『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)
第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第5節 「脈絡内照応性」と「カンマ」の関係


〔注1−49〕

   次のような記述を見る限り、カンマが重要な情報であると意識されているとは判断し難い。

Here are my letters announcing my intention to start.(ここにあるのが私が始めたいという意向を記した手紙です)において、斜体の部分はmy lettersを形容詞的に修飾する。この場合はmy lettersは文の主語でもあるが、announcing以下は分詞構文とは見なさない。
同様に、I pursued my walk to an arched door, opening to the interior of the abbey. (私は、僧院の内部へ通じている弓形の戸口へ向かって歩を進めた)で、斜体の部分はdoorを形容詞的に修飾し、(異例の)分詞構文ではない。
(清水護編『英文法辞典』,Participial Construction (分詞構文)の項)(下線は引用者)
   カンマの有無という違いのある二箇所の-ing句(斜体部)は、等しく直前の名詞句を「形容詞的に修飾する」と記述され、修飾の在り方が区別されることはない。カンマは紙魚に近い扱いを受けているかに見える。

    一文中に制限的関係詞節と非制限的関係詞節を含んでいる以下に示す仏文の英訳例について、指摘されてしかるべき点をChomskyは明解に指摘している。

   "La doctrine qui met le souverain bien dans la volupté du corps, laquelle a été enseignée par Épicure, est indigne d'un philosophe." (La Logique de Port-Royal, p.114)(下線は引用者) 〈至福を肉体的快楽に置く教説、これはエピキュロスの教えになるものであるが、哲学者には似つかわしからぬものである。〉の英訳としては誤訳であることが明白なDickoff-Jamesの英訳"The doctrine which identifies the sovereign good with the sensual pleasure of the body and which was taught by Epicurus is unworthy of a philosopher." (Cartesian Linguistics, 注71)(下線は引用者)をChomskyは次のように評している。

しかし、この翻訳では、説明的関係詞節"which was taught by Epicurus"が、当然のことながら、最初の制限的節"which identifies . . ."と同じ資格で並んでいると受け取られることなろう。そうなると、この例の眼目が失われる。(ibid, 注71)
   Dickoff-Jamesの英訳にChomskyは次のように手を加えている。
The doctrine which identifies the sovereign good with the sensual pleasure of the body, which was taught by Epicurus, is unworthy of a philosopher.(ibid, p.37) (下線は引用者)
   このような例の場合、カンマが紙魚ではないと認識しているだけでは適切な了解には至れない(実際には、ここではカンマの有無は瑣末な点である。「カンマの有無」という点については[1−26]参照)。定冠詞"la"に導かれた"La doctrine qui met ….."という名詞句が「話者と受け手に共有されている文脈的[contextual]知識あるいは一般的知識の範囲内で唯一的に[uniquely]特定され[identified]得るものに言及している」(CGEL, 5.27)ということが、何らかの原因(何が原因であるかは明白である)で、Dickoff-Jamesには伝わらなかったのである。

(〔注1−49〕 了)

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