お世話になったバスを見送り 歩いて直ぐの所が三木城址上の丸
急勾配45°も在りそうな石段20mを登りましたが スリルありました
踏み外そうものならケガでは済みそうも無く 遠い国へ旅立ちは必至
2006年1月17日付 ちょっと一息「別所長治」に
“葉が茂り 真夏になれば一度訪れてみたい城跡です”と書き込ました
考えて見ますと 夏は薮蚊に大歓迎されそうで辞退しまして
5月の若葉の頃に訪問となりました
三木城籠城戦における疑問点
7.500人と伝えられている籠城人数が 1年8ヵ月の間食料よりも
最も大事な水を どの様に調達していたのか?
兵糧攻めを仕掛ける秀吉軍 先ずは近郷の食料買占めから始め
次に城内により多くの人数を 追い込む事で効果を上げます
7.500人の喉を潤すに雨水では不可能ですから 井戸に頼ります
三木城は平山作り 天守地盤は堀の一部を成す美嚢川水面より
目視25mの高さにあります その天守横に“かんかん井戸”
深さ25m在ると表示されており 水には困らなかったのでしょう
当時井戸は他にも在ったと考えるのが自然でしょうしねー
三木城郭3方向は攻めにくい急傾斜ですが 南東側は少なく
後年 秀吉自身が築く大坂城と同じく 構造上の弱点でして
力攻めし易い地形 ではなぜ秀吉は兵糧攻めを?
一般的には兵力の温存でしょうが 当時織田軍団の状況は
織田本体は大坂石山本願寺
柴田勝家は北陸平定
明智光秀は丹波篠山での八上城波多野との戦途中
この波多野秀治は別所長治正妻“たま”の兄
明智光秀は波多野との和睦を結ぶため 母を人質に出してまで
波多野秀治らを織田信長陣中へと送りますが 信長は躊躇いも無く
波多野秀治らを殺します 当然 母は光秀の目前で張り付け死亡
この一件が後の本能寺の変へと 結び付いたとも云いますねー
強敵“毛利”を前に秀吉は 後方固めを重視したのが通説ですが
信長の性格からして 秀吉一人が突出して勝利すると
織田家臣団NO1に躍り出 猜疑心の強い信長がどの様に考えるかは
秀吉 熟知して居りますから
後方を固めるの大義名分の下 ここは畿内平定まで十分に時間を稼ぎ
やがて来る毛利との和睦なり 勝利には信長自信に出馬願い
花持たせる作戦では なかったのでしょうか
歴史家が
「この頃の秀吉程 動と静を上手に使い分けた武将は類を見ない」と
絶賛しており 多義に渡り参考にさしていただきましたが・・・
齢60 未だバタバタ貧乏 抜け切れない 電右衛門(涙)
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