−新千年紀−
あと一年を残すだけの二十世紀は、日本にとっては経済大国として「大勃興」し世界史の表舞台に立った「成功の世紀」として歴史に記されるだろう。
そうした歴史の文脈に照らせれば、最近の悲観主義は行き過ぎだ。
もちろん成功体験を懐かしむいとまはない。
時代の変化の「主潮流」を見極め、その先頭を目指し、国も企業も、さらに個人も自己改革を急ぐ必要がある。
行動のみが閉塞状況をうち破れる。
労働生産性50倍
米フォーチュン誌は「今世紀の実業家」に自動車王ヘンリー・フォードを選んだ。
1908年に彼が完成したT型フォードは、金持ちの遊び道具だった自動車を大衆の輸送手段に変えた。
そして二十世紀を自動車の世紀に仕立て上げた。
それを可能にしたのがベルトコンベアによる組み立てライン方式の「規格大量生産」であり、後に「フォーデイズム」と称されたものである。
これにより作業は単純なものに分解され、単純労働が質の面で熟練労働の、数(生産性)においてはそれをはるかにしのぐ成果をあげた。
フォードと同時代のフレデリック・W・テーラー、および日本に特に影響を与えたW・E・デミングが生産現場の生産性向上、品質管理に多大な貢献をした。
二十世紀の産業文明の偉業は、製造業における肉体労働の生産性を五十倍に引き上げたことだ。
続く二十一世紀に期待されるのは知識労働者、ホワイトカラーの生産性を大幅に向上させることだろう。
戦後の日本は、「フォーデイズム」型の工業化に最も適したシステムを持っていた。
画一的な教育、訓練度が高く均質な労働力などがそれである。
日本人の勤勉さもあり、日本の規格大量生産型の製造業は大発展を遂げた。
1970年代末から1980年代初めには、鉄鋼生産や自動車生産で米国をしのぐにいたり、フォーデイズムの世界では凱旋門をくぐった。
成功の逆説
凱旋門の先に見た世界は、知識・情報集約型の産業が急成長する世界だった。
だが日本はその後、バブル景気に自己陶酔し、その崩壊の後は「十年不況」で悲観主義に落ち込んでいる。
悲観主義からは建設的な行動は生まれない。
委縮の連鎖だけが生ずる。
二十世紀は、革命と大戦争の世紀でもあった。
最大の敗者は明らかにソ連邦であった。
1985年に登場したゴルバチョフ政権が国家システムの致命的な弱さに気づいて革命(ペレストロイカ)を始めたが、失敗し1991年には、ソ連邦そのものが消滅した。
ゴルバチョフ政権の主席顧問だったアレクサンドル・ヤコブレフ氏は「歴史の厳しい眼で見れば、ロシアは二十世紀をまるまる失った」(「歴史の幻影」の序文1993年)と慨嘆した。
日本はフォーデイズム型産業文明に適した諸制度によってこの世紀の大半を成功物語でうめることができる。
だが、1980年代以降、産業文明の潮流が変わりだしている以上、かつての成功体験にこだわってはいられない。
フォーデイズム型の工業の比較優位は、冷戦終焉の過程と重なるように勃興した新興工業国にシフトしつつある。
システムを工夫
とはいえ新しい世紀においても、日本が得意としてきたモノづくりと品質へのこだわりの重要性が減ずることはない。
要は、情報化し、情報技術革命:技術革新という新しい要素をこれに組み合わせるシステム上の工夫である。
企業は懸命にリストラクチャリング(事業の再構築)を進めている。
だが、このリストラが単なる人件費の節減、人減らしに終わっている場合も少なくない。
本来、リストラは経営システム全体の抜本的な組み替えである。
人件費節減はその結果、あるいは手段のごく一部でしかない。
P・F・ドラッカー氏は「日本の企業は米国のマネジメントから米企業以上のものを学んだ」とし、特に「人をコストではなく資源とみることを学んだ」と指摘している。
人減らしだけによるコスト削減の効果は一時的である。
企業の持続的な発展のためには新しい価値、新しい技術・製品の「創造」が不可欠だ。
新しい生産システムを、IT(情報技術)革命:技術革新の成果などもフルに活用しながら「再構築」する必要がある。
資源である人を活用するには、一人ひとりの個性、能力を積極的に評価し、インセンテイブを与え、その成果に応分の報酬を確保することである。
画一化、均一化は規格大量生産の時代には強みだった。
しかし知識集約、価値創造の時代にはそれは「不公正な平等」になる。
二十世紀後半の産業政策上の大失敗例となった金融の「護送船団」方式と同様、モラルハザードを醸成する。
日本にとって新しい千年紀の最初の仕事は、個性を尊重し、リスクへの挑戦と成果を評価するという価値観の革命であり、諸制度のリストラクチャリング(再構築)であろう。
<日本経済新聞/1999年12月31日/小島明:論説主幹>