に人が住んでるんだからそんな物騒な事されると困るんだけどな」 いきなり背後から声をかけられて男達は顔色を変えて振り向いた。深夜とはいえ異様なほど明るい月明かりの中で、すぐ側に立っている男の姿を認めて絞り出すような声をあげる。 「…バーン・グリフィス…」 バーンは真っ直ぐ彼らを見据え何も言わずにただ立っていた。次の言葉を待っているようにも見える。しばしの沈黙の後、中央の男がバーンに告げた。 「バーン・グリフィス。キース様の命だ。ノアに戻るなら手出しはしない、だがそれ以外なら…」 「その台詞はもう何度も聞いた」 男の言葉を遮ってそう言うと、バーンは小さくため息をついた。 「俺の答えはひとつだけだ。キースには協力出来ない」 「なら俺達が死ぬかお前が死ぬかのどちらかだな」 中央の男を残して他の二人が左右に散開して身構える。それを眼で追いながらバーンは苛立たし気に言葉を吐いた。 「だからどうしてそうなるんだ」 語句が微かに荒い。 「俺を殺さないと逆にあんたらが死んじまう羽目になったとしてもだ。逃げりゃいいじゃないか。殺されるのが分かってて何も戻る必要なんかないだろ!?」 「逃げる?」 その言葉を聞いて男達が一斉に嘲笑した。バーンは訝し気に眉をひそめる。異様な笑い声がしばらくその場に響き、バーンと相対する位置に居た中央の男が皮肉な笑みを漏らした。 「どこに逃げるんだ? この世界の何処にそんな場所があるんだ?」 その言葉にすっと眼を細め、バーンはしばし俯いた。両の拳を握り締めて何かに祈るかのようにゆっくりと眼を閉じて―。 「分かった」 そうしてその眼を開いた。 目眩がした。 この世界から切り取られたような正方形の空間。異形の世界。その中で起きている事をブラドはまるで夢の中の出来事であるかのようにただ見ていた。目の前に燃えさかる紅蓮の炎。許しを乞う声を発する─いや、苦しむ暇さえ無かっただろうと思われる人間の焼け落ちる様。圧倒的な力でその場を制圧する男。迷わないその瞳。 音もなく、肉の焦げる匂いが漂うでもなく、劫火の熱すら感じない。現実感の微塵も感じられない光景にブラドは無声映画を観ているような錯覚すら覚えた。 ─出来れば誰も傷つけずにいられたらいいと思ってる─ はにかみながらそう言った彼と、今現在目の前の異なる空間を支配している男とを上手く重ねる事が出来ない。 「…ディアブロか…」 困惑した頭でブラドはうわ言のように呟いた。今の彼は正に悪魔と呼ぶに相応しい。凄まじく破壊的な力。その力を支配する者は自分の起こした全ての事を沈黙してその青い瞳に映していた。惨く、おぞましい悪夢のような光景の全てを。 ―…イ…タイ……喰…タ…イ……喰イタイ…!!― 突如ブラドの身体の奥で強烈な声がした。それと同時に先ほど夢の中で感じた感覚が瞬時にその身体を支配する。身を貪るような強烈な飢餓感。人間の本能に直結するかのように割り込んでくる凶悪なまでの渇き。あまりの苦しさにブラドは身体を前に折り曲げて耐えようとした。眼の前が真っ赤に染まる感覚にまた襲われる。炎の赤ではない。吹き出す血液の紅だ。 ─ヤツか─!? 苦しい息の下、ブラドは必死で考えた。自分の身体を抱きかかえるように地面にうずくまる。冷たい汗が吹き出しているのがはっきりと感じられた。 こんな事は初めてだった。自分の内に潜んでいるもう一人の自分、血に飢えた男─、ヤツは自分が気づかない内に現れてそして飽きればまた内で眠りにつくのが常だ。気がつくとしてもこんなに性急に自分の意識に割り込んできた事はなかったはずだ。今までは。 ─喰いたい…。あの腹を生きたまま裂いてやったらどんな声を上げるだろう?…許しを乞うのか、それとも喚きちらすのか?─ ─やめろ─ ブラドが出来得る限りの抵抗を試みる。しかし声が止む気配はまったくなかった。眼の前の地面が紅く霞んで見える。地面に頭を擦りつけるようにブラドは倒れ伏した。苦しい。苦しい。苦シイ…! ─どんな断末魔を聞かせてくれるのだろう。