迷わないその瞳 けれど─
その奥に在る 葛藤や 絶望や 孤独や ─迷いを 一体誰が知るというのだろう? 【 Pray 】 Another story for PSYCHIC FORCE Act.2
─ A.D2010 A月11日 09:08 ─
長い間風を感じていなかった気がする。両脇をすり抜け、身体全体を抱きしめてくれる感覚。一緒に運ばれてくる草の匂いやこぼれる光の粒。思うがままに意識を広げられる事の開放感。本当に長い間味わっていなかった気がする。そんな事が出来る事すら忘れるほど。ノアの建物の中では本当の風など吹かないのだから。 自分の傍らに寄り添うように立っている少年が一際強い風が舞う中で小さく身を竦ませた。 「エミリオ、寒い? 大丈夫?」 心配になって声をかける。自分を見上げてくる少年─エミリオが少し青い顔をして、それでも大丈夫とうなずいて微笑んだ。天使の羽を持つ少年。それはとても奇麗だけれど何故だかとても悲しい色に見える。 ふと、もう傍らに居るはずの人の姿が見当たらない事に気づいた。気づいた途端に急に不安になる。何処? 何処なの? 急速に世界がしぼんでいくような感覚。どうしてこんなに心細くなるのか分からない。何だか涙が出そうになる自分が恥ずかしくて。 慌てて振り返ると彼の姿が目に入った。こちらに背を向けてじっと立ちつくしている。その大きな広い背中を見るだけで先ほどまでの不安感が雪のように融けて消えていく。 「あいつったらあんな所で何してるのよ」 存在を確認してほっとすると共に、今度はそんな彼の姿に少し腹をたてている自分に気がついた。姿が見えないくらいでうろたえてしまった事が恥ずかしくて八つ当たりしているのだと理性では分かっていたが、この際それは無視する事にした。文句のひとつも言おうと思って彼の背中に向かって駆けていく。 その横顔が覗ける位まで近づいて、でも開きかけた口をつぐんでしまった。彼は眼を閉じていた。左の拳を唇に当てて俯いたまま微動だにしない。一心に祈りを捧げているかのように静かで、荘厳にすら見えて近づいてはいけない気がした。何だか知らない人のように思えて悲しくなる。 「…バーン?」 それでもかろうじて彼の名を呼びかける事が出来た。自分でも嫌になるくらいか細い声になってしまったけれど。彼は夢から覚めたように眼を開くと、顔を上げてこちらに視線を移しすまなそうに笑った。 「悪い、ウェンディ。ちょっとぼんやりしちまったな」 「もう、しっかりしてよ。ボケるには早すぎるわよ」 バーンは苦笑してもう一度すまないと謝った。それですっかり気分が良くなる。彼に名前を呼ばれるのは気持ちがいい。自分を真っ直ぐに見つめてくる青い瞳がとても好きだった。そして何度も気づくのだ。自分はこの瞳を信じているのだと。 「それじゃ、行くか」 「─ええ」 彼の言葉に側に居るエミリオの手を取りうなずく。バーンは前方を見据えていた。その迷わない瞳で。 ─ A.D2010 X月6日 01:37 ─
「つまらねえな─」 ブラドがぼそりと呟いた。ベッドにだるい身体を投げ出しながら、おっくうそうに両手を眼の前にかざす。 「『つまらない』なんて情事の後にはあまり聞きたくない台詞ですね」 両手の間からベッドに半身を起こした傍らに居る男の少なからず傷ついた表情が垣間見えた。大袈裟にため息をついてみせている。 「別にてめえの事じゃねえよ、ウォン」 ブラドがニヤリと笑って応えた。ウォンが静かに微笑して、かざされたブラドの手をゆっくりと下ろさせると彼の顔を間近で覗き込む。 「そんなにバーン・グリフィスの事が気に入りましたか?」 「何だ。妬いてんのか?」 ブラドがにやにや笑ったまま答えると、ウォンは何も云わずにただゆったりと声をたてずに笑った。穏やかな、けれども恐ろしく冷たい笑み。ブラドはこの男の底知れぬ笑みがゾクゾクするほど気に入っていた。 「あの坊やに追手を殺させるように仕向けてるのはお前だろ?」 ウォンの肩口から自分の胸元へと滝のように落ちている長い漆黒の髪をすくいながらブラドが先に二の句を継いだ。ウォンの笑みがまた一段と深くなる。 「坊やが見逃した奴等を見せしめに皆殺しにしたか、ひょっとしたら首のひとつも切り取ってプレゼントしてやったんじゃないか? そこまで追いつめないと自分から人殺しなんざするようなガキじゃないだろ」 ウォンは酷薄な笑みを湛えたまま答えない。 「可哀想に。すっかりしょげてたぞ」 心にもない台詞を吐いてブラドは自分を見下ろしている男の反応を伺う。ウォンはしばし微笑したまま答えず、それからおもむろに口を開いた。 「彼は見かけによらず意外と利口なんですよ。頭の回転も早いし察しもいい。あまりうろちょろ嗅ぎ回られると目障りを過ぎて禍根になりますからね。雑草は根を張らない内に摘んでしまうのが一番なんですよ。そうでしょう? 花好きのブラドくん?」 からかうようなウォンの口調にブラドは露骨に嫌そうな表情をした。別にウォンの話す内容が不快だった訳ではない。*ヤツ*と同一視された事が気に障ったのだ。その様子を見てウォンがおかしそうにクスクスと笑う。 「それで中身から潰そうってか?」 さっさと次に進もうとブラドが尋ねる。ウォンは笑いながらもその言葉に応えた。 「バーン・グリフィスは強大な能力者です。恐らくキース様と同等の能力を持っているでしょう。いや、もしかしたらそれすら越えるかもしれませんね」 「キース様」という言葉に一際冷酷で嘲るような印象を感じたがブラドはそれを意図的に無視した。この男の考えている事など自分には関係ない。 「しかし如何せん、彼はあまりに普通の人間でありすぎる。優しすぎるんでしょうねえ。自分の命を守るためにさえ他人をその手にかける事を躊躇するくらい、自分のために他人の命が奪われた事実に対して罪悪感に苛まれるくらいにはね」 ウォンは笑っていた。本当におかしそうに。この男のこういうイカれている所が好きだ。ブラドはウォンの表情を眺めながらそう思った。身体の芯がゾクゾクする。 「このままいけば狂うぞ、あの坊やは。強大な能力とやらが必要なんじゃないのか?」 「別にそうなっても構いませんよ。貴方の様に殺人を好むようになって貰った方がまだ今よりは御しやすいでしょうから。良心の呵責に耐えかねてノアに下るも良し、精神を崩壊させて自滅するも良しで彼がどうなろうとこちらが損をする事はありません」 「お前が送る追手はそのための餌って訳だ」 ブラドの言葉にウォンはただ微笑する事で応えた。