『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)
第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第4節 「特定」の諸相


〔注1−26〕

   受け手が何かしらの判断を下し得るためには、"a red rose"を構成要素とする発話が与えられるか、(その発話だけでは脈絡が不足であるような場合には)更にそのような発話が一定の脈絡の中に置かれる必要がある。例えば、「ある人が一輪の赤いバラを目にした瞬間に"A red rose."と口にした。」のように。このような脈絡が示されれば受け手には次のような判断が可能である。

   ここでは"A red rose."という発話は、「一輪の赤いバラ」を話者が知覚したということが言語表現に置き換えられたものである。その瞬間のそのバラは話者にとっては世界に一本きりの今そこにあるバラ[a single and unique rose]であり、"a red rose"は話者の眼前にある一本のバラと一対一対応する(ただし、この"a red rose"の「実在性」はここでは等閑に付して差支えない)。ここでは"a red rose"の指示内容は既に特定されており(この"a red rose"とは「話者が目にした一輪の赤いバラ」のことである)、指示内容の絞込みが行われる必要も、その他のバラが除外される必要もない。"red"という形容詞は、「制限的形容詞[limiting adjective]」として、「名詞によって表された観念の充当性[application]を、その部類[class]の内の1ないし2以上の個体へと、あるいは、全体の内の一部ないしそれ以上の部分へと制限する」(CURME, Parts of Speech, 8)([1−18]、及び本文の続く記述参照)働きをしているとは判断し難い。ここでは発話行為はその場にいるかもしれない受け手を目掛けての「(客観的)情報伝達」というよりむしろそのような聞き手の存在を必ずしも前提とはしていない「(主観的)自己表現」である(そのバラが実際には橙色あるいは紫色であったとしても"A red rose."という発話は些かの支障もなく成立し、言語表現としての適切さは損なわれない。目にした一輪のバラの色彩について話者の判断に錯誤があったとて、言語表現の適切性は毫も揺らぐものではない。第一章第3節参照)。言語行為は外向的というよりむしろ内向的である。「諸感覚によるあるいは悟性による知覚内容を表出すること」と言ってもいい(ChomskyはJames HarrisのHermesについて語る中で、ハリスによれば「二種類の言語行為があることになる。言明すること、即ち、「諸感覚によるあるいは悟性による知覚内容を表出すること」、あるいは、「意志を表出すること」、即ち、問う、命ずる、請う、あるいは願うことである。」(Cartesian Linguistics, pp.31--32)と述べている)。こうした発話には、時に「感情の力強い表現[a strong expression of feeling]」(CURME, Syntax, 6-B)、あるいは「いっそう情感豊か[more emotional]」(Jespersen, Essentials of English Grammar, 9.2.2)とも評価されるような要素が潜んでいる([1−18]及び第一章第3節の【付記】参照)。話者はそのバラを目にした瞬間、"A red rose."の代わりに"A rose."と口にしてもよかった。"A rose."と対照すると、"A red rose."という表現はいっそう情感的であるように感じられる。話者の眼前にあるバラは、既にそこにあるということによって、「赤い」という属性との関連においては、話者にとって十分に既知であるような対象であり、"red"は"rose"を「名詞によって表された観念の充当性を、その部類の内の1ないし2以上の個体へと、あるいは、全体の内の一部ないしそれ以上の部分へと制限する」(CURME, Parts of Speech, 8)ことはない。

   上記の脈絡の中に置かれた"A red rose."の場合、バラは話者に現前していることが条件になるが(既述のように、そのバラの「実在性」は等閑に付して差支えない)、例えば、遍在[omnipresence]をその属性とする《神》の場合、時間と空間の制約下にある類の現前という条件は無用であろう。「眼には見えない[invisible]」という属性との関連においては、話者にとって《神》は十分に既知であるような対象である。そのような《神》については、" Dieu invisible."という情感的発話が成立するであろう。 関係詞節を用いた表現に置き換えれば、"Dieu, qui est invisible."となり、非制限的関係詞節が出現する。"Dieu invisible a créé le monde visible.[Invisible God created the visible world.]"は"Dieu, QUI est invisible, a creé le monde, QUI est visible."(Grammaire de Port-Royal, p.50)とも表現されるのである。現代フランス語の正書法に則って表記が改められる以前の原文の表記は、" Dieu QUI est invisible a créé le monde QUI est visible."(綴りは現代の正書法に従う)であり、カンマは欠けているが、既に[1−23]でも指摘したように、著者ArnauldとLancelotにとって、非制限的関係詞節にカンマは不可欠ではない。句読法を含め表記が現代風に改められているはずの版でも遺漏はあるもので、"Dieu par qui le monde a été creé"(ibid, p51).という原文そのままの句読法も残されており、ここではカンマが補われていない。これは、"God, by whom the world was created"であり、カンマが補われていてしかるべき箇所なのである。学習参考書風の解説を加えれば、「世界の創造主である神」とはまた別の神が存在するわけのものではないのであるから。

