『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)
第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第5節 「脈絡内照応性」と「カンマ」の関係


〔注1−40〕

   冒頭の名詞句"An intruder"については次のように言える。"An intruder"は、この名詞句について話者は何ごとかを語り得る(実際に語っている)という点で、話者にとっては既知である。"An intruder"には(話者の念頭にしかない)脈絡内で「どの個体」に照応するのかという「脈絡内照応性」が既に実現されていると話者には判断されているのである。しかし、"An intruder"にはこうした「脈絡内照応性」が既に実現されているという話者の思いを受け手に伝えるのに必要な情報は受け手に示されていない。それ故、そのような話者の思いは受け手には伝わらず、この発話の受け手〔読者〕にとってこの名詞句は既知ではない。

   「既知」は名詞句についてのみ当てはまる概念ではない。「既知」についての一般的事情は次のようなものである。

   既知であるとかないとかを語ろうとする場合、記述の視点を定めることを求められる。以下では、括弧内の問いは甲の発話、その応答は乙の発話である。

(Where are we going today?)
We're going to the RAces. [3](CGEL, 18.11)(下線は引用者)
   問いの話者〔応答[3]の受け手〕にとって、"We're going"は既知の情報であり、下線部が新情報である。記述の視点を曖昧にしたまま記述を行おうとすると、「"We're going to the races."だけを元にしたのでは、この発話のどの部分が既知の情報でありどの部分が新情報であるのか、判断のしようはない」といった混沌とした記述が生じる。次のような解説によって混沌に秩序がもたらされる。
括弧の中の問い(より幅広い観点から言えば、脈絡[context]に関する我々の知識)だけが、情報の内のどの程度の部分が「既知である['given']」と見なされ、また、かくしてどの程度の部分が新しいと見なされるのかに関する手掛かりを与えるのである。(ibid)
   文字で表現されたある発話の話者は甲であり、その発話の受け手は乙であり、甲から乙に向けられた発話を読者は第三者の立場で(あるいは、乙の立場に自分を置いて)目の前にしている、といった状況設定が密かに行われていながら、設定されている状況が読者にあらかじめ説明されることなしにあれこれ論じられるのを目の前にすると、その記述の視点は超越的であるようにしか感じられなくなる(独り言であるようにしか聞こえないのである)。
出現動詞(come, appear, happenなど…引用者)が述語動詞として用いられている文の場合を除くと、文の主語となることができる典型的な名詞句は、旧情報を表す名詞句である。旧惰報を表す典型的な名詞句には、二つの種類のものがある。一つは、主語が「the+名詞」の形をしている場合である(固有名詞の場合もこれに準ずる)。もう一つは、主語が総称人称の名詞句である場合である。
(1)
John had lunch at eleven. 〈ジョンは11時に昼食をとった。〉 
The lunch was excellent. 〈その昼食はとてもおいしかった。〉
The box was empty.〈その箱は空でした。〉
(2)
The beaver builds dams.〈ビーバーはダムを作る。〉
A box is a container.〈箱は入れ物です。〉(安井稔『改訂版 英文法総覧』, 36.4)(下線は引用者)
(「旧情報」については次のように説明されている。「主題を成す部分は旧情報、すなわち聞き手にもわかっていると考えられている情報を示し、それについて述べる部分は新情報、すなわち聞き手にとって未知であると考えられている情報を示すことが多い。」(ibid, 36.1))
   この場合、「文の主語となることができる典型的な名詞句」の条件について語りたいのであれば、「それについて何ごとかを語り得ると話者が判断している名詞句」で十分である。主辞を「それをめぐって確言が行われる対象」(Grammaire de Port-Royal, p.24)([1−39]参照)と言い表すこともできるのである。

   発話中のどの部分が旧情報でありどの部分が新情報なのかといった点に言及するのであれば、せめて次のような場面を設定すべきである。

(1)
甲:What's on today?
乙:We're going to the RAces. [1]
(2)
甲:What are we doing today?
乙:We're going to the RAces. [2](CGEL, 18.11より。「甲」「乙」、及び下線は引用者)
   甲の視点からは、それぞれ下線部が新情報である。"We're going to the races."という発話を示すだけで、いずれの部分が旧情報であり新情報であるのかを語ろうとしたらあまりにも無謀であるし、そもそも語りようがない。話者が提示する情報は、受け手が有する知識の多寡に応じて、「新」と「既知」を両極とする情報伝達力の尺度上で様々な値をつけられた上で受け手に届く。

   話者が、受け手にとって"Joan"は「既知」(情報伝達力は最少)であり、"indigestible"は「新」(情報伝達力は最大)であると思いなして実現した発話"Joan finds seafood indigestible."の場合でも、話者が受け手の知識の範囲を正確に見積もって誤りがない場合を除いては、受け手側に生じる了解は一様ではない。

seafoodという語は中間的である。しかし、ジョンは海産物を避けることを知っている聞き手にとって、その語は「既知の」極[pole]に向かう。ところが、ジョンは消化不良に苦しんでいることを知っている聞き手にとっては、その語は「新しい」極に近いところにあるかもしれない。その一方、もし聞き手が「ジョンというのは誰のことですか」と尋ねざるを得ない場合、話者は、自分が「最も既知である」と見なしていたことについてさえその判断が誤っていたと知ることになる。(CGEL, 18.08)
   記述の視点を定めることのないまま語ろうとすると次のような誤解が生じる。
次のような文が用いられることは、通例、ない。
    A box is empty.
    A teacher is tall.
これらの文は、その述語動詞が出現を表すものではなく、また、その主語が旧情報を表すものでもないからである。(安井稔『改訂版 英文法総覧』, 36.4)
   「用いられることは、通例、ない」として挙げられている文が成立しにくいのは、「その述語動詞が出現を表すものではなく、また、その主語が旧情報を表すものでもないから」ではない。また、A box is a container.〈箱は入れ物です。〉(ibid, 36.4)が成立するのは、「その主語が旧情報を表すものであるから」でもない。A box is a container.が成立するのは、A box(箱というもの)について語り得ることがらの一端が語られていると受け手は判断し得るからである。A box is empty.が成立しにくいのは、A box(箱というもの)について語り得ないことがらが語られているとと受け手は判断せざるを得ないからである。今そこにある幾つかの箱の内の一つA box(一つの箱)についてであれば、A box is empty.と語り得るであろう。人口に膾炙しすぎている嫌いのある一句、「語り得ぬことについては、沈黙しなくてはならない。」(ヴィトゲンシュタイン、山元一郎訳 『論理哲学論』、7)(この一句の、ヴィトゲンシュタインに則した解釈については留保する)のである。

(〔注1−40〕 了)

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