この男は自分以外の人間の事など始めから眼中に入ってないのだ。ブラドは改めてそう思う。もちろん自分やキースを含めて。 「ただ計算外なのは彼が予想以上にタフだという事です。存外にしぶとい。今はあまり彼に構っている暇はないんですが」 何時ものつかみ所のない笑みを消してウォンが珍しく顔を曇らせた。その様子に内心ブラドはいい気味だとほくそ笑む。 「だったら坊やと一緒に逃げたガキ共を殺しちゃどうだ? 多分一発で壊れると思うがな」 「それでは困るんですよ。あの子達の能力が惜しいせいもありますがバーン・グリフィスにこちらに復讐心を向けたまま狂われてはやっかいな事この上ないですからね」 ブラドの問いにウォンはやれやれといった表情でそう云って、それからにっこりと笑った。 「あくまで彼自身が『自分で』壊れてもらわないと。彼の能力さえ利用出来れば人格など必要ありません」 ─この男のイカレ具合も相当なものだな─ 自分が云うのもどうかと思うが、思わず感心してしまうほど人間味がない男だ。ブラドは半分あきれながらも胸が躍る気分だった。こういうヤツも悪くはない。 「バーン・グリフィスを殺してみたいですか?」 今度はウォンの方がブラドに尋ねる。胸元をゆっくりと這い回るウォンの冷たい長い指の感触に微かに身を竦ませながら、ブラドはゆったりと笑った。 あの男に出会ってから面白い事が少なくなった。人の身体を引き裂いても、その身体中から吹き出す鮮血を見てもさっぱり面白くない。今の自分が見たいのはひとつだけだ。あの男の血。脈々と波打つ心臓。それをこの手で引きずり出してやりたい。あの時思うが侭に貪ってやれば良かったと後悔する時がある。だが極上の獲物を最高に楽しむにはそれなりの頃合いがあるというものだ。今はあの燃えるような青い瞳が苦痛に歪む様を考えるだけで我慢しよう。それだけでも身体の芯が熱くなるほどワクワクする。それにあの男は─。 「俺はお前も殺したいぜ」 気分良くウォンの愛撫を受けながらブラドは笑って答えた。 「ついでにキースの野郎もぶっ殺してやりてえな。でもお前らは使えるからな、今の所は我慢してやっているんだ」 おやおやとため息をつきながら、ウォンは笑みを漏らしつつも器用に顔をしかめてみせた。「あの坊やは狂っちまう前に引き裂いてやりたい。完全に狂っちまったらせっかくの獲物が台無しだ」 「そんなものですか?」 「ああそうだ」 そしてブラドは含み笑いを漏らして媚びるようにウォンを見上げた。 「いい事教えてやろうか? ヤツも坊やの事を気に入ってるぜ」 そう云って自分の胸を指差す。自分の中に居るもう一人の自分。ひ弱な情けない本体。ウォンの眼がすっと細められた。その瞳が一際冷酷に光る。 「面白そうな話ですね。もう少し詳しく聞かせて貰えますか?」 「ああいいぜ、いくらでも聞かせてやるよ。何ならもっとイイ事もな」 云いながらブラドはウォンの長い髪を手繰る事でその身体を引き寄せた。されるがままのウォンの背に腕を回し、その顔を間近に覗き込みながら魅惑的な笑みを浮かべる。 「お前が俺を満足させてくれたらな」 ─ A.D2010 X月6日 11:26 ─
いい天気だった。地下にあるノア本部の建物の中にも太陽の光が届く所が少数ながらも存在した。巧妙に隠されてはいたが大きく取られた明かり取りの天窓から外の光が差し込んでいる。そんな場所のひとつであるテラスの椅子に座って、妙にだるい身体をほぐすように大きく伸びをしながらブラドはぼんやりとその光を眺めていた。この所比較的落ち着いた穏やかな日々を送る事が出来ていた。以前のような妙な喪失感が少しだけなくなった気がする。どうもあの男と再会した辺りからのようだ。理由は自分にも分からない。 「ここにいましたか、ブラド。キース様がお呼びですよ」 急に声をかけられてブラドは驚いて振り向いた。何時の間にか背後に立っていたソニアが良く通った、しかし少し無機質な声で用件を伝える。 「僕に?」 訝し気に眉をひそめてブラドが問い返すとソニアは大きく肯いた。奇麗な女性なのに幼い子供のようなその仕草のアンバランスさが妙に印象的だ。普段ほとんど感じる事はないが、こんなちょっとした行為の端々に彼女が人の手で造られて間もない「バイオロイド」だという事を再認識する。とかく戦闘という場面では役立たずの自分に何の用があるのかは分からないがとにかく呼ばれたのなら行かなければならない。ブラドは眩い感覚が残る眼を擦りながら立ち上がった。 「ブラド、貴方最近変わりましたね」 道案内をするようにブラドの少し前を歩くソニアがそんな言葉をかけてきた。ブラドは別段身に覚えがないので尋ね返す。 「そうかい?」 「ええ、違います」 「どの辺が?」 「以前から貴方は穏やかな方でしたけど、何処か人を寄せ付けない所がありました。今はそんな所が少なくなった気がします。それに─」 そこでソニアは一旦言葉を切って小首をかしげる。上手い表現の言葉が見つからないらしい。幼女のような表情で歩みが遅くなるくらい懸命に考え込んで、それからポンと手を打ってにっこりと微笑んだ。 「それにたくましくなりました」 「たくましく…ねえ」 かなり意外な表現にブラドは思わず苦笑した。 「はい」 ソニアはにこにこと上機嫌で答える。自分では本当に自覚はないのだが悪い方に変わった訳では無いようなので、まあこのままでいいのだろうと聞き流す事にした。確かに少しアバウトな性格にはなったかもしれない。あの男から移ったのだろうか? そんな考えに思い当たってブラドはもう一度苦笑した。 ─ A.D2010 X月6日 11:40 ─