   上記のごとく、一定の脈絡(発話に関わる非言語的脈絡が言語表現という形で示されれば、これは既に言語的脈絡(注[1−6]参照)である)の中におかれた発話"A red rose."の場合のように、そこに必ずしも制限的修飾の働きを感じ取れず、また、特段に「情感的」であるとも評価し難い、形容詞のこのような働きが時に実感されることが、林語堂に名詞の修飾に関して独特の記述を残させることにつながったと推測してよいかもしれない。林語堂は「限定[Determination]は修飾[Modification]の一形態に過ぎない」(山田和男訳『開明英文法』、8.10)とし、次のように述べている。

例えばthe red bookでは、形容詞redが名詞bookを修飾していると言う。これは、その本がどのような本であるかを記述しているからである。しかし、同時にredという語は、緑色の本や赤い本(原文のまま)を除外することによって、ここで言う「本」の意味を限定している。故に、redはbookの意味を限定しているとも言える。(ibid)
   林語堂のこうした記述が示唆に富むと言えるのはそのちょっとした指摘ゆえである。"the red book"中の形容詞redは"book"を「限定している」という紋切り型の記述にとどまることなく、「その本がどのような本であるかを記述している」とも指摘されるがゆえである。CURMEの記述(「叙述的形容詞は、話題とされている生物[living being]や無生物[lifeless thing]の種類[kind]ないし状態[condition]ないし様子[state]を表す。」(CURME, Parts of Speech, 8)(太字体は原文では斜体)([1−18]参照)に通じる指摘である。

   しかしながら、受け手である読者に対して、話者の視点から一方的に行われている(林語堂はこうしたことを恐らく意識していない)"the red book"に関するこの記述についても、"a red rose"に関するJespersenの記述について述べたのとある程度同じことを述べざるを得ない。日本語訳を辿る限り、という条件付で記述を進める。受け手の視点から言えば、"the red book"は、「その本がどのような本であるかを記述している」と受け取れることもあろうが、本という集合の部分集合としての「赤い本」(「赤本」は「大学別入試問題集」のことであるかもしれない)のことを述べていると受け取れることもあろう。「redという語は、緑色の本や白い本(「赤い」を引用者の判断で修正する)除外する」こともあるかもしれないが、例えば、"the red book, the red pen, the red box"という三つの対象の内から二者を除外することを可能にするのは"red"ではなく、各々の名詞句中の名詞の差異である。

   また、"this book"の"this"は、「我々の意中にある特定の本を指示(indicate)する、言い替えれば限定(determine)する」(『開明英文法』、8.10)と受け手が判断し得るのは、一定の脈絡が与えられれば、という条件下でのことである。"this book"が電話でのやり取りの中で出現すれば、"this"はまずもって無力かもしれない。話者の念頭においては、ということであれば、あるいは非言語的脈絡が受け手に共有されていれば、時には"book"一語だけでも(さらには「アー」や「ウー」といったうめきだけでも)「限定」は実現される。林語堂の記述がより正確であるために必要な脈絡は話者(林語堂)の念頭にはあっても、その記述には欠けている。そこにあるのは話者の視点のみであり、非言語的脈絡は話者に独占され、他の誰とも共有されていない。

   正確であるとは言えないにせよ、的外れであるとも評しにくい林語堂の記述は、修飾要素が現実に果たしている役割の複雑さの予感と、そのような役割それぞれを修飾のどのような在り方に対応させたらいいのかに往生していることの反映であるように思われる。修飾要素は名詞の「種類や状態や様子を表わす」(CURME, ibid)こともあり、"this book"の"this"のように、「我々の意中にある特定の本を指示(indicate)する、言い替えれば限定(determine)する」(『開明英文法』、8.10)こともあるといった、修飾要素が果たす種々の役割を、断片的語句(the red book)を例示するのみで、しかも話者の視点からのみ語ろうとしているのである。この弊害は関係詞節に関する記述の中で凝縮されて露出している。名詞に前置される形容詞の働きについては「限定:"Which one?"という問いに答えるもの」(『開明英文法』、8.10)と「修飾:他の語句の意味を修飾または記述する」(ibid)という二通りの修飾の在り方を認めながら、先行詞に後置される制限的関係詞節の働きは「限定」の中に押し込められる(「修飾」は非制限的関係詞節の働きとされる)。こうした理解から次のような記述が展開される。

