『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)
第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第4節 「特定」の諸相


〔注1-31〕

   "the bench"へと既に成り代わっている"a bench"について受け手は「それが日陰にあるのを《話者》は見た」["The bench, which he saw in the shade, …"]と語り得る、ということから、日本語表現(「日本語においては、すべての関係詞節がその先行詞の前に来るので、主節と関係詞節との順序関係によって制限的関係詞節と非制限的関係詞節とを区別することは、構造上できない。」(『現代英文法辞典』"non-restrictive relative (clause)"の項))を用いた場合、「それが日陰にあるのを《話者》が見た一つのベンチ」と記述し得るからといって、このことは、"I saw a bench in the shade."という発話全体によって"a bench"が「限定(あるいは制限)」されたということではない。「この発話をピリオドまで辿り終わった時点で、受け手はこの"a bench"についてすでに何ごとかを語り得る」ということは、この発話全体によって、"a bench"について何ごとかが語られたということ、こうして、その名詞句に内包されている属性の一端が明かされたということである(このことは、「(話者が実際に見た)ベンチが存在していた」ということでもないし、この"a bench"は「現実世界に存在している」ということでもない。現実世界に存在する事物にのみ属性が内包されているわけではないし、それらについてのみ何ごとかを語り得るというわけのものではない)。

   こうした事情はこの発話の主辞"I"にも当てはまる。この発話全体によって、"I"が「制限」されたのではなく、"I"について何ごとかが語られたのであり、そこに内包されている属性の一端が明かされたのである。ただ、名詞句に内包されている属性の一端が明かされることで、外見的には、その名詞句の《正体(の一端)》が明かされたように思えるかもしれない。結果的に、その名詞句の指示内容を絞り込むような「制限」がそこで行われているように感じられるかもしれない。だから次のように語られることにもなる。

5.肯定命題[propositions affirmatives]においては、主辞は賓辞[attribut]を自らの方に引寄せる、即ち、賓辞を限定する[détermine]ということは、論理学の極めて真実なる規則である。このことから、次の推論、「人間は動物である。猿は動物である。それゆえ猿は人間である。[L'homme est animal, le singe est animal, donc le singe est homme.]」は誤っているということになる。というのも、「動物」は最初の二つの命題においては賓辞であって、それら二つの命題の二つの別なる主辞は二つの別なる種類の「動物」へと限定される[se déterminent à]からである。(Grammaire de Port-Royal, pp.58--59)(下線は引用者)
   賓辞が主辞によって「限定」され、「人間は人間という動物である。猿は猿という動物である。」ということになれば、「それゆえ猿は人間である」という結論の誤りは明白ということになる(「猿という動物は人間という動物である」という命題が偽であるのは明白である)。Grammaire de Port-Royalのこうした考え方は「いわゆる同一性の論理学」を批判的に吟味するJespersenの手口に極めて近づいているように見える。
後者(ライプニッツらの「いわゆる同一性の論理学」)に従えば、"Peter is stupid"は"Peter is a stupid Peter"と分析されるべきなのである。あるいは、述辞の実質は主辞の実質に影響を及ぼすということも主張されており、我々は"Stupid Peter is stupid Peter."と言うことによって初めて完全な同一性を獲得するのである。このやり方では、しかしながら、話者から聞き手への情報伝達の特質が失われる。"is stupid Peter"という語句によって、聞き手は("Stupid Peter is stupid Peter. "という文の)冒頭に耳にした以上のことは何一つ伝えられていない。その結果、この文には全く何の価値もない。それゆえ、一般の人々は"Peter is stupid."という表現形式の方を好むのが常である。"Peter is stupid."という表現によって、Peterは"stupid"と評されるような存在(そしてことがら)の内に位置を占めるのである。(Jespersen, The Philosophy of Grammar, p.154)
   更に次のような記述。
一部の慣用的語法において、我々は"is"を同一性[identity]を含意すると見なす傾向もあるようである。例えば"to see her is to love her."とか"Seeing is believing."という場合である。しかし、同一性は現実のものというよりむしろ外見上のものである。両項を入れ替えることは不可能であろうし、そうした諺の論理的な意味は単に次のようなものである。つまり、眼で見ることは直ちに愛や信につながる、あるいは、愛や信をもたらす。それゆえ、"To raise this question is to answer it."〈この問題を取り上げることはそれに答えることである。〉などとも言えるのである。(ibid)
   "A is B."の場合、AとBは相等しく、Aについては「BというA」、Bについて「AというB」と言えるように思えるのは、つまり、この発話全体によって、AとBについて何らかの「制限」が行われているように見えるのは、外見上のことなのである。