その部屋はこの建物の中でも最下層に位置している。昼なお暗い空間に巨大な組織を支える人物が居た。まだ年若いがその能力とカリスマ性とで皆を導く指導者。彼に会う機会は他の人間に比べて多い方だとは思うがそれでもやはり緊張する。 「キース様。ブラドを連れて参りました」 ソニアの声に応じるように冷たく閉ざされていた金属の扉が開いた。扉の大きさから想像するよりはかなり広いが、しかし暗く冷たい殺風景な部屋が眼の前に現れる。その最奥にあるデスクに肘を付いてノアの総帥、キースが座っていた。傍らには一人の長身の男が立っている。その男の姿を認めてついブラドは顔をしかめてしまった。ウォンだ。この男は苦手だった。出来れば顔を合わせたくない人物の筆頭だ。ソニアはキースが居るデスクの前までブラドを誘うと、軽く会釈して部屋を後にした。同時にキースがウォンの方に目配せすると、それを合図にウォンもキースに向かって優雅に礼をして部屋を出て行く。出ていく前にウォンはブラドの方に視線を向けて穏やかに笑ってみせた。さっきのしかめ面を感づかれただろうかとブラドは少し狼狽する。ウォンの笑みは本当に穏やかだった。けれども恐ろしく冷たく思えてしょうがない。ブラドはこの男の底知れぬ笑みがどうしても好きになれなかった。 広い部屋に二人で残されてブラドの緊張がいや増した。キースの瞳は本当に凍りついたように彼自身の感情を映さない。あの男とは対照的だと改めて感じる。しかし─。 「君に頼みがある」 キースは唐突に切り出してきた。あまりに急だったのでブラドは一瞬言葉の意味を掴みかねた。驚いて、しかし疑わし気に問い返す。 「僕に、ですか?」 ブラドは「僕に」という言葉に皮肉な色がこもるのを隠す事は出来なかった。ノアという組織に必要とされているのは自分ではなくてもう一人の方だと彼にも分かっていた。自分を救って貰うためには多少の犠牲を払わなくてはならないと諦めているのかもしれない。ヤツをただ暴れさせておくよりはノアに身を置いて抑えて貰っている方が他の人々の犠牲が少ないだろうと。吐き気がするほど自分に都合の良い解釈。それでもブラドは他にどうしたらいいのか分からずにここまで時を過ごしている。 「そう、『君に』頼みがあるのだ、ブラド」 キースがデスクの上で指を組みながらもう一度繰り返した。相変わらずの冷たいアイスブルーの瞳で。だがブラドはふと、その瞳に何かの感情が揺れているような気がした。 ─ A.D2010 X月6日 19:52 ─
呼び鈴が鳴る。普段使われていないので少し錆付いたような間抜けな音色を響かせて。だがその音を聞いた全員が一瞬に緊張して身構えた。この家で呼び鈴など鳴るはずがない事を良く承知していたからだ。 「ああ、いいよ。俺が出る」 こわばった面持ちで扉に向かおうとしたウェンディをバーンが制してのんびりと立ち上がった。心配そうな顔で自分を見つめる二対の視線に普段と変わらない調子で笑いかけながら、それでも慎重に扉に向かってそれを開ける。そして─。目の前に立つ人物の顔を見届けるとバーンは目を丸くしてしばし硬直し、それからその姿にニッと笑いかけた。 「やあ、久し振りだな。ブラド」 ─ A.D2010 X月6日 19:56 ─
「遊びに来た…って訳じゃなさそうだな」 バーンの皮肉めいた言葉にブラドはただ微笑んで返した。「ブラド」という単語を聞いてウェンディとエミリオがバーンの背後に駆け寄ってくる。 「どうしてあなたがこんな所にいるの!?」 ウェンディが半分パニックになったように叫ぶのをブラドの事を気にかけてかバーンが抑えた。当のブラド自身は全然気にしていないようにバーンに眼を向けている。 「何の用だ?」 バーンの問いにブラドは微笑んだまま静かに答えた。 「キース様からの伝言があるんだ」 「キースの?」 訝し気に問い返すバーンにブラドはもう一度笑って、それからふと表情を引き締める。 「キース様の言葉を伝えるよ。それを聞いてどうするかは君達次第だ」 そう云ってブラドは一旦言葉を切ってバーンの反応を窺った。無言で先を促す彼にブラドは改めて言葉を続ける。 「今ノアは君達に手間を裂いている余裕はないそうだ。だから一時休戦協定を結びたい。そのための条件が僕をここにおく事だ」 「ちょっ…。それってどーいう事よ!?」 「僕は君達の見張り役って事だよ」 ウェンディのヒステリーめいた問いとは対照的にブラドはごく穏やかに答えた。あまりにあっさりとした返答にウェンディは却って言葉に詰まって黙ってしまう。 「僕がここに無事でいる間、ノアは君達に一切手出しはしない。これは約束する。だが僕の身に何か危害が及んだ場合、それとこの申し出を断った時は─。ノアは全勢力をあげて直ちに君達を抹殺する」 平然とそう言いきるブラドを見るバーンの眼は…。キースと同じものだった。この間も見せたあの表情を映さない凍った瞳。ブラドの心に微かに動揺が走った。それがバーンの身を案じるものである事に気づいて、そんな自分にブラドは驚いてしまう。 「…期間は?」 しばしの沈黙の後、微かに眼を細めてバーンがゆっくりと問う。 「分からない。三日か一週間か、それともそれ以上か」 「だってブラド、あなたキースの側に居なくて今のままでどれくらい持つのよ!?」 怒りながらウェンディが金切り声を上げるのにブラドは苦笑した。彼女の心配はもっともだと思ったからだ。 「それも分からない。何時まで『僕』のままでいられるかは自分にも分からないんだ」 「それで、その休戦協定とやらの満了が来たらどうなるんだ?」 再度のバーンの問いに、ブラドは申し訳なさそうに答えた。 「その後の事は何も知らされていない」 「それって、その期間が終わったらまた今まで同様追われるって事?」 ブラドの答えにウェンディがバーンの代わりに言葉を継いだ。泣きだしそうな眼をしていた。ブラドは彼女の不安が手に取るように分かる気がして胸が痛む。それでも自分には答えられない問いかけだった。 「そうなるかもしれないしそうならないかもしれない…としか答えられないな」 「そんな…! 冗談じゃないわ! こんないい加減な話を信じてあなたっていう爆弾抱えて暮らせっていうの!?」 ブラドに噛み付かんばかりに詰め寄るウェンディを片手で制してバーンは気難しい表情をして考え込んでいた。ブラドの言葉の意味をゆっくりと咀嚼してその表情を崩さずにもう一度ブラドに問う。 「つまり─。あんたがここに居る間はこっちの身の安全は保証されるって訳だ」 「そう取ってもらえるとありがたいね」 「そんな事信じられる訳ないでしょ!」 ブラドの返事に再度声を荒げるウェンディを制したままバーンは俯いてもう一度思案し、それから急にぱっと表情を明るくしてブラドに笑いかけた。 「分かった。その話にのる事にするよ」 「バーン! 正気なの!?」 驚いて叫ぶウェンディをまあまあとなだめるバーンの態度にブラドの方が驚いていた。彼があっさりとこんな無茶な話を承諾するとは思わなかったからだ。期間も分からない、自分という殺人鬼の人格を持つ人間を側におく、その上本当に守られるかどうかさえ分からないかりそめの約束である事は彼自身良く分かっている事だろうに。 