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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2009/08/15 初瀬「人はいさ」「憂かりける」
(2009/08/16 説明見直し、8/24 説明追加)

小倉百人一首の作者には2人の初瀬に関連する和歌の作者がいます。
初瀬(泊瀬)には万葉集の匂いを感じることができます。
定家は初瀬を切り口として万葉集、古今集、金葉集を取り上げたかったのではないかと思います。
※初瀬は奈良県桜井市の地名。5世紀後半、雄略天皇が都(泊瀬朝倉宮)をおく。
長谷寺があり現世利益を求めた初瀬詣でが平安時代さかんだった。

No. 作者 できごと
- 雄略天皇
(第21代)
在位 456-479年
- 万葉集巻一の巻頭の歌。
大泊瀬稚武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)=雄略天皇
籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持
此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告沙根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手
吾許曽居師 告名倍手 吾己曽座
我許背齒告目 家呼毛名雄母
こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち
このおかに なつますこ いえきかん なのらさね
そらみつ やまとのくには おさなとて
あこそこし のりなべて あこそませ
わこそはのらめ いえをもなをも
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【歌意】
なんと良い籠(こ)をお持ちですね
 ⇒私の御子(みこ)を身ごもって(籠母乳)くれないでしょうか
なんと良い掘串(ふくし)をお持ちですね
 ⇒私を夫(せ)の君とする気持ち(夫君志)はないでしょうか
この丘に春の若菜を摘む娘よ
どうかあなたの家を聞かせてください あなたのお名前を告げてください
うそとお思いでしょうが、大和の国が邪魔をしてきたとて
私は許されるなら今居るここを越えて 名告り連ねたいのです
私は本当に己の想いで参っています
夫(背)にするとどうか告げてください
あなたの家もご両親がつけられたあなたのお名前も
※当時は女性が名告ると結婚承諾を意味した。
※⇒の文は掛けた内容。
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【語句】
虚見津(そらみつ):虚はうそ、空の意。みつ→満ちる。 「そらみつ」は大和の枕詞ですが、この歌の中で単なる大和の枕詞だけでない強い響きを感じます。
押奈戸手(おさなとて):「おしなべて」とする説が多いですが、 「戸」は「と」と読みたく、「おさなとて」としています。
吾許曽居師(あこそこし): 原文は古田武彦氏の説にしたがい、「師」は前の句につけ、「吉」→「告」とし、「吾許曽居 師吉名倍手」でなく「吾許曽居師 告名倍手」としています。 読みは5音または7音が基本となるように独自に解釈しています。 「居師」は「こし」(越し)と読むことで、居る状態と越える動きを兼ねた表現と解釈しています。
名雄母(なをも):雄母でご両親を掛けている。
※万葉仮名は漢字で表音したものですが、この歌は万葉仮名の漢字の意味と音を駆使した掛詞など技術的にも高度な歌だと感じます。 雄略天皇が文武に長けた三国志の曹操となんだか似ているように思えてきました。
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保田與重郎氏は『日本の文学史』の中で、この歌について下記のように記しています。
「万葉集開巻の朝倉宮の御製からうける感情は私にとって、特異なものだった。」
「日本人として生まれ、日本の最も古い詩歌の一つを己のいのちの始めのそのまま、そのものとしているような、これを生甲斐というのだろうか。」
「人のいのちの今生一世に、詩歌文芸というものが、何であるかを考えた時、私はただこの国に生れたよろこびというより他の表現をさがし出し得ない。 そういう感動の凝固したものが、この朝倉宮の御製だった。」
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[みかきもり]
万葉集の巻頭の歌は大泊瀬稚武天皇の求婚の歌から始まります。
春の息吹を感じる丘で若菜を摘む一人の女性と一人の男性の出逢いの歌です。
この出逢いから新しい命が誕生し、そしてその命にはいつかまた新しい出逢いがあって、 また新たな命が芽生えることでしょう。 この歌の「籠(こ)もよ み籠(こ)もち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ふくし)もち」には、 「み」がつきながら言葉が繰り返されることで、命の鼓動とより良くあれという祈りを感じます。
隠口(こもりく)の泊瀬から出ずる初瀬川(下流は大和川)の流れのように脈々と人がその命を受け継いでいく中で、 貴賤に関係なく和歌が幾多の人とともにあることが、この万葉集の巻頭の歌に示されているように感じます。
35 紀貫之 人はいさ心も知らず古里は
花ぞ昔の香ににほひける
紀貫之:古今集の撰者の一人で仮名序を書く
古今集とは、
- 最初の勅撰和歌集。905年、醍醐天皇に奏上。
- 唐の衰退によって漢詩文が衰退し、和歌が復興する。
- 仮名序・真名序で和歌を位置づけし、部類や構成を確立して体系化している。
- 万葉集に入らぬ主として奈良朝以降の伝誦古歌【古】から、六歌仙時代、 古今撰者の時代【今】までの歌を収めており、ゆえに古今集と命名されている。

