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月刊 電波受験界98年1月号「私はこうして合格した 」より (1陸技)西 川 敏 弘 仕事の悩みからまわり道へ 卒業後、大阪市内にある大手家電メーカーに勤めながら大学で学ぶ生活に入りました。 仕事は、パソコン(当時は8ビットでマイコンといわれた)の製品設計部門に配属され、仕事を覚えるのと大学の単位を取るのが精一杯となり、無線資格への挑戦は中断します。しかしハムだけは趣味として続け1万局以上の交信を突破します。 大学についても公立及び私立の2部や通信制で勤労学生として学び続け計4枚の卒業証書を手にします。 当時は、良い仕事だと思っていたのですが、高度な技術で年齢が高くなってもやっていけるか不安でした。また、自分の技術的能力に限界を感じていたというのが正直な気持ちです。そのため、身近な特許関係を将来の仕事にできないかと思い法学部に挑戦しました。今から思えば学歴コンプレックスの解消方法だったのかも知れません。また、元々社会科が好きだったこともあり、適性を試すためチャレンジしましたが、一般教養免除の3年編入なのに3年間もかかりました。結局、法律や文系の資格を甘く見ていたようで、得たものは社会科の教員免許や行政書士等しかありません。得たもので一番大きいものは「この分野の仕事は自分には向いていない」ということが実感できたことです。冒頭の「あきらめるべきだ論」がある意味で正しいと思うのも私の失敗経験から、なぐさめるのには的を得たものと思うからです。 結局、これらがまわり道となってしまい、電子の仕事をしているのにかかわらず無線関係資格から縁が遠くなってしまいました。 |
平成11年1月更新
通信関連ページ1999/1〜(参考集計)
西川 敏弘jf3mxu@hi-ho.ne.jp