開城第2日(1) 恭愍王陵〜王建王陵 

恭愍王陵

 開城の南西14kmのところにある、高麗31代恭愍王の墓である。昨日ロレツの回らないLさんが「コンビニ」と言っているように聞こえたのはここの事だった。まんじゅう型の同じ大きさの墳墓が並んでいる。一つは恭愍王の墓、もう一つは王妃の墓である。1365年、恭愍王は王妃が亡くなると、悲しみの中、自らこの双墓を設計、7年かけて建設を指揮し、できあがると間もなく自らも亡くなり、この墓に入ったそうだ。あの世でも魂が行き来できるよう、墓の中は穴でつながっている。1950年、日本の盗掘に遭い、墓の後部が爆破され、牛車11台分の宝が持ち去られたそうである。

周囲に配された羊と虎がかわいい。羊は人々にやさしく、虎は敵と勇ましく戦うことの象徴。

プチストーリー 恭愍王陵から南をながめると、「アッツァ(しまった!)山」という山がある。恭愍王は墓の場所選びを多くの臣下に命じた。そして自ら現地視察をし、その場所が気に入らないと、その臣下を殺した。王が額に手をやるのが、「殺せ」の合図になっている。今恭愍王陵のある場所からの眺めを、王はたいそう気に入った。が、その日は暑くて何度も額の汗をぬぐってしまった。それを見た家来は「殺せ」の合図と思い、よい場所を勧めた臣下を殺してしまった。後日その臣下に褒美をつかわそうとしたがあとの祭り、しまった!ということで、その山は「アッツァ(しまった!)山」と名付けられた。


王建王陵

 朝鮮初の統一国家、1100年前の高麗始祖の墓である。王建は918年に高麗を建国、この陵墓は933年につくられた。ここも日本の盗掘に遭い、現在は遺体と宝物を置く台座しか残っていない。墓の周囲には魂を照らすための灯籠、供物を置く9.7tの石の台、虎の石像4体があり、墳墓側面には着物を着た12支の動物たちのレリーフがある。

王権王陵入り口より

蛇のレリーフ

 ところで、これらの陵墓の門を出たところでは、必ず地べたに絵や刺繍を並べて売っているおじさんがいる。刺繍はハンカチ大のものが1枚1000円くらい、絵は、じろじろ見ていたら、「2枚買ったら安くするよ」みたいな事を言って盛んにすすめる。私達が立ち去ると、そのおじさんも撤収していた。この人は自営業者なのだろうか。


高麗博物館

 もとは高麗時代の官僚育成機関「高麗成均館」の建物である。宿舎、図書室、講堂などが残っている。

 高麗時代の農機具、硯、貨幣、武器、磁器、青銅器、瓦、銀器、チマチョゴリ等が展示されている。当時の奴隷の値段は、牛は木綿400匹、男性は100匹、女性は出産して増えるので、男性より高い120匹である。ここには世界最古、11世紀の活字と言われるものが展示されている。グーテンベルグより300年早いのだそうだ。

 新緑をたたえた木が生い茂り、しぶい瓦や木造建築に囲まれていると、日本の神社やお寺の境内にいるような雰囲気だ。


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