『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)
第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第4節 「特定」の諸相


〔注1−39〕

   ある名詞句について「何らかの在り方の特定」を実現するためには、その傍らに制限的名詞修飾要素を添えるという方法もあり、その名詞句について叙述するという方法もある。"A lion is sleeping in the cage."の場合のように、発話全体によって"A lion"について「特別な個別性」という在り方の「特定」が実現されることもあった([1−31]参照)。

   ところで、文[命題]については意味論的観点から次のように語られることがある。

すべての断言的言表(肯定でも否定でも)はある種の固有性をある対象に付与するものとして記述されるべきであるように思われる。(デュクロ/トドロフ『言語理論小事典』、「言表の意味組織」の項、p.422)
   この場合、主辞と述辞については次のように語られる。
その対象について何かが確言されているその対象を指示する論理的logiqueと呼ばれる主部sujetと、確言された固有性を示す述部predicat(ibid)(太字体は原文通り)
   あるいは次のようにも。
命題[proposition]には必ず二つの項があることを見て取るのはたやすい。一つはそれをめぐって確言や否定が行われることになる項、これは主辞[sujet]と呼ばれる。もうひとつは、確言や否定の内容となる項であり、これは賓辞[attribut]もしくは述辞[Praedicatum]と呼ばれる。
La Logique de Port-Royal、p.105。更にGrammaire de Port-Royal, p.24, p.49参照)。
   つまり、文[命題]においては、主辞である対象について、述辞によって何ごとかが確言されるのである。例えば、
《ピエールだけがマリーしか愛していない》Seul Pierre n’aime que Marie.
(『言語理論小事典』,「言表の意味組織」の項、p.423)
   という文[命題]においては、ピエールについて何ごとかが確言されている。その結果、この文の受け手[読み手]は、この文の主辞ピエールは実は「マリーしか愛していない(ただ一人の人物である)ピエール」(日本語ではこのように表現できるという点については[1−31]参照)であることを告げられることになる。この場合、マリーについての確言を受動変形によって実現しようとすると、「《マリーだけがピエールにしか愛されていない》Seule Marie n’est aimée que de Pierre.」(ibid)となり、この文は、もともとの能動文とは「同じ意味を(また同じ真実性の条件も)もっていない。」(ibid)ということになる。なぜかと言えば、
もし文法的主部が、それについて何かが断言されているその対象を示すのならば説明がつく。つまり、
(a)  ピエールだけが《マリーしか愛していない》n’aime que Marieという特性をもつただ一人の男だ、と断言することと
(b)  マリーが《ピエールにしか愛されていない》という特性をもつただ一人のひとだと断言することとは当然異なっているからである。(ibid)
   しかし、マリーについての確言を受動変形によって実現しようとするのではなく、それをもともとの能動文に求めれば、この能動文の読み手は、この文の目的辞マリーは実は「ピエールが愛しているただ一人の女性であるマリー」であることを告げられることになるのであり、このことは即ち、マリーについて何らかの確言が既に行われているということなのである。つまり、文においては、「その対象について何かが確言されているその対象」(ibid)である主辞について何かが確言されるだけではなく、主辞について行われた確言の内容である述辞に含まれている別の対象についてもまた、何ごとかが確言されていることになる。

   角度を少し変えて眺めれば、論理的主辞や心理的主辞が語られる場合、「Couturat (Revue de Métaphysique, Janvier, 1912, 5)の見解に拠れば、"Pierre donne un livre à Paul."〈ピエールはポールに本を一冊やる。〉という文においては、Pierre, livre, Paulという三つの語はすべて『それらの関係を表現する動詞辞の主辞』」ということになる(Jespersen, The Philosophy of Grammar, p.149)し、「"he was loved by his father"における"his father"」も主辞ということになる(ibid)。

   文という場で行われている確言のこうした在り方が密かに感知されているからこそ、既に本文でも引用した次のような記述が成立し得たのである。

aには、特定のものを示す用法と、不特定のものを示す用法との二つがある。例えば、I saw a bench in the shade.〈日陰にベンチが一つあるのが見えた。〉におけるa benchは、話者が実際に見たベンチが存在していたわけで、必要があれば、これがそのベンチだと言って示すこともできるはずである。(安井稔『改訂版 英文法総覧』11.1.2)
   "I saw a bench in the shade."という文は、文の主辞「私」に関して何ごとかを確言してもいるが、ここでは同時に、"a bench"についても、「日陰にあるのを《話者》は見た」という確言が行われてもおり、こうした確言の在り方が密かに感じ取られていたがゆえに、"a bench"(の"a")は特定のベンチを指示していると語り得たのである。