   Jespersenの記述の趣旨に沿って "L'homme est animal, le singe est animal"を吟味してみれば、それぞれの命題の賓辞「動物」は「人間という動物」「猿という動物」というふうに「限定」されているのではなく、ここでは「人間」と「猿」の属性の一端が明かされているのである。「人間は動物に属する」「猿は動物に属する」というふうに。従って、次のような結論を導くことも可能だ。「それゆえ、動物に属するという点では、人間はサルに等しい。」

   何ごとかが語られることによって属性の一端が明かされることは、いわば、目には見えぬ線で描かれた輪郭の内側に彩色が施されることで、既に在ったにもかかわらず気づかれなかった輪郭が見て取れるようになるのに似ている。外延が新たに画定されるというよりむしろ、既に外延が画定されている領域の内側が充填されるのである。

   "I saw a bench in the shade."という発話をピリオドまで辿り終わったときには受け手は「日陰にあるのを《話者》が見た一つのベンチ」と語り得る、という点について、別の観点から解説を加えておく。

   まず、@"I saw a bench in the shade."がこの発話(@)の話者による確言であるのと同じように、A"The bench, which he saw in the shade, …"(which節は非制限的関係詞節)もこの発話(A)の話者による確言である。

   ところが、"The bench which he saw in the shade …"(which節は制限的関係詞節)の場合、修飾要素を抱えているとは言え、提示されているのはいずれにせよ「ベンチ」という一対象である。文の構成要素(命題の項)とはなりうるが、これだけでは文は成立せず、したがって確言が行われているわけでもない。

   以上の点を一部Chomskyの記述を援用しつつ敷衍する。Chomskyは制限的関係詞節と非制限的関係詞節に関するLa Logique de Port-Royalの見解を紹介する中で、「説明的関係詞節を含む文に限らず制限的関係詞節[restrictive relative clauses]を含む文もまた、命題[propositions](即ち、文の意味を構成する抽象的対象)の体系を基礎にしている。」(Cartesian Linguistics, p.38)と述べ、次のように続ける。

説明的節[explicative clause]の場合、基底にある判断が実際に確言されている一方、限定的節[determinative clause]の場合、関係詞を先行詞に置き換えることで形成される命題は確言されているのではなく、先行詞である名詞と一体になって単一の複合観念[single complex idea]を構成している。(ibid)
   例えば、"men, who were created to know and love God, ….."という「説明的節」を含む文には、"men were created to know and love God"という命題が含意されている。従って、次のような言い方もできることになる。
かくして、説明的関係詞節は連言肢[conjuntion]の本質的特性を有している。(ibid)
   ここでの"conjuntion[連言]"は"conjunct[連言肢]"の謂と理解する。連言とは連言肢の結合のことであり、この結合で作られた命題が連言命題である(近藤洋逸、好並英司『論理学概論』p.51)からだ。上記の例について言えば、説明的関係詞節"who were created to know and love God"と述部"……"がそれぞれ連言肢に相当し、この文、即ち連言命題を構成している。

   また、"les hommes qui sont pieux sont charitable [men who are pious are charitable]"に見られる「限定的節」の場合、関係代名詞を先行詞に置き換えると確かに命題 [men are pious] が出現する。しかし、「限定的節」("men who are pious")の場合、こうした命題が確言されているわけではなく、そこで表現されているのは、「人間の観念」と「敬虔の観念」は「融和不可能[incompatible]ではないと精神が判断を下しているという判断に過ぎない」(La Logique de Port-Royal, p.114)のである(ちなみに、「人間の観念」と「不死の観念」は融和不可能である)。「人間の観念」と「敬虔の観念」が「融和不可能ではない」以上、「敬虔な人間」という「単一の複合観念」を精神は思惟の対象となし得るのである。かくして、「限定的節」の場合、命題の項を構成し得るようなある対象が提示されることになる。こうした点についてLa Logique de Port-Royalは次のように述べる。