「だってバーン─!」 「大丈夫だって。心配するな」 懸命に不安を訴えるウェンディの頭をバーンがぽんぽんと軽く叩いて笑ってみせた。そんな彼の瞳を見上げてウェンディが拗ねるような表情で自分の頭の上にあるバーンの手を掴む。そしてむっとした顔で、それでも渋々とうなずいてみせた。その光景はとても微笑ましくて思わずブラドの表情も我知らず緩んでしまう。 「そうと決まったら部屋に案内しなくちゃな」 そう言いながらブラドに視線を移した時には、バーンは既にいつもの彼に戻っていた。それを認めてブラドは内心ほっとした。瞳に何も映さない彼を見るのは心苦しかった。とても危うい気がして胸が痛むし、そう感じる自分にも戸惑ってしまって落ち着かない。 バーンはブラドの足元に置いてある小さな鞄を持ち上げると空いている手でブラドの腕を掴んで有無を言わさず家屋の中へと促した。自分を見つめるウェンディとエミリオの不安と警戒の入り交じった視線を感じながらブラドはおとなしく引きずられるままに歩く。この男の相変わらずの強引さにはさすがに慣れてしまった。どうせ不満を訴えても聞く耳は持たないだろうし、別に不快に思うほどの事でもなかったし。 ─ A.D2010 X月6日 20:20 ─
「別にキース相手に戦争してるつもりはないんだけどな」 バーンがぼやきながら階段を上っていく。先ほどの「休戦協定」という言葉が引っ掛かっているらしい。確かに実状にそぐわない言葉ではあるとブラドにも思われたが、だからといって他にいい言葉が思い付かないのも本当だろう。大体あいつは昔から─と、ぶつぶつと何事か文句を言いながら歩くバーンに引きずられて階段を上りきると、真中に意外に広い廊下を挟んで左右に三つづつ部屋が並んでいる場所に出た。その内の左側、手前の階段に一番近い側の部屋の扉を開けてすたすたとバーンが入っていく。 「結構いい家だろ。広いし部屋数も多いしな」 ようやっと手を離して自慢気にバーンがブラドに笑って言った。自慢するだけあって確かに清潔でこざっぱりとした部屋だ。先ほど通ってきたリビングもなかなかに広かった。 「ここはどうしたんだい?」 「買った」 あっさりと言ってのけるバーンにブラドは疑わし気に目を向ける。この男の突飛な言葉には慣れてきたが、さすがに一度で信じる気にはなれない。 「買ったって…。そんな金、誰が持ってたんだ?」 「その辺はまあ、色々とな」 妙に楽しそうに言葉を濁すバーンをブラドは無言で疑いの眼差しのまま見つめる。 「本当だぜ。安かったんだ。何せいわく付きだからな」 不審な態度を露わにしているブラドに向かってバーンはにやにやと笑って話を続けた。 「この家で一家心中があったそうだ。事業に失敗して借金で首が回らなくなったらしい。思い余ったこの家の主人が斧振り回して家族を殺害。自分は裏で首吊って自殺。良くある話だけどな。で、その自分の奥さんやらまだ小さい子供やらを殺したのがこの部屋─」 バーンの話にブラドは思わず後ずさってしまった。そんなブラドの様子にバーンは悪戯っぽく笑いかける。 「…っていうのはもちろん冗談だ」 「………。」 自分をからかっているのだろうとは思っていたが、淡々とした語りについ引き込まれてしまった自分が情けない。照れくささも混じってさすがに怒りの表情でブラドはバーンを見上げる。しかし当のバーンは意に介した様子も無かった。にこにことブラドを眺めている。 「でもこの話事体は本当だぜ。だからべらぼうに安かったし不動産屋もさっさと片づけたかったようだから身元証明もいいかげん。おまけに幽霊が出るって噂のおかげで誰も近付かないときてる。これほど俺達にピッタリの所はそうそう見つからないだろ?」 この話はあの二人にはしてないんだから内緒だぞ、と笑いながら念を押すバーンにブラドはすっかりあきれていた。知っていてよくまあこんな家に住めるものだ。 「ちなみにその一家心中の現場となったって所は今の俺の部屋だよ」 平然とそんな事を言うバーンにブラドはもう一度あきれ返った。 「そんな事があった部屋で暮らしていてよく平気だね」 「どうして?」 ブラドのしごく当然の疑問にバーンは怪訝そうに問い返す。そんな風に返されるとは思わなかったのでブラドはすぐには二の句を継げなかった。この男は本当に自分の理解を超えたリアクションを取る。 「どうしてって…。普通は何となく気味悪かったりするじゃないか」 「幽霊の噂の事か? そんなモノより俺は生きてる人間の方がずっと恐いよ」 バーンはそんな事かと言わんばかりにあっさりと答えた。あまりにあっさりとしすぎていたのでブラドはそのまま次の言葉を返せない。何だか彼の言う事が正しい気さえしてくる。ブラドは密かにため息をついた。この男だったらたとえ本当に幽霊やら何やらが出たとしても何とかするに違いない。いや、目の前に居たとしても気がつきさえしないのではないだろうか? 「─で。条件はあんたがここに居る事だけか?」 上の空だったブラドをバーンの言葉が現実に引き戻した。弾かれるようにブラドが頭を上げると彼は何時ものように微笑んでいた。それでもその眼は決して笑っていない。こちらの居心地が悪くなるほど真っ直ぐに自分を見つめてくる。ブラドはひとつ息をつくと、その視線から眼を逸らさずにバーンに言葉を告げた。 「もうひとつある。僕がここにいる間は君もここを離れないでいて欲しい。そうしないとウェンディとエミリオの身の安全は保証出来ない」 「辺りをうろちょろかぎ回るなって事だな」 ブラドの返答は既に予想していたのだろう、バーンはやっぱりとうなずいた。 「承知するのかい?」 「するしかないんだろ?」 少し驚いたような口調のブラドの問いにバーンが微笑んだまま答える。今度は眼も笑って。笑って聞いていられる話ではない気がするが、それは多分自分を気遣っているための所為であるのだろうとブラドには思えた。 「何をやらかすつもりなんだろうな、キースは」 「君は既に知っているんじゃないのか?」 独り言のように呟くバーンに少し皮肉を含ませてブラドが言葉を継いだ。自分が知らないサイキッカー集団組織としてのノアの動きを彼は掴んでいるような気がした。それも驚くほど正確に。バーンはそんなブラドの言葉に先ほど見せた悪戯っぽい笑顔を浮かべる。 「ナイショ」 そうしてあきれながらも諦めたように笑うブラドに向かって右手を差し出した。 