平壌から板門店へ

田舎の風景と高速道路

 朝8時半頃出発し、板門店へ向かう。平壌から少し離れたところで、道路をまたいで大きなゲートを作る工事をしていた。料金所のようなものではなく、記念建造物のような大きなものになりそうだ。平壌の市街地を離れるとすぐに、風景は延々と続く畑や山に変わる。岩石や土が剥き出しになったはげ山がとても多い。山頂まで開墾し農地になっている山や、果樹を植えてある山、草や灌木が少し生えていて育林中と見られる山もある。土地は酸性が強く、養分がほとんどない赤土のようだ。農地はどこも耕され、苗を植えてある畑もある。時折人が畑で農作業をしているのが見られ、農作業に牛を使っているところはあるが、機械はない。また、山羊が放牧されている光景がよく見られた。途中、小さな川や用水路などがあったが、水はなく、土砂が堆積して川底が浅くなっている。森林の過度の伐採が招いた表土の流失によるものだろう。これでは一度大雨が降ると、すぐ洪水になってしまうのも無理はない。

 ガイドのLさんの話によると、ここ黄海北道は米どころだが、94年から冷害や水害が続き、食糧事情は厳しくなっている。食事をする者は全て農作業に志願するように、という国の方針により、ガイドの人たちも農繁期には農作業の手伝いに行くそうだ。「『今は苦しいけど笑って行こう』とみんな頑張っています。」というLさんの言葉が心に残った。

 平壌からケソン(開城)まで1992年に開通したりっぱな高速道路で約160km、そこから板門店までは約8kmである。路面はいたってスムースで、車がバウンドすることもない。途中、水曲休憩所というところで休憩する。道路をまたいだ建物で、1階はトイレ、2階にもトイレ、3階は喫茶店と売店がある。時々観光バスや、観光客を乗せたマイクロバスや乗用車が止まる。高速道路にはほとんど車は通らない。中国では郊外に出るとよく屋根の上に荷物をいっぱい乗せた、ガラスも所々割れ、座席もとれたような長距離バスが地方の交通の担い手として活躍しているが、そういった車も見かけない。この国には長距離バスがないのだろうか・・・?

 開城は高麗人参の原産地だそうである。開城に近づくと、覆いをかけた高麗人参の畑が道ばたにも見えてくる。

 

プチメモ 高麗人参は育てるのに何年もかかり、土壌の養分を吸い取ってしまうので、高麗人参を栽培した畑では最低15年は高麗人参を育てられないそうだ。

水曲休憩所

高麗人参畑

板門店

 平壌を出発してから2時間15分くらいたったところで開城に入る検問がある。開城市民は休戦状態にあるので、カメラを向けないようにとガイドのLさんからお達しがある。そこから30分くらい走ると、板門店につく。まず、非武装地帯に入る前に、ゲートの傍らの建物で、人民軍兵士が模型を使って、非武装地帯の中の配置を説明してくれる。この中では、白は北朝鮮の建物、青は国連軍の建物と色分けが決まっている。ここから南北4kmの非武装地帯の見学には軍人が同行するとのことである。説明が終わると、ツアーのグループ毎に、一人ずつ並んで、「自主統一」と書かれたゲートを通る。ここからはずっと並んで行動するのかと思って緊張したが、そうではなく、すぐに列はばらけた。当時のままに保存されている停戦談判場を見学、1950年にアメリカが朝鮮戦争を起こし、停戦協議をアメリカ側から申し入れてきた等々説明を聞く。木のテーブルや椅子は当時のものだそうだ。続いて隣の停戦協定調印場へ行くと、調印文書と双方の旗がケースに入って、当時のままの机の上に置かれている。国連軍の旗は長い年月を経て色あせているが、アメリカの敵対政策は今もって色あせていないと説明がある。朝鮮側の旗は時々取り替えているのでぼろぼろになった国連の旗とは対照的に色鮮やかだ。南北分断の責任の一端は日本にもある、と兵士が強調するたび、一同シュンとなる。その隣には広い展示室がある。見学の予定には入っていなかったようで、引率の兵士は素通りしようとしたが、皆入りたそうなそぶりを見せると、どうぞというゼスチュアで、快く中に入れてくれた。電気がついていなかったので薄暗かったが、中に大きな金日成氏の肖像と、朝鮮戦争にまつわるパネルや実物の展示があった。当時のどちらの軍のものかはわからないが、小さなガラスケースに古い水筒やリュックなどが無造作に詰め込んであった。まもなく、のんびり写真を撮ったりしている私達にしびれを切らした人民軍兵士に追い立てられ、展示室をあとにする。これらの建物を囲む敷地では終始、スピーカーから「正日峰の雷」という明るい軽快な音楽が流れていた。

人民軍兵士による説明

停戦談判場

停戦協定調印場の中、手前が国連側。

 

 これは、金日成氏最期の親筆を記念碑にしたもの。共同管理区域の中にある。1994年7月7日、この書類にサインをしてから、翌日未明に亡くなったそうだ。大きな字は「金日成」、周りは国花であるモクランの花が彫刻されている。

プチメモ 北朝鮮では、現在チュチェという年号を使っている。金日成氏の誕生した1912年を元年(偶然にも大正元年や台湾の民国元年と同じ)とし、1997年(チュチェ86年)7月に逝去3周年を迎えて制定された。今年(2001年)はチュチェ90年。

 

 いよいよ会議場の区域に入る。7棟の建物があり、うち白い朝鮮の建物、と言っても銀色に近い外装のものは4棟、中央部にあるブルーの建物は国連側の3棟で、建物の中心が境界線になっている。境界線のこちら側には人民軍の兵士が立ち、向こう側には韓国の兵士がいるのが見える。最も中央にある、アメリカの会議棟を見学する。中に入るとテーブルがあり、テーブル上のマイクのコードが国境線になっている。

 また人民軍兵士に追い立てられるように会議棟を出て、板門閣のバルコニーから再び会議場区域を眺める。先ほど会議棟を見学していた時は、人民軍の警備兵も韓国の警備兵も大勢立っていたが、すっかりいなくなり、中央の建物に人民軍が2名立っているだけののどかな風景になった。しばらく見ていると、左端の建物から人民軍の兵士が2名出てきて、中央にいた2名と交代、非番になった兵士は左端の建物に入っていった。そこが詰所になっているのだろう。

会議場区域、向こう側に韓国側の立派な建物が建ち、その左前方の石碑には「自由の家」と書かれていた。

朝鮮側の建物、「板門閣」

コンクリートの線が国境

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