長谷寺の牡丹のお話
唐第21代皇帝の僖宗(在位873-888年)の第四の后の馬頭夫人が馬に似た容貌を嘆き、 遠い日本の長谷寺に祈ったところ一夜にして絶世の美女に変わったので 喜んで「百花の王」と讃えられる牡丹を添えて十種の宝物を献納したといわれています。
ちなみにこの僖宗皇帝のときに黄巣の乱が起きて実質的に唐が滅亡します。

人はいさ心も知らず古里は
花ぞ昔の香ににほひける
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人の心は変わりやすいものだから、あなたの心は昔のままかどうか、さあどうだかわからない。 しかし、昔なじみのこの里は、梅の花だけは昔のままのなつかしい香で咲き匂っていることだ。
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この歌は、初瀬詣での折ごとに宿泊していた家に久しぶりに訪れたところ、 その家の主人が「このように昔のまま変わらずにあなたのお泊りになる宿はございますのに」 と言うのに応酬して、そばにあった梅の花を折って読んだ即興のあいさつの歌です。
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[みかきもり]
時の流れを受けて人の心は変わりやすく、万葉の時代から唐風文化隆盛の時代となり、 唐の衰退によってまた和歌が復興してきます。 万葉集以後、六歌仙時代を経て、古今撰者の時代となります。 和歌が万葉の頃のままということはないでしょう。 しかし、和歌の心は昔(万葉集)も今(古今集)も変わることはありません。
古今集撰者で仮名序を書いた紀貫之の「人はいさ」の歌にはこうした古今集の時代背景や和歌の心が感じられます。
また「人はいさ」の歌の花を牡丹とすると、唐の栄枯盛衰を感じられます。
それゆえ、定家はこの「人はいさ」の歌を選んだのではないでしょうか。
74 源俊頼 憂かりける人を初瀬の山おろしよ
はげしかれとは祈らぬものを
源俊頼:金葉集の撰者
金葉集とは、
- 5番目の勅撰和歌集。1126年、白河院に3度目の奏覧。
- 金葉は「最も優れた言の葉」の意。古今集からの連続性を前提とした従来の勅撰集の命名とは異なり、万葉集を思い起こす命名となっている。
- 万葉復興の気運が高まって、金葉集の歌人はそこから古くて新しい和歌の表現法を意欲的に摂取しようとした。
- 誹諧味や田園趣味といった新味を加えることで、古今以来の伝統的用語・景物からの逸脱を推し進めたものになっている。
- あまりにも新風に寄りすぎ、同時代の歌人を偏重しているとして厳しく批判された。

憂かりける人を初瀬の山おろしよ
はげしかれとは祈らぬものを
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私につれなかった人を、なびくようにと初瀬観音に祈りこそしたが、 初瀬の山おろしよ、そなたのようにあの人の心がつらく激しくなるようにとは祈らなかったのに。
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[みかきもり]
万葉復興の気運の高まりの中で新風を入れた金葉集でしたが、期待に反して厳しく批判されることとなりました。 撰者である源俊頼はこの「憂かりける」の歌の心情そのものの想いを持ったことでしょう。
それゆえ、定家はこの「憂かりける」の歌を選んだのではないでしょうか。
■参考文献
・週刊古社名刹巡拝の旅14 初瀬街道           (集英社)
・万葉秀歌(一)            久松 潜一     (講談社学術文庫)
・百人一首 全訳注           有吉 保      (講談社学術文庫)
・全訳古語辞典(第二版)        宮腰 賢、桜井 満 (旺文社)

■参考URL
・Wikipedia 初瀬Wikipedia 大和川Wikipedia 雄略天皇Wikipedia 曹操Wikipedia 古今和歌集Wikipedia 金葉和歌集Wikipedia 僖宗 (唐)水垣 久 「古今集秀歌選」水垣 久 「金葉集秀歌選」佐々木博昭 「泊瀬朝倉宮の顕彰〈萬葉集の発耀)」古田武彦 「籠もよ み籠持ち堀串もよ み堀串持ち」たのしい万葉集 「籠もよみ籠持ち掘串もよ」甘味処 金花糖 「万葉仮名一覧」総本山 長谷寺真言宗豊山派 季刊誌「光明」139号/長谷寺ものがたり

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