「ま、一緒に暮らすんだから家族みたいなモンだ。仲良くやっていこうぜ」 何となく気圧されておずおずと差し出されたブラドの手を握ってバーンは力任せに─本人にそんな気はないのかもしれないがブラドにはそう思えた─ぶんぶんと振る。腕が痛いと思いつつも親愛の情らしかったのでブラドは黙って耐える事にした。 「こう人数が集まるとそれなりに家族ごっこが出来そうだな」 ふいにそんな事を口にするバーンにブラドが怪訝そうな視線を向ける。バーンは腕組みをして何やら考え込んでいる様子だ。しばしそのまま考え込んで、ようやっと真面目な表情を上げた。 「うーんと、俺が父親であんたが母親って事でどうだ?」 「……はい?」 バーンの考えた末での言葉を聞いたブラドの返事は非常に間抜けだった。何だか今自分に対して聞き慣れない呼称を聞いた気がする。きっと空耳だろう。空耳に違いない。空耳だと思いたい…! 「だから、俺が『おとうさん』であんたが『おかあさん』。エミリオが息子ってトコか」 にこにこと楽しそうな彼をまじまじと見つめて─。ブラドはがっくりとうなだれた。何というかもう、頭が痛い。 「…世間一般では『おかあさん』の性別は女性と認識されていると思っていたんだが…」 「でもなー、あんた華奢だし可愛いし、似合ってると思うけどなあ」 「…可愛い…」 可愛いなどと言われて喜ぶとでも思っているのだろうか? ブラドはズキズキと痛む頭を抱えて呻いた。バーンはごく普通の態度でふざけている様には見えない辺りが頭痛に拍車をかけている。この男は何処までが冗談で何処までが本気なのか本当に分からない。キース様もきっと苦労したのだろうと、まだ今のように反目しあう前の友人同士だった二人の間柄が偲ばれてブラドは嘆息した。 「女の子ならちゃんと一人いるじゃないか」 内心無駄だと思いつつもブラドは諦めきれずに抵抗してみる。するとバーンは困ったような表情を浮かべた。 「うーん、確かにそうなんだけどな。何ていうかその、ウェンディの場合はどうも『小姑』っていう気が─」 「だあーれが小姑ですってえ─!?」 唸りながら答えたバーンの言葉じりをひったくって可愛らしい声が重低音で部屋中に響く。バーンはそのまま扉の方に視線を移して口をつぐみ、ブラドは恐る恐る振り返った。開け放たれた部屋の扉にはウェンディが仁王立ちに立っていた。その後ろから彼女の背中に隠れてこちらを覗き込んでいるエミリオの姿が見えている。 「どーせ私は小姑ですよっ! 怒りんぼでうるさい女ですよーだ!」 「いや、これは言葉のあやっていうモンで決して悪気があって言った訳じゃ─」 「知らないっ! もうバーンのご飯なんて作ってあげないっ!!」 「ああ、それは困る。ウェンディさん!」 ウェンディがぷんぷんとふくれながら踵を返すの見て、ほーらな、とバーンがブラドに目配せして苦笑してみせた。そして彼女の後を慌てて追いかける。悪気はなくてもそりゃ怒るだろう─と、二人のやり取りを眺めていたブラドは素直な感想を持った。 その時、ブラドは射るような視線を感じた。慌てて視線の場所を探るとエミリオがブラドの方をじっと見つめているのに気がついた。ぞっとするほど冷たい視線。ブラドは冷水を浴びせ掛けられたような気さえする。だが─。 エミリオの横を通りざまバーンが軽く彼の背中を叩く。たったそれだけの事で、びくりと顔を上げて彼の顔を見上げたエミリオの顔は見る間に笑顔になった。先ほどの鋭い視線が嘘のように、年相応の無邪気な子供らしさに彩られたものに変化している。その様子にブラドは軽い感動すら覚えた。エミリオはそのままバーンの手に促されてその背にすがるように彼と一緒に部屋を出て行った。 「─ふむ」 一連の光景に妙に感心してブラドが唸る。確かに「おとうさん」というのはあながち冗談ではなさそうだ。だからといって母親役をやらされるのはまっぴらごめんだが。 ─ A.D2010 X月9日 13:12 ─
三日の月日が穏やかに過ぎていった。あまりに平穏過ぎてブラドは自分が何故此処に居るのか時々分からなくなる。ブラドが此処に来て以来、バーンはノアの事もキースの事も一切口にしなかった。ただ普通に、それこそ自分の家族と暮らすようにブラドに接していた。ウェンディやエミリオも多少の緊張はあるようだが取りたてて波風が立つ事もなく時が過ぎていく。決して有り得ない事だと分かっているはずなのに、このまま何時までもこの時が続く錯覚さえ覚える。ゆったりとソファに座って本を手にしたまま、柔らかな日差しが届く場所でブラドはそんな事をぼんやりと考えていた。ふと思いたって眼の前の人物に視線を移す。自分の真向かいに座っているバーンは一段低いテーブルに突っ伏しながら恨めしそうにこちらを見上げていた。 「暇そうだね」 吹き出したいのを抑えて努めて平静を装ってブラドはバーンに声をかけた。バーンは駄々をこねるように不機嫌な声を上げる。 「俺、何かやってないと落ち着かないんだよ」 たった三日だというのに、家の周りだけが行動範囲という生活がこの男にはつらいらしい。家に居てもする事なんて幾らでもあるだろうにと思うのだが、それを彼に強いているのは自分なのだからとブラドは黙ってバーンの不満を聞く方を選んだ。 「暇だー、退屈だー、何かしようぜブラド」 うだうだと不平を漏らすバーンにブラドは分かった分かったと生返事を返してもう一度読みかけの本に眼を落とした。おざなりなブラドの態度にバーンが何とも情けない表情をして唸っている。眼の端でそんな彼の姿を認めてブラドは内心笑いを堪えるのに苦労した。 「でかい図体して家の中ごろごろしてないでよ。暑苦しいったら」 キッチンから出てきたウェンディがあきれた様子でバーンを見下ろした。 「冷たいなー、ウェンディは」 バーンはテーブルに身体を預けたままウェンディの方に拗ねたような視線を向ける。ウェンディはやれやれといった感じで大袈裟にため息をついてみせた。 「あんたが居ると部屋が片付かないのよ。暇なら散歩にでも行ってらっしゃい」 追い立てるように彼の背中をバシンと叩く。しょうがないといった体でバーンは渋々と立ち上がりかけた。 が、次の瞬間彼は不自然にソファに腰を落とした。その姿を見たブラドは思わず声を上げかける。バランスを崩したというより急に力が萎えて座り込んだような、そんな不自然な様子に見えたからだ。当のバーン自身もびっくりしたような顔で茫然としている。