(A) This is the house that Jack built.
(B) Jack built this house, which was used for keeping malt.
文例Aでは、関係節が、先行詞houseの内容(意味)を限定している。"This is the house"という主節の内容は、"that Jack built"を加えなければ確定されない。ところが文例Bでは、主節"Jack built this house"は、これで十分意味が完結しており、whichからmaltまでの関係節はなんらその内容を限定してはいず、ただ単にそれに解説を加えているだけである。従って文例Aに於けるthatの機能は、その家がどの家かを指摘する役目をする限定的(defining)・指示的(demonstrative)・決定的(determinative)な機能であるが、これに対し、文例Bに於けるwhichの機能は、非限定的(non-defining)・解説的(commentative)で、しばしば単なる説明に過ぎない。(ibid, 9.61)(下線は引用者)
   "This is the house that Jack built."を一定の脈絡の中においてみれば、林語堂の記述の不適切は一目瞭然となるはずである。「"This is the house." という主節の内容は、"that Jack built"を加えなければ確定されない」という記述の言わんとするところは私には把握することが出来ない。ただ、"This is the house"には欠けていると感じられる情報は、その家が「どの家」であるかということではなく(「"Which one?"という問いに答える」には"This"だけで既に足りている)、それが「どんな家」であるのかということである。"the house that Jack built"について当てはまる記述は、この名詞句が置かれることになる脈絡を問わずに当てはまるわけではない。修飾要素が果たしている役割が明らかになるには脈絡が必要であるという事情は、関係詞節についても同じ様に当てはまるということである。

   林語堂の論旨に隔靴掻痒の感がある原因は、形容詞の用法に関するCurmeの記述について言えたのと同じで、「その原因の大部分は恐らく、すべての例が脈絡とは無関係に挙げられているということ」([1−18]参照)であり、更に言い添えておけば、その点に無自覚なまま記述を進めているということである。話者の視点(このとき、話者は多分受け手を兼ねている)から一方的に記述が行われていること、と言っても同じだ。"the red book"の"red"によって、何が「除外される」のか、その本についてどんなことが述べられているのか、受け手は、脈絡を示されない限り明確な判断を下し得ないのである(脈絡次第では「赤本」は「大学別入試問題集」を指示することにもなろう)。そしてその脈絡は実は、林語堂(即ち、話者)の念頭にはおそらく存在しているのである。"the red book"は林語堂の念頭では、比喩的に言えば「複合語句」である。しかも、その複合性を構成する要素の一部は言語表現という形で示されてはおらず、話者(林語堂)の念頭にしかないような「複合語句」(以下の記述参照)なのである。「redという語は、緑色の本や白い本を除外する」という記述は、例えば、「(ここには緑色の本、白い本、赤い本の三冊がある。)このような場合、the red bookのredという語は、緑色の本や白い本を除外する」といった、記述されてはいないが話者(林語堂)の念頭には存在する脈絡(話者以外の誰にも共有されていない非言語的脈絡)の中で行われている。受け手には斟酌しようもない「話者の思い」がそこには込められている。脈絡を表示した記述例を挙げておこう。

テーブルに白、青、茶の3つの茶わんがあって、どれが自分のものかたずねられた場合、the white(one)、the blue(one)、またはthe brown(one)と答えれば、正確な答えとなるであろう。
(R.A.クロース、齊藤俊雄訳『クロース 現代英語文法』、105…見出し番号)
   文法の書物を離れた現実世界では、無数の言葉がその身を浸している非言語的脈絡は人それぞれに様々な濃淡を伴いつつも多くの人々に共有されている。21世紀初頭のこの国で「陛下」あるいは「ミスター」という言葉はどのような指示内容を抱えているだろうか。以下は、17世紀も半ばを過ぎた時代から聞こえてくる声である。
もう一つの種類の複合語句は、複合語句の一部は(具体的に)表現されてはおらず、暗々裏に了解されている[sous-entendu]にすぎないという種類のものである。フランスで"le Roi [the King]"と言う場合のごとく。この語句は意味の上では複合的なのである。なぜなら、我々が"roi [King]"という語を発話する際、我々はこの語に対応するただ一つの一般的観念[idée générale]を心に抱いているわけではなく、心の中ではこの語をルイ14世(フランスの現国王である)の観念と結びつけているからである。人々の日常的発話には、このような在り方で複合的である語が無数にある。各家庭における"Monsieur [Sir]"という名詞のごとく。(『ポール・ロワイヤル論理学』p. 59)
   "a red rose"についても"the red book"についても、次のように語り得るはずだ。
もし、私が、jarとか soundとか palmとか tractなどの意味を言うよう求められたとしたら、唯一の率直な返答は、脈絡[context]を示してくれ、そうすればその意味を語ろう、というものだ。(Jespersen, The Philosophy of Grammar, p.66)
   ところで、「ミスター」とはもちろん長嶋茂雄のことである。

(〔注1−26〕 了)

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