須賀川の風景


須賀川牡丹園

市の花、牡丹は花王(百花の王)とも呼ばれ須賀川のシンボルである。市の木である赤松に囲まれた須賀川牡丹園は昭和7年(1932年)国指定名称となった。その広さは10ヘクタールに及ぶ。樹齢200年を超える古木は人の背丈よりも高い。
また、正面前に立つ牡丹姫像は、須賀川市と友好都市を結んでいる中国の洛陽市との牡丹を架け橋として、昭和62年(1987年)に洛陽市王城公園の牡丹仙子像を模して建てられた。園内には洛陽市から送られた中国の牡丹も見ることができる。



須賀川の街並み




釈迦堂川(西川)の鯉のぼり

須賀川市文化センター南側の釈迦堂川に今年も市民から寄贈された鯉のぼりが空に泳いだ



須賀川絵のぼり




須賀川市文化センターと須賀川アリーナ

須賀川文化市センターでは毎年世界一小さな映画祭「すかがわ国際短編映画祭」を開催している。一方、文化センターの脇に建つ須賀川アリーナは平成7年(1995年)のふくしま国体では卓球競技の会場となった県内でも有数の広さのメインアリーナをもつ総合体育館



須賀川の桜の名所

通称「下の川の桜」(前田堤の桜)と釈迦堂川(西川)の桜



西川の太郎松と西川の種蒔桜

昔陣場山と呼ばれた須賀川インターチェンジに向かう桐陽高校(旧須賀川女子高校)の北側に、枝振りがよく樹形が整え、その景観の見事な太郎松があり、福島県指定天然記念物となっている。また、この岡の東には種まき桜といって、この桜のつぼみが赤みをおびると苗代をつくり、桜が咲くと苗代に種籾をまく季節と昔から伝えられている。
西に植えられた太郎松と東の種蒔桜には鎌倉時代、二階堂家の若侍太郎行俊とその恋人(さくら子)とにまつわる悲恋物語の伝説があり、今も昔の名残をとどめている。
[追記]
西川の太郎松は、平成16年(2004年)ごろから松くい虫の被害に立ち枯れ状態で、平成17年(2005年)6月22日に惜しまれつつとうとう伐採された。目通り幹回り約3.5m、樹高9m、樹冠は直径約18m。樹齢700余年のアカマツの大木であった。アカマツは須賀川市の木であり、シンボル的な「西川の太郎松」が無くなったのは非常に残念である。これで須賀川市にある県指定天然記念物のアカマツは樹齢200年〜300年の上小山田にある「古寺山の松並木」のアカマツのみとなった。



古寺山の松並木

古寺山白山寺に向かう約300mの参道両側に植栽された樹齢200年〜300年に達する、幹回2〜3m、樹高20〜25mのアカマツの並木で、昭和34年(1959年)3月17日に県指定天然記念物となっている。
この参道を通って白山寺で奉納される古寺山自奉楽は県指定重要無形文化財となっている。



「須賀川」という地名の発祥はどこだ(その1)

須賀川の発祥の地を阿武隈川と釈迦堂川との合流する地の砂地とする説がある。「日本地名語源事典」(吉田茂樹著)では、スカガワ(須賀川)福島県の都市名で、阿武隈川の中流にあって、釈迦堂川の合流地の砂堆地で、スカ(洲処)であろうとしている。
また、「地名の語源」(鏡味完二著)では、 スカ 砂州のあるところ。ほとんど全国に分布。(須賀・横須賀・高須賀・梅須賀・蜂須賀・須賀院など)このように、スカは「洲処」であり、「砂州」である。
では、「須賀川」という地名や川はどこにあるか?国土地理院25000分の1の地図を見ると北から、北海道厚沢部町館町 須賀付近を流れる須賀川、栃木県黒羽町 須賀川、群馬県片品村 須賀川、長野県山ノ内町 中須賀川、下須賀川、千葉県佐原町を流れる大須賀川、 愛知県刈谷市を流れる須賀川、島根県大東町を流れる須賀川、愛媛県宇和島市伊吹町を流れる須賀川、上流には須賀川ダムがある。

写真は、阿武隈川と釈迦堂川の合流する「スカガワ」の語源になっているところ。後方には芦田塚団地、その右手に愛宕山(第一次須賀川城跡が見える。



「須賀川」という地名の発祥はどこだ(その2)