そしてブラドと視線が合った瞬間、彼はしまったと言いた気な渋い表情を浮かべた。それがひどくブラドの動揺を誘う。 「バーン大丈夫? 具合でも悪いの?」 ウェンディも異常に気がついて慌ててバーンの元に駆け寄った。心配そうに屈み込んでバーンの顔を覗き込む。 「ちょっとバランスを崩しただけだよ。あんまりお前がせかすからだぞ」 そんなウェンディにバーンは何時もと変わらずのんびりと笑いかけた。先ほど一瞬だけ見せた表情との落差の激しさが妙にブラドの気にかかる。 「本当に? 本当に大丈夫なの?」 それでもまだ不安気にバーンを覗き込むウェンディに、バーンは妙に瞳を輝かせて少しからかうような表情を浮かべた。 「そんなに心配か?」 そうして返事を待たずにウェンディの腕を引っ張り強引に自分の隣りへと座らせるとその肩を抱いて悪戯っぽく笑いかける。 「いやーそんなに俺の事が好きだったんだな。そういう事ならちゃんと言っておいてもらわないと─って、いてっ! 痛いって、ウェンディ」 にやにや笑いながら話すバーンの言葉の終わりを待たずにウェンディは黙って自分の肩に置かれた手の甲をつねっていた。それを見ていたブラドが自業自得だと思いつつも、血が出るんじゃないかとちょっと心配するほどだった。 「だーれーが、だーれーを好きだってえ?」 地を這うような声と共にウェンディがバーンを睨み付ける。さすがに顔がこわばったバーンの背中をウェンディは右手を振り上げて思いっきりひっぱたいた。 「バカな事言ってる暇があったらさっさと出掛けて来なさい!!」 「だから痛いってば…」 やれやれと苦笑しながら今度こそ立ち上がると、バーンはちょうどその時リビングの前を通りかかったエミリオをめざとく見つけて声をかけた。 「ほらエミリオ。散歩に行くぞ」 「やだ」 ウェンディの怒気を逸らすようにエミリオに向かって手を振るバーンにちらりと眼を向けながら、エミリオは一言で拒絶する。 「いいじゃないか、付き合えよ。ちょっとは動かねーと太るぞ」 「動いたってバーンみたいにデブになるじゃないか」 むっとしながら再度声をかけるバーンを見上げて、エミリオはすましてそんな返事をする。 「…口の減らないヤツだなあ。四の五の言ってないでさっさと行くぞ、ほら!」 第一俺の何処が太ってるんだ─とぶつぶつ文句を言いながら、バーンはエミリオの側に近寄ると有無を言わさずその小さな身体を脇に抱えた。エミリオはびっくりしながらも楽しそうな声を上げる。 「いやだって言ってるじゃないか。バーンやめてよ」 「あー聞こえない聞こえない」 嫌がって手足をじたばたさせるエミリオの身体を小脇に抱えたまま、バーンはさっさと歩き出した。言葉の割にエミリオはさっぱり嫌がっている様子には見えない。バーンにじゃれつくのが楽しくて仕方がないようだ。ブラドはそんなエミリオの姿をちょっと信じられない思いで眺めていた。ブラドはエミリオのこんな子供らしい笑顔は今まで一度も見た事がない。何時だって何かに怯えて小さくなっているような、エミリオにはそんな印象しか持っていなかった。 「─本当にバカかもしれないな、あの男は…」 「何よ、今頃気がついたの?」 二人して騒ぎながら消えていくのを見届けながら呟くブラドの言葉を聞き咎めて、ウェンディは何を当然な事をと言わんばかりに言葉を継いだ。 「バカじゃなきゃたった一人でノア相手に何かしようなんて思う訳ないじゃない」 ブラドが何か言いた気に自分に視線を移したのに気づいていたのだろうが、ウェンディはその視線を意図的に外してキッチンに入っていった。が、すぐに莢豌豆で一杯の大きなカゴを抱えて戻って来る。 「ブラド、ちょっと手伝ってよ。暇なんでしょ?」 つっけんどんにそれだけ言ってテーブルにカゴをどんと置く。この妙な強引さは彼に良く似ていると思ったが、そんな事を言うと彼女がまた怒り出しそうなのでブラドは黙って手伝う事にした。 「言っておくけど。私、貴方の事もキースの言葉も信じていないから」 ブラドと差し向かいのソファに座って黙々と莢豌豆の筋を取っていたウェンディが顔も上げずにぽつりと呟いた。手を休めてブラドはウェンディをまじまじと見つめる。ウェンディは俯いたままでいた。 「でも私はバーンを信じているの。バーンの『大丈夫』って言葉を信じてる。だから私、貴方を信じる事にするわ。だから、その─。この間はごめんなさい」 一気にそう言って初めてウェンディは顔を上げた。多分照れ隠しなのだろう、怒っているように眉根を寄せている。 「貴方が来た時、私ひどい事言ったわ。本当にごめんなさい」 「別に気にしていないよ」 すまなそうに自分を見つめているウェンディにブラドは笑いかけた。それを見たウェンディは胸のつかえが取れたような笑顔を覗かせて、また顔を落として手元の作業にいそしみ始める。それをブラドは微笑んで眺めていた。 「…何よ、にやにやして」 一向に自分から外れない視線を気にしてウェンディが上目遣いにブラドを見上げる。少し赤くなりながら、それでも怒ったような表情は崩さない。それが妙に可愛らしかったが、これ以上眺めていると彼女は本格的に怒りそうだったのでブラドは何事もなかったように俯いて手を動かし始めた。そんなブラドを複雑な表情で眺めながらウェンディが再度声をかけてきた。 「ブラド、貴方変わったわね」 「そう? 何処が?」 前にも聞いたような台詞だと思いながらもブラドは顔を上げずに問い返す。するとウェンディはちょっと困ったような表情を浮かべた。 「何処がって言われると困るんだけど─」 そう言ったきり彼女はしばらく黙り込み、ほどなくポンと手を打ってにっこりと微笑んだ。 「何だかたくましくなったわ」 その言葉にブラドは思わず顔を上げた。既視感。人の手によって生み出されたソニアと、今目の前にいる少女の姿が妙にだぶって見える。 「どうしたの、ブラド? 私変な事言ったかしら?」 「いや、何でもないんだ」 黙って自分を見つめているブラドにウェンディは不思議そうに視線を投げかけていた。 それに気づいてブラドは慌てて言葉を濁す。不審気に自分を見つめるウェンディの視線にブラドは気がつかない振りをした。こんなただの感覚に頼った事柄は説明のしようがない。ブラドは軽く頭を振ってこの益体のない妄想を追い払うのに腐心する。ウェンディは首をかしげつつも、問い返す事もなくまた作業に没頭し始めた。 彼女を手伝いながらブラドはバーンの事をぼんやりと考え込んでいた。