   安井稔『改訂版 英文法総覧』は「関係代名詞節と情報構造」の一節の中で次のような記述を残している。

関係代名詞節は、先行詞の名詞によって担われる情報を旧情報として提示することができる働きをもっている。したがって、関係代名詞節を伴わないと主語として用いることができない名詞も、関係代名詞節を伴うと主語として用いることができるということが生ずる、次の(1)と(2)の文とを比べてみることにしよう。
(1)*A postcard was beautiful.
(2)The postcard which John received from Mary was very beautiful.
 〈ジョンがメァリーからもらった絵葉書はとてもきれいだった。〉
上の(2)の文と比較して考えるべきなのは、次の(3)である。
(3)John received a postcard from Mary. The postcard which he received from Mary was very beautiful.
〈ジョンはメアリーから一通の絵葉書をもらった。メアリーからもらったその絵葉書はとてもきれいだった。〉
(2)の文は、潜在的には、(3)の第一の文をその前提として含んでいることがわかるであろう。」(36.6. 関係代名詞節と情報構造)(下線は引用者)
   しかし、実際のところ、"John received a postcard from Mary."という発話に続けて語り得るのは、(3)の第二文よりむしろ、"The postcard(あるいはIt) was very beautiful."という発話である。このとき、話者の念頭では既に、"The postcard(あるいはIt)"について、「メアリーからもらった」と語り得る("The postcard, which I received from Mary")のである。"The postcard"の"the"は特別な絵葉書を指示するのだという話者の思いは、ここでは、"John received a postcard from Mary."という言語表現を媒介にして受け手にも伝わる。"The postcard(あるいはIt) was very beautiful."に先行する"John received a postcard from Mary."という発話においては既に、主辞"John"について何ごとかが確言されていたのみならず、述辞中の名詞句"a postcard"についても何ごとかが確言されていたのである。

   もし仮に、"John received a postcard from Mary."という発話に続けて"The postcard which he received from Mary ……"と語り得る、といったような記述を残そうとすれば、以下のごとき記述になろう。

   "John received a postcard from Mary."という発話に相当する情報が(この発話が音声によってあるいは文字によって既に表現されているのではなく)話者の念頭にあれば、話者は自信を持って"The postcard(あるいはA postcard)which he received from Mary ……"と語り得るはずである。なぜなら、既に与えられている情報をもとに、話者は"postcard"と"which he received from Mary"は「融和不可能ではない」([1−31]中のLa Logique de Port-Royalからの引用参照)と判断し得るが故にである。"The mountain looked golden." という発話に相当する情報が念頭にある場合、話者がそこに危さを感じることなく"The golden mountain …."〈その黄金色の山は…〉と発話し得るのは、既に与えられている情報をもとに、"mountain "と"golden"は「融和不可能ではない」と話者には判断し得るが故であるのと同じようにである。唐突に"The flying man ….."〈(その)空飛ぶ人は…〉と発話するときに感じる足元の危さとはまるで異なる足元の堅固さをそこに感じながら話者は"The golden mountain …."と発話し得るはずである。

   とは言え、注意すべき点はある。

   なるほど、"The golden mountain …."という発話において話者は、" mountain"と"golden"は「融和不可能ではない」という判断を密かに下していると言い得るとしたら、話者の念頭には"The mountain looked golden." という類の発話に相当する情報があると推測してもいいかもしれない。しかし、このことから、話者は、既に与えられている一定の情報をもとに、A(形容詞)とB(名詞)は「融和不可能ではない」と判断し得る場合にのみ、「A+B」と発話し得るのであるという判断を導くわけには行かない。話者がそこに「融和不可能性」を認めている場合でも、例えば、"The(A) flying man ….."〈(その)空飛ぶ人は…〉と発話することは可能である。ただし、受け手の視点からは、"flying"と"man"は「融和不可能である」と判断せざるを得ないが故に、それらから成る単一の合成語句"The flying man"に理性的思惟の対象を見出し難く、それゆえ、もしそれについて何ごとかが語られるとしたら、そこでは話者の恣意やら空想やらが語られていると受け手は判断することになるかもしれない。

   "The mountain looked golden." という発話に相当する情報が念頭にある場合、話者はそこに危さを感じることなく"The golden mountain …."〈その黄金色の山は…〉と発話し得る、といった事情が、『改訂版 英文法総覧』では次のような言い方で説明されている。

叙述用法の場合は、名詞と形容詞との間に「主部+述部」の関係が認められるが、限定用法の場合は、その関係が、直接的には、ない、ということが重要である。二つの用法(形容詞の限定用法と叙述用法…引用者)の関係については、The boy seems honest.のような叙述用法がもとで、これがあれば必ず、an honest boyのような限定用法が可能である、という関係が重要である。冠詞などの限定詞をDで、名詞をN、形容詞をAで表せば、「DN seemed A.があれば、原則として、DANがある」ということになる。
The birds seem beautiful.→ the beautiful birds.
 〈小鳥たちはきれいに見える。→きれいな小鳥たち〉
The snake seems dangerous.→ every dangerous snake.
 〈そのへびは危険なように思われる。→すべての危険なへび〉
 The man seemed elderly.→an elderly man
 〈その男の人は年輩のように思われた。→年輩の男の人〉(10.1.1)
   「限定用法の場合は、その関係が、直接的には、ない」とは、「限定用法の場合、名詞について何ごとかが確言されているわけではない」ということだ。"every dangerous snake"について言えば、「(すべての)ヘビ」について「危険である」と確言されているわけではないのである。蛇については、人間にとって危険であると判断される場合もあるし、そうではない場合もあるとでも言うしかないからである。「直接的には、ない」の「直接的には」が、「DN seemed A.があれば、原則として、DANがある」の記述中の"seemed"の由来である。この記述は、DN seemed A. に相当する情報が既に話者に与えられている場合、DN(名詞句)とA(形容詞)は「融和不可能ではない」と判断することが相対的に容易であり、それゆえ、足元の堅固さをそこに感じながら話者はDANと発話し得る、ということである。

(〔注1−39〕 了)

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