本作は1950年の秋に発表されています。物語の内容は、1928年の帰朝直後から発表当時までの話になります。作品は小説ですが、本考察は芹沢氏が実体験に基づく手法を多く取ることから考えて、ここでも現実的に捉えて書くことをまずご了承ください。それに加え、物語の背景をよりわかりやすくする為に、必要に応じ管理人の推察を挿入しています。本考察は、信仰に悩み、また追求する方々に捧げるものです。

物語の発端ですが、主人公常吉は、一高生の菅原の訪問を受けて、天使ローズについて話を聞かされます。菅原は常吉の小説を読んでいて、一高の先輩であり、キリスト教の信仰にも理解があり、人間性も信頼できる常吉を、頼れる相手と思って相談したようです。注釈を入れれば、実際、芹沢氏には天使ローズの声を聞くという知人がありました。

本作での天使ローズというのは、高校時代の菅原が必死になって神を見ようと修行を積み、聴こえるようになった声の持ち主です。こういう目に見えないことを信じない方は、本考察を読んでも、その意図するところを理解されないでしょう。ですが、天使などという大袈裟な言い方でなく、この世界にはそういう見えない存在は在るのだと、一現象として捉えればいいのではないでしょうか。

それにしても菅原の行動は思慮が足りないと言わざるを得ません。「神を試した罰で、ローズに惚れられたんだなあ」と常吉が冗談にする場面がありますが、まんざら冗談でもないでしょう。そんな無茶な修行をして、精神に異常を来すということもあるようですから、それで人生を棒に振ることを考えれば、「神を試す」など容易に試みられるものではないはずです。

また天使の声を聴くという経験がそう簡単にある訳はなく、菅原の人格が余程備わっていて、天の良しとする人物だったからに他ならないと思われます。その事は信仰を無くした菅原が「工場の善良な社員になりきった」という箇所でも、新興宗教の教祖を一見して偽物だと見分けた心眼でも読みとることができます。

さて、このローズですが、1321年にイタリアに産まれ、21歳でなくなるまで、キリストの嫁(信仰者の意)として生きた女性であったようです。その後、天使となったようですが、21歳という若さで天に召されている為か、人間が出来ていません。天使に向かって人間が出来ていないと言うのもおかしな話ですが、菅原に向かって「雨が降るから傘を持っていきなさい」と言い、菅原がそれを実行しないと「ほらご覧なさい」などと得意になったりします。笑い話のようですが、これは信仰には意外に大事なことであるから、よく考えてみましょう。

天使と言って、人間より尊敬できる存在とは限りません。なぜなら、天使も人間も神(宇宙の創造主)に内包される一存在でしかないからです。その中にはイエスや釈迦のように、尊敬に値する存在も在れば、ローズのようにまだ未熟な存在があっても当然ではないでしょうか。それをありがたがって、新興宗教などに結びつけようものなら、塗炭の苦しみを味わうのは目に見えています。

話を物語に戻すと、当時の常吉はまだ若いから神を必要としていません。おそらく33歳頃でしょう。個人主義の出来た常吉ですから、菅原の話を興味を持って聞いても、一般の人のように「精神病だから病院に連れて行った方がよかろう」などと余計なお世話もしません。ところが、菅原があまりに煩悶するので、同情して心霊研究をしている友人小山に相談するのです。小山は除霊を試みるが失敗し、逆にローズにすっかり信服してしまいます。ミイラ取りがミイラになった訳ですね。しかし、常吉の方はお手上げで、もう放っておくしかないと考えたのでしょう。

菅原はやがて就職し、結婚もしますが、就職にも結婚にもローズは反対しました。伝道の道を行けと言うのです。菅原は毎日説教された末、堪えられなくなって、もう信仰を捨てて一人の人間として生きたいと神に祈ります。ここでも余計な注釈をひとつ入れさせてもらえば、本気の祈りは必ず聞いてくれる存在があります。僕自身何度か経験しました。その祈りが聞かれた結果がどうなるかは、そのひとの運命、天の計らいなど、色々な要素が絡んで変わってくるのでしょう。それは僕の体験を超えた難しい問題なので詳しいことは言えませんが、この時の菅原の祈りは聞き入れられます。ローズは「60歳になったら伝道生活に入れ」と約束させて去り、菅原はその後ローズの声を聴くことはなくなったのです。

この菅原の祈りは当然のことのように思われます。天理教祖を見てもわかるように、伝道生活は死の苦しみです。絶対の覚悟がなければ入ることは許されません。と言うより、そのような重い役目を背負う者は、覚悟も何もなく導かれるようです。イエスしかり、釈迦しかりでしょう。勘弁してくださいと言って許されるような導きなら信仰生活などに入らない方が余程幸せなのではないかと思います。自分に自信がある傲慢な者でなければ、信仰生活など目指さず、ひとりの人間として社会の土となるべきではないでしょうか。

そのように人間らしく幸せに生きた菅原ですが、10余年が経った頃、広島の原爆から天の声によって救われます。ここで特筆すべきは、天が菅原を救い出したことよりも、被災地のそばに置いて、その惨状を見せたことにあるようです。菅原はその体験により、再び信仰に戻ることになるのですから。また、この声はローズではなく、もっと人間の出来た(?)天使に変わっています。その原因には菅原の成長もあるでしょうが、菅原の負った役目に値する天使を配した天の計らいが感じられるようです。

菅原が信仰に戻る決心をした後、もうひとつ天の計らいを感じさせる出来事があります。常吉との再会です。これは常吉(芹沢氏)にこの作品を書かせようとしたからに他ならないでしょう。常吉はその事にすぐ気づいて「原爆の街へ来て、中世期のような話を聞くとは……一体どういう意味でしょうね」と問いかけています。それにしても常吉は強い。「文明人が原始人のように神の声を聴かないではいられないということを、意外に思った」と言ってのけられるひとはそう多くありません。

多くのひとは弱い。弱いから神(宗教)にすがるのです。しかし、真の信仰は団体にはないようです。ひとりで見えないものと向き合い、対話し、その声に従って自らの生(役目)を全うするべきものでしょう。信仰の仲間を持つのは良いことです。己の信仰の悩みや歓喜を分け合う良識のある友を持つことは喜びであり、慰めとなるからです。ですが、団体には何があるでしょう。なぜ必要でしょう。もう宗教団体をつくる時代は思ったのかも知れません。

信仰を広めるには、その役を担った者が、一人ひとりと対話するように行えばいいのです。この菅原のように。それ以外の者は、ただひとり大自然と向き合えばいいのです。大自然は、風の中に、緑の中に、雲の中に、水の中に、大地の中に、そして私たち生物の中に息づいています。それらを正しく見つめ、その声を聴くことこそが真の信仰ではないでしょうか。

真の信仰を知った菅原は、物語の最後で常吉が予測しているように、もう戻ってこなかったのではないしょうか。信仰を誤った者たちのそばでは活動はできないでしょうから。菅原の役目はこの後、地味に果たされたのではないでしょうか。その地味な道こそ、伝道者の誰もが求めるべきものなのでしょう。

短い考察でしたが、これを読んだ方が、団体を卒業して、常吉や菅原、芹沢氏のように、ただひとり見えないものに向かい、真の信仰に触れられることを祈ります。苦悩や歓喜を分かち合える仲間が与えられるかどうかは、ただ神の計らいに委ねて――。

――最後までお読みいただき、ありがとうございました――

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