朴淵の滝〜観音寺

ホケノタケ?

 非武装地帯の中立監督委員会として使われていた建物で14時まで昼食をとり、再びバスに乗る。ガイドのLさんは板門店でくたびれたのか、それとも昼食でビールを飲み過ぎたのか、午後の部はどうもロレツが回っていない。声もよく聞こえず、しゃべっているのが日本語なのか、それとも朝鮮語なのかわからなくなったきた。そんな中で辛うじて聞き取ったところでは、これから「ホケノタケ」とか「コンビニ」に行くというような事を話しているようである。

 30分ほど走ってからバスを降り、10分くらい山道を登ると、朴淵の滝についた(「ホケノタケ」はここの事だった)。滝壺の前で水彩画を描いている人がいた。私達がまわりでわいわい写真を撮ったり、絵をのぞき込んだりしても一向に動じない。

朴淵の滝。シーズンになれば水量は多い。最近40日間雨が降っていないそうだ。

岩肌に「朝鮮労働党万歳!」のスローガンが。

このテの灰皿をよくみかけた。模様の花弁がうっすらピンクに、花芯がうっすら黄色に染められていてかわいい。

 滝から更に山道を1kmほど登り、山の上にある観音寺へ向かう。途中にもあちこちで絵を描いている人がいる。みな若く、美術学校の学生かも知れない。この山は高速道路から見えていたようなはげ山と違い、豊かな緑に覆われ、水が流れ、鳥の姿も見られる(ここ以外では見られなかった)。

 観音寺につくと、住職さんが出てきて説明してくれる。住職さんはグレーの服の上に赤い袈裟をまとい(ここまでは中国のお坊さんに似ている)、髪をオールバックに整え、グレーのナイロンの靴下に黒い革靴を履いている。素朴な笑顔が素敵だ。観音寺の歴史は高麗初期、970年代までさかのぼる。当時は洞穴を利用して、観音菩薩を2体おいていた。現在、うち1体は中央歴史博物館に保存されている。高麗末期、李朝初期に改築され、大きな建物が6棟あったが、今残っているのは大雄殿だけである。おまいりするのでしたら中にどうぞ、と言われ、靴を脱いで板の間に上がる。祭壇の前にはゴザがしいてある。床が土間になっている中国のお寺とは違い、日本のお寺と同じような感覚だ。住職さんは正座して木魚をたたきながらお経をあげてくださった。

 住職さんは実はこのお寺に住んでいるのではなく、ふもとの町から毎日通勤しているそうである。このお寺の信者は1500人くらいいるそうだ。私達が観音寺を後にすると、住職さんは岩のうえからにこにこして見送って下さった。瑞々しい新緑をバックにすっと一人立つ姿が絵になっていた。

観音寺大雄殿。李朝中期1600年代の高麗式建築。

 

 

門をくぐってしばらく行くと観音寺

赤い袈裟を着ているのが住職さん

ご本尊。住職さんは、背景の絵の人物を一人一人説明してくださった。

 

表紙を飾ったお寺の脇の家の飼い犬。

 

 

1000年前の観音様。国宝。

プチストーリー ある貧しい家の少年が親孝行をしようと、大工になり、やがて11歳の時に腕のいい彫刻家としてこの寺の建立に携わった。ある日、母から「病気になった。帰って来てほしい」と手紙が来たので、少年は、お坊さんに「帰りたい」と申し出た。ところが、お坊さんは「そんな事をしたら仏様がお怒りなる。仕事を続けなさい」といい、帰るのを許さなかった。やがて、母親が亡くなったという知らせが届く。少年はとても後悔した。「親孝行がしたくて大工になったのに、大工の技術を身につけたばっかりに、出来なかった・・・」。少年は斧で自らの右腕を切り落とし、天に昇っていった。このため、この扉の彫刻は、半分未完成のままになっている。


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