ウェンディやエミリオの彼に対する信頼感は相当なものだ。だがブラドにはその気持ちが分かる気がした。彼はとても素直だ。周りから愛情を注がれて生きてきたような明るさがある。心地よい日だまりのような明るさ。自分の持つような影の部分を微塵も感じさせない。それが羨ましくもあり、だからこそ妬ましい気持ちにもなる。そう感じている自分に気づいてブラドは思わず苦笑する。 彼は口ぐせのように「大丈夫」だと言ってウェンディやエミリオに笑ってみせる。そんな時の彼の瞳に迷いはない。だからこそ彼女らは不安や迷いを全て消し去ってしまえるのだ。─いや、消すのではない。消えるものではない。多分彼が引き受けるのだろう。彼を頼る人々の心の闇を彼の持つその陽の光で。ブラドはそれが今の自分にも、そしてキースにさえも当てはまる気がした。だとすると─。 ─彼自身の迷いや不安は一体何処に行くのだろう?─ ふとそんな考えに突き当たった。つらくはないのだろうか? ─ A.D2010 X月10日 02:41 ─
初めて此処に来た日から気にはなっていた。此処に居る理由が理由なだけにさすがに緊張してなかなか寝付けなかった上に辺りの気配にかなり敏感になっていたと思う。だから多分気がついた。夜の静けさの中、何時までも消える事のなかった人の気配。微かだけれど何かしら動きのある息遣い、衣擦れの音。初めは噂の幽霊なのかと思ったりもしたが。 既に夜中の二時を大きく回っていた。耳が痛くなるような沈黙が辺りを支配する中、ブラドは一番奥に一人だけ離れているバーンの部屋の前に立っていた。息を潜めて中の様子を窺ってみるとやはりまだ起きているような気配がする。ブラドはしばしその前で逡巡し、やがて意を決したようにその扉を小さく叩く。 「起きてるんだろ? ちょっと話があるんだけれど」 とたんに中の気配が消えた。あまりに急だったのでブラドは何だかあきれてしまう。夜更かしを親に咎められた時の小さな子供のようだ。部屋の中からは一向に返事が返って来なかったが、ブラドは辛抱強く堅く閉ざされたままの扉の前から動かなかった。 「──開いてる」 今日は駄目かと部屋へ戻ろうとした時に、ようやっと扉の内側から諦めたようなため息と共にバーンの声が響いた。立ち去りかけた身体を返してブラドはそっと目の前の扉を開く。小さなスタンドの弱々しい灯りのみの部屋で、バーンはベッドの端に座っていた。ベッドの上に乱れた後は見えない所を見ると横になりもしていなかったのだろう。彼はこちらに眼を向けて穏やかに微笑んでいた。しかし灯りの所為でそう見えるのだろうか、妙に疲れているような印象を受ける。 「何か用か?」 辺りを慮ってか何時もの張りのある声ではない小さな声が響いた。ブラドはとっさに返事が返せず言いよどむ。それを見てバーンはとたんに悪戯っぽい笑みを覗かせた。 「分かった。夜這いだろ」 しばしの沈黙の後、バーンはぷつんと何かが切れる音を聞いた…ような気がした。 「わあ、すいませんごめんなさいブラドさん! もう言いません!!」 顔色ひとつ変えずに─これがまた恐かったのだが─ブラドは無言でくるりと踵を返した。すたすたと部屋から立ち去りかけるのをバーンは慌てふためいて引き止める。ブラドのシャツの端を掴み、そのまま自分ごと引きずっていきそうな勢いのブラドに平謝りに謝って、バーンはほうほうの体でようやく彼をベッドに座らせる事に成功した。そのまま無表情で冷たい視線を向けるブラドにバーンはバツが悪そうな表情を浮かべる。 「─君も座ったらいいだろ?」 情けない表情でうなだれているバーンにブラドはやっと口を開き、からかうような笑みを浮かべた。バーンは少し驚いた表情をして、それからいそいそとその隣りに腰掛ける。始めはともかくブラドは別にそれほど怒っていた訳ではなかった。慌てるバーンを見るのが楽しくてつい遊んでしまったとちょっとだけ反省する。だがまあ、彼には驚かされっぱなしだからたまにはいいだろうとも思っていたが。 「あー、それで用って何だ?」 ブラドの機嫌を伺うような愛想笑いを浮かべるバーンにブラドはあきれたように笑ったが、ふと真顔に戻ってそのままバーンを見つめた。つられてバーンの顔からも笑みが消えて怪訝そうな表情に変化する。 「君、この頃寝てないんじゃないか?」 急な言葉にバーンは一瞬あっけにとられたようだった。だがそれも一瞬の事で直ぐに笑顔に戻る。だが先入観の所為だろうか、ブラドにはそれが妙に痛々しく見えてしまう。 「いや、別にそんな事はないけど」 「昼の事でもそう思ったんだが…。君、前に会った時より痩せたようだしひどく疲れている様に見えるよ」 「だからそんな事はないってば!」 ブラドの視線を受けていたバーンが珍しく自分から眼を逸らした。何か言おうとして、でも上手い言葉が見つからないらしく苛立たし気に唇を噛む。 「もし僕が此処に来たせいでそんなに君に負担がかかっているなら本当に申し訳ないと思っているんだ。でもどうしたらいいのか僕には分からない」 「ああ、それは違うよ。あんたのせいじゃない」 すまなそうに頭を下げるブラドを見てバーンは慌てて口走った。が、そう言った事で結果的にブラドの言葉を肯定した事になってしまった事に気づいてバーンは渋い表情を浮かべて黙り込んでしまう。床を睨み付けて膝の上で組んだ指を所在なさ気に組み替えるバーンの姿にブラドは一体何と言葉をかければいいのか分からなかった。 「夢──を、見るんだ」 気まずい沈黙が流れた後、ブラドから眼を逸らして床を睨み付けたままバーンがぼそりと呟いた。そこでまた長い沈黙が訪れて、それからバーンはゆっくりと眼を伏せる。 「夢の中で俺は多分すごく楽しんでいる。全身血塗れで、足元にはたくさんの死体が転がっていて、手には─ウェンディとエミリオの首を持っている」 バーンは顔を上げて、絶句しているブラドに向かって苦笑してみせた。 「あんた前に言ってたろ、俺がディアブロ─悪魔だって。あれは多分当たってる」 バーンは穏やかに微笑みながらじっとブラドを見つめて、今度も自分から眼を逸らした。俯き加減に床に視線を落とし、静かな声で叫びのような言葉を吐く。 「─いつか本当に夢の中のようになってしまうんじゃないかと思うと恐くてたまらない。明日はもう来ないんじゃないかと思う時もある。何が『大丈夫』なのか俺にも分からない。どの面下げてあの子達にそんな事を言ってるんだろうな、俺は。