高久田大一郎著「村の地名考−須賀川市の旧三十五ヶ村−」には、一説として、妙見山の前を流れる「下の川」が須賀川だという人がいる。そして、妙見山にまつられている須賀神社と結び付けている。と書かれている。須賀川城(現在の市街地の中心)の外堀として利用したとき、この川は「栗屋澤または栗谷川」と呼んでいたらしい。今この川は「須賀川」として流れており、鏡石町の池ノ原にある池が源流と思われる。そして、六軒を抜け妙見山下の現在の栗谷沢と合流し愛宕山(旧須賀川城)と保土原舘の間をとおり琵琶池に達する。さらに釈迦堂川に流れ込んでいる。




「須賀川」という地名の発祥はどこだ(その3)

「白川風土記」では、その巻之十二で須賀川町の歴史、地誌について詳しく述べられている。「開発ノ年代ハ詳ナラス。名ノ起コリハ今ノ道場町中ニ僅カニ生ズル清水ヲ須賀川ト唱フル也。此水ヨリ起コリシ所ノ名ニヤ」「村の地名考−須賀川市の旧三十五ヶ村−」に高久田大一郎氏は、「道場町中にわずかに生ずる清水とあるのは、今の「下り(さがり)」に湧く清水をさしていると思う。この清水は、現在も湧き出でて、自由広場の方へ流れ落ちていく。この水は清冽である。」と書いている。私も道場町(現在の池上町)に地元の人が清水と呼んでいる所を見つけた。なるほど清冽でこんこんと涌き出ている。そして下の川(須賀川)へと流れ込んでいる。




須賀川の一里塚

須賀川の南から北に向かう旧奥州街道に2つの一里塚がある。一つは、江戸日本橋から59番目の一里塚である。この一里塚は、街道の両側に五間(約9m)四方の盛り土があり原形を留めている奥州街道唯一の「一里塚」で、昭和11年(1936年)文部省が国の史跡に指定した。昔は塚に榎が植えてあった。
また、60番目の一里塚が下宿の白石坂の東側にある。今は、下宿一里塚には供養塔群がある。



乙字ヶ滝

右側の丘陵地の石切場からは昭和41年8月、約3万5千年前とされる旧石器人の石斧型石器などが出土している。(乙字ヶ滝遺跡)
江戸時代の俳人松尾芭蕉は「奥の細道」の旅で須賀川に8日間滞在し、途中乙字ヶ滝(石川の滝)に立ち寄っている。
奥の細道には触れていないが、曾良旅日記なかで芭蕉は、「五月雨の滝降りうづむ水(み)かさ哉(かな)」と詠んでいる。

馬尾の滝

国道294号線(旧会津五街道の一つ、白河街道)の長沼地区、勢至堂にある滝の一つ。白馬の尾を垂れたような滝ということから名づけられたといわれる。落差12mほどの滝で、その昔、参勤交代で通った会津公も、駕篭を休めて眺められたといわれている。
勢至堂には、ほかに銚子が滝、姫子の滝と名づけられた滝がある。



宇津峰

宇津峰は須賀川のどこの方角からも見ることができる山で、阿武隈山系に属する標高676メートルの独立峰で山容が富士山に似ていることから「岩瀬富士」とも呼ばれた。自然の要害として最適の山でもあった。
南北朝時代、南朝方は北畠顕信を陸奥守とし、守永親王(後醍醐天皇の孫)を奉じて国府と鎮守府を置いたところで、北畠顕信が鎮守府将軍となって赴任した時に、本城の星ヶ城(本丸)と長平城(二の丸)、および出城として東西に西乙森、東乙森、信号所の鐘撞堂などがあった。
中世の歴史を解明するうえから極めて重要な城舘跡として昭和6年(1931)国指定史跡となっている。


和田の大仏

和田大仏は当地方における鎌倉時代の磨崖仏の代表的なひとつで、高さ3.6メートルの阿弥陀如来坐像といわれるが、仏像の形が永い歳月を経ているため風化が著しく定かでなく、一説では、大日如来坐像との説もある。
大仏の胸部が一部削り取られているのは、昔甘酒を供え、御尊像の乳部を削り、その粉を煮立てて飲むと乳が出るという信仰があったと云われている。


翠ヶ丘公園(日本都市公園100選公園)




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