きっとひどく甘美に違いない─ ─やめてくれ─ ─ヤツの腹の内はどんなにか暖かいだろうか、吹き出す血はどれほど甘い事だろう。…喰いたい…、その腸を引きずり出し心臓を破ってその血を浴びたい…!─ ─もう頼むからやめてくれ!!─ 月明りの中に浮かび上がる瓦礫の山の中にバーンはただ佇んでいた。眼を伏せて小さなため息をつく。先刻までの燃え上がる劫火は何処にも見えない。対峙していた男達もその痕跡すら残さずにこの世界から存在を消していた。骨の一片も留める事はなかった。 「楽しかったか?」 不意に頭上から降ってきた声に、バーンはその頭を上げて声の方を見上げた。眼の前に男が居た。立っているのではない、空中の見えない椅子に軽く腰掛けるように浮かんでいるのだ。男の背後に大きな月が見えていた。冷たい月明りに晒されて白に限りなく近いプラチナブロンドの髪が月の中に溶けているように見える。毒々しい赤い瞳。ゆったりと笑う口元。バーンは何の感慨もその顔に浮かべずに独り言のように呟いた。 「そうか…、あんたも『ブラド』だったな」 ブラドはバーンに微笑みを返す。ひどく魅惑的な笑みに見えた。 「お前がやけに楽しそうだったからな。見物に来たんだ」 そう言ってブラドは滑るようにバーンの目前にやってきた。身を乗り出すようにバーンに顔を近づけると無遠慮にその青い瞳を覗き込む。そのまま真っ直ぐ見返してくるバーンの瞳に笑いかけるとうっとりとした口調で言葉を紡いだ。 「お前の腹を生きたまま裂いてやったらどんな声を上げるだろう?…許しを乞うのか、それとも喚きちらすのか?どうだったとしてもきっとひどく甘美に違いない…」 ブラドはゆっくりと言葉を続ける。 「お前の腹の内はどんなにか暖かいだろうか、吹き出す血はどれほど甘い事だろう…喰いたい…お前を喰ってみたい…」 ─まるで愛の告白でも聞いているみたいだ─ 場違いだと思いつつも、バーンはブラドの言葉を聞きながらぼんやりとそんな事を考えていた。狂気を湛えた冷たい真紅の瞳はひどく凶々しいものだったが、それでもバーンには奇麗に思えて思わず内心苦笑する。 「本当は今すぐお前を引き裂いてゆっくり味わいたい所なんだがな。俺はこれでも礼儀をわきまえているんだ。今日はこれで我慢してやるよ」 ブラドがバーンの頤に手を掛ける。何時の間にか鋭い爪で彩られたそれがバーンの顔を上向かせた。殊更ゆっくりと近づいて来るブラドの瞳を見返しながら、バーンは無感動にそのくちづけを迎え入れた。眼を閉じる事もなかった。ブラドも眼を開いたままだ。唇が重なる一瞬に互いの視線が交錯する。ブラドの唇を冷たいと思った瞬間に、バーンは鋭い痛みを感じた。仰ぎ見るとブラドが舌なめずりをしている姿が見える。極上のワインでも味わうかのようなその仕草にバーンはくちづけの一瞬に唇を噛み切られたのだと悟った。ブラドが嬉しそうに笑う。 「思った通りだ。お前の血は甘い」 そうしてバーンの耳元に自分の顔を近寄せるとブラドはそっと囁いた。 「忘れるな。お前は俺の獲物だ。次に会う時まで傷ひとつ付けるな」 そう告げるとブラドはにやりと笑う。悪魔的な笑み。その笑みを浮かべたまま月明りに溶けるようにブラドの身体が消えていく。その様をバーンは黙って見つめていた。 辺りに何時もと変わらない静寂が戻ってもバーンはそのまま微動だにしなかった。何処かで瓦礫のひとつが崩れる音がする。それを合図にバーンがほっと息をついた。 「…俺が獲物ねえ…参ったな」 苦笑しながら頭をかいているバーンはそれでも何処か嬉しそうだった。彼は自分のこういう感情を忌み嫌っていた。あさましくて残酷で、だからこそ魅惑的に甘美な衝動。それでも今だけはそれに身を任せていたい気分だった。自分には決して許せない事ではあったのだが。 「獲物か…」 もう一度ブラドの宣言した言葉を繰り返して、バーンは唇の血を拳で拭って微かに笑みを漏らした。 「そりゃ楽しみだ」 了 1999.5.5
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