それでも誰かがそう言ってやらなきゃならないんだと思う。それが俺なら迷っている訳にはいかないんだ」 バーンの淡々とした静かな声が部屋中に響いた。時折唇を噛み締めて黙り込みながら。 「本当はキースのやってる事が間違っているのかどうかも分からない。確かにあいつの言ってる事も分かるんだ。でもキースのやり方じゃ結局あいつ自身救えない。誰かがあいつに間違ってるって言ってやらなきゃならないんだ。迷っている暇はない。迷ったりしていたらキースの耳には届かない。誰かがやらなきゃならない、でも─」 初めてバーンの声に感情がこもる。どうしようもなくやるせない悲痛な色。 「──何で俺なんだ…?」 最後の言葉は消え入りそうに小さな声だった。バーンはそれきり俯いたまま沈黙する。 ─彼はこんなに小さかっただろうか?─ ブラドは自問した。彼は何時も真っ直ぐな眼をしていた。迷わないその瞳。その奥に葛藤や、絶望や、孤独や─迷いを全て押し込んで、そして今まで笑っていたのだろうか。大丈夫、心配ないと。 今眼の前に居る彼は、ともすれば消えてしまいそうなほど儚げに見えた。だからブラドには黙って俯いたきりのバーンをただ見つめる事しか出来ずにいた。 どちらも身じろぎひとつしない沈黙の中、不意に低い鳴咽がブラドの耳に届く。それと気づいた瞬間にブラドが取った行動は自分でも信じられないものだった。膝の上で堅く組まれていたバーンの手を取り、半ば強引にブラドは彼を自分の方に向かせた。びくりとバーンが顔を上げてブラドの顔を見る。その瞳は今まで何処に隠していたのだろうと思ってしまうくらい不安と迷いでいっぱいに彩られた色をしていた。涙で滲んだ瞳を見られるのを嫌がってバーンは慌てて俯いて、ブラドの腕を振り払おうと試みる。しかしそれはとても彼のものとは思えない弱々しいものだった。 「──見るな」 俯いたままバーンは小さく声を漏らした。 「頼むから見ないでくれ」 それきり唇を噛み締める。ブラドはそんな彼の頬に手を当ててもう一度自分の方を向かせると涙で濡れている瞼にそっとくちづけた。びっくりしたように自分を見つめるバーンの瞳に笑いかけてブラドはもう一度同じ事を繰り返す。嫌がるかと思ったが、バーンはそのまま動かなかった。動けなかったのかもしれない。瞼に、額に、頬に。キスを繰り返してそのまま彼の頭を抱き寄せる。どうしてそんな事をしたのか分からない。ただ、彼の言葉ではなかったがそうしなければいけない気がした。 「バーン、君は大丈夫だ」 バーンの頭をしっかり抱きしめてブラドが低く囁いた。 「君は大丈夫だよ。そんなの君自身が一番良く知っているはずだろう?」 さんざん彼から聞かされた「大丈夫」の言葉をブラドは呪文のように繰り返す。彼がどんな気持ちでこの言葉を言っていたか分かった気がした。相手に向かって、そして何より自分自身に向かってその言葉を告げていたのだろう。 バーンは黙ってブラドに身体を預けていた。彼は決して声を上げては泣かなかった。時折ほんの微かな鳴咽を漏らすだけだ。その代わりブラドの背に痛いくらいにしがみついて来る。何もこんな苦しい泣き方をする事もないだろうにとブラドは思ったが、黙って彼の好きにさせておく事にした。 しばらくそのまま時が過ぎていく。永遠に続くかと思われたがその内バーンは大きな息をついた。そうしてブラドにしがみついていた手を緩めて呟く。 「何だか本当におかあさんみたいだ」 その言葉を聞いて─、ブラドはどっと疲れが出た気がした。 「──痛い、痛いってば、ブラド! 何だよ、正直な感想を言っただけじゃねえか!」 ブラドは仏頂面をしながら抱きかかえていたバーンの頭をぎゅうぎゅうとベッドの上に押し付ける。何だかやたら腹が立ってきた。 「えーえ、何せ『おかあさん』ですからね。いやー不肖の息子を持つと苦労するよ」 「何だよ、根に持ってんのか!? 痛いってばヤメロよ!」 「『おかあさん』のする事なんだから我慢しろ」 「ホントに痛いんだってば! ブラドさんやめて!」 じたばたもがくバーンの頭を未だベッドに押さえつけながらブラドは大きなため息をついた。そうしてしかめ面をしながらもバーンの頭を自分の膝に抱え込みその瞳を両手で塞ぐ。 「いいから少し寝ろ。今夜くらいは側に居てやるから」 バーンはもがくのをやめて大人しくなった。彼の瞳を塞いだ手の平に新たな暖かい滴を感じたが、ブラドは気が付かない事に決めた。 「ひとつ願い事があるんだ」 しばしの沈黙を破り、眠ったと思っていたバーンが唐突にそんな言葉を呟いた。ブラドは思わず彼の両目を覆っていた手を外してバーンに視線を落とす。彼は微かに赤い目をしながらゆっくりとブラドから視線を外して眼の前で組んだ自分の指を見つめた。 「ずっと昔から─子供の頃から願っていた。ちゃんとお祈りもしてたよ。ガキの頃はたやすく叶うと思っていたんだけどな。こんなに難しい事だとは思わなかったよ」 苦笑しながらそう言って、悪戯でも仕掛けるかのような意味深な笑顔をブラドに向けた。 「教えてやろうか? キースも知らないぞ」 あいつに言ったらバカにされそうだったしな─と付け加えて不意にバーンはブラドの頭に手をかけると自分の方に引き寄せた。びっくりしてされるがままになったブラドの瞳を間近に覗き込んでから、バーンは彼の耳元で何事か囁く。そうしてその瞳に向かってにっこりと笑いかけた。それはとても明るい翳りのないものだったのに、これほど凄絶な笑みをブラドは見た事がなかった。 「おやすみ」 気が済んだような笑顔になってバーンが図々しくブラドの膝枕で寝直す。それをブラドはただ黙って見つめていた。 泣いたりしたせいでよほど疲れていたのだろう。ほどなくバーンは幸せそうに穏やかな寝息をたて始める。それを確認してブラドはそっとため息を漏らした。 「バカな男だ」 あまりに愚かで涙が出てくる。ブラドは彼が自分を殺しに来た相手と相対した時の光景を思い出した。祈るように眼を閉じて、拳を握り締める彼の姿を。あの時も願っていたのだろうか? こんなバカげた事を。 「本当にバカな男だ」 それでもブラドは今夜だけは彼の願いが叶うように祈らずにはいられなかった。絶対に叶う事のない、叶うはずもない願いを。 ──どうか 皆が 幸せになりますように──
了 1999.6.12
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