"les hommes qui sont pieux sont charitable [men who are pious are charitable]"と発話する場合、人間一般について確言しているわけでも、敬虔であるようないずれかの特定の人間について確言しているわけでもない。そうではなく、精神は、"pieux"の観念と"hommes"の観念とを合わせて結びつけ、全体として一つの観念をつくりあげ、"charitable"という属性[attribut]はこの全体的観念に適合すると判断しているのである。かくして、この付随的節[proposition incident]に表現されている判断全体は、"pieux"の観念は"hommes"の観念と融和不可能[incompatible]ではなく、かくして、精神はそれら("pieux"と"hommes")を一つの全体として考察し得るし、さらにまたこの結びつきに基づくといかなることがらがそれらに適合するのかを精神は検討し得る、と精神が判断する根拠となる判断に過ぎない。(p.114)
   こうした記述を参考に、「制限的関係詞節[restrictive relative clauses]を含む文もまた、命題[propositions](即ち、文の意味を構成する抽象的対象)の体系を基礎にしている」(Cartesian Linguistics, p.38)という点を確認しておく(ちなみに、仏語のpropositionsは「命題」でもあり「節」でもある)。「"pieux"の観念は"hommes"の観念と融和不可能[incompatible]ではない(と精神は判断する)」ということは、例えば("men are pious"ではなくて)"men can be pious"という命題であれば成立可能であるという判断が密かに下されているということでもある。それゆえ、"les hommes qui sont pieux sont charitable [men who are pious are charitable]"のような命題については次のようにも述べ得るのである。
私が思うに、こうした命題[propositions]の中には、その属性は関係詞"qui"が関係する主体に実際に適合するということについてのものではないが、潜勢的に適合するということについてのある暗黙の潜在的な確言が常に存在している。(La Logique de Port-Royal, p.118)
   説明的関係詞節の場合のように顕在的に確言が行われるわけではないが、制限的関係詞節の場合、暗黙に潜在的にではあれ、確言は行われていると感じられている。つまり、「制限的関係詞節を含む文もまた、命題(即ち、文の意味を構成する抽象的対象)の体系を基礎にしている」と言い得るのである。既に、"Dieu invisible a créé le monde visible. [Invisible God created the visible world.]"は" Dieu, QUI est invisible, a créé le monde, QUI est visible."(Grammaire de Port-Royal, p.50)とも表現されることを紹介した([1−26]参照)

   「単一の複合語句」と命題とは何かが違っているという感じは次のように表現されることもある。

一方("a red rose"という結びつき…引用者)は未完結であり、続きを期待させ("a red rose"、それで、そのバラがどうしたの?)、他方("the rose is red"という結びつき…引用者)は結合された全体("the rose is red")を形成するほどに完結している。前者は生気がなく[lifeless]身動きの取れない結合であり、後者はそこに生気がある。
(Jespersen, The Philosophy of Grammar ,p.115)
("junction"と"nexus”の違いについては[7−8]参照)
   時に、修飾要素を伴う名詞は一語に収斂することもあろう。「身動きの取れない結合」である"a red rose"を単一の名辞で表現し得るかどうか寡聞にして承知していないが、「付加詞と一次語は全体として一つの名辞を、即ち、おそらくは一語の名詞で呼んでもよかったようなものに代わる合成語を形成する。"new-born dog"の代わりに"puppy"と言うことはよくあるし、"silly person"の代わりに"fool"と言うことはある。」(ibid, p.116)のである。

   かくして、文(命題)と複合語句の対照は、時には、文(命題)と一語の対照へと姿を変える。

(〔注1−31〕 了)

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