戦後の混乱も沈静化してきたこの時期、作者は実に雑多なテーマで作品を書いています。それには8年を費やして書かれた『教祖様』に振り回されたところもあるのでしょうが、作者自身は落ち着いて仕事に向かえなかった時期ではないでしょうか。中盤には渡欧の影響が見られ、後半は「死」や「霊」といったテーマを多くの作品で扱っています。(掲載作品数:131)

タイトル 初出日 初 出 初刊日 初 刊 本 入手可能本
備 考 / 書 評
愛の幻想 1950/1 『秋の女』新小説 1956/1/25 『芸者』鱒書房 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 この作品は「愚かな老歌人」と副題のついた三部作のその1。作者には珍しく不倫というテーマで書かれた純愛小説だが、愚かな老歌人という副題の通り、詩のような作品である。敗戦から5年が経って、作者にもこんな小説らしい小説を書く余裕が生まれたのだろう。
ボストンバッグ 1950/1 スタイル 1973/2/10 『忘れがたき日々に』新潮社
 津田文造は癌だが医者はそれを隠している。長男の文一は医者に知らされて訪れたが、妾のお愛は文造の枕元のボストンバッグに入った札束を狙って――
 何人も妾を持つ男の最期を、ボストンバッグに後生大事に抱えている財産をアクセントにして描いている。作者の妻の父がモデルで人物にどれも嫌味がないのは、作者の愛情だろう。
花束 1950/1 婦人世界 1955/12 『花束』雲井書房
 戦争が終わり、何年も経ってみると、母は愛人に墜ちて、自らは愛する人に愛人の子だからと蔑まれ、ただ好きな絵だけに専心しようとした純子に、絵の先生長井から求婚という花束が降ってくる――
 この作品のタイトルは林芙美子から贈られたものらしい。タイトルだけ贈られても困っただろうが、書く時に林を意識しただろうか。「愛とはそうしたものだ」というエンディングが、妙にそんなことを感じさせる。
紅葉 1956/1/25 『芸者』鱒書房 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 「愚かな老歌人」の2。若い男女が高原の庭で狂言自殺を図る。
老いらく 1950/1 フレンド 1956/1/25 『芸者』鱒書房 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 「愚かな老歌人」の3。敗戦前別れ別れになった愛人を思いがけない場所で発見する。
夢の革命 1950/1/25 全人
 小説家尾見の弟省三は、久しぶりに顔を見せたかと思うと、幼なじみの騎東に共産党に誘われたと告げた。尾見は騎東と省三が地下運動に関係した頃を思い出して――。
 「いつまでもロマンチストですね」と省三が評するように、革命を夢見る騎東がタイトルになっているが、その騎東を転向させるために東奔西走した尾見の父が主人公であるようだ。天理教では、教祖の60年祭(昭和21年)には世の中が平和になっていると言い伝えがあったらしいが、それは実現したが、父がその年に他界しているのも感慨深い。
愛の白書※ 1950/3 読物街
善意 1950/5 文藝春秋 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社
 貧乏な村を出て東京で働きたいと願う3人の少女が、人買いを仲介に自ら東京に売られていく。心を亡くした少女達の虚ろな目に、作者は何を見たのだろうか。
ソクラテスの妻 1950/5 小説新潮
 11人も子供を産んで49歳にもなる妻が妊娠した。夢に聖者のような老人が現れて「堕ろしてはならぬ」と言うが。
 この作品は「堕胎」がテーマであることは間違いない。ただ聖者の言葉といい、不思議な結末といい、作者が何を言いたいのか。それは読者に委ねられているようだ。余談だが、父が信じている手当の力を信じるひとは多いのではないだろうか。
西方浄土 1950/5/1 文学界
 おしげは正式な妻としてくれるよう申し出るために晴造を見舞ったが、そばには妾のおたつがまとわりついて、その隙を与えない。業を煮やした息子の晴一は実子で長男の銀次に助けを依頼するが、晴造はその騒ぎの中で静かに亡くなっていく。
 ボストンバッグその三と巻末にある通り、『ボストンバッグ』の完結編のように書かれている。続編ではなくそれぞれ同じテーマを扱っているが、主人公たちが一人一人独立して存在感を増しているような感があるから、これがボストンバッグの完成形と思っていいだろう。ちなみに西方浄土というのは母が亡くなる前に見たという挿話となっている。
罪業 1950/4/1 改造文芸
 銀次は父晴造の死の近いのを知って故郷に見舞う。病床の晴造の枕元では妾のおたつと前妾の息子晴一が財産をめぐって争って――
 ボストンバッグの二。主題は『ボストンバッグ』と全く同じである。なぜ同じテーマで書いたか不明だが、義父の最期に立ち会った思いを様々な形で表現したかったのかも知れない。本作にはその三も存在する。
春の谷間 1950/6 スタイル 1952/11/30 『春の谷間』小説朝日社 『芹沢光治良文学館6』新潮社
 1951/5まで連載。結婚して娘もある女が、夫が研究者で収入がないことから夫の家に家計の面倒を見てもらう身分で、大学を受験して入学してしまう。そこから夫婦の間に亀裂が生じ始めた。
 作者の書く主人公には、妹の若子のようなタイプは多いがみさ子ほど我の強いタイプは少ない。だが現実にはみさ子が大部分を占める世の中であるから、この作品の意義は大きい。みさ子のようなとは、自分の過ちに気づかずに生きる人のことだが、みさ子が和子によって気づきを得るように、作品全体が読者にとっての和子になるだろう。
ここに望あり 1950/6/1 中国新聞 1953/3/10 『ここに望あり』小説朝日社 『芹沢光治良文学館4』新潮社
 1950/11/4まで連載。戦後解体された旧財閥岩崎家の息子貞行を中心に、妻の弓子、友人大林、大林と愛人関係にある継母尚子、大林に恋するあさ子、それにあさ子と大林の家族も絡んで物語は展開する。物語の軸は、貞行が離婚をしても理想とする生活を追い求める姿であろうが、あさ子の姉鶴子は敗戦で先に戻った夫が結婚していたり、戦時中に知的な言葉であさ子を励ました大林が愛人に成り下がっていたりと戦争の爪痕を強く覗かせている。
 疑問に思うのは、作者が貞行を肯定しているのか否定しているのかということだが。
天使ローズ※ 1950/7 風雪
海棠 1950/8/1 中央公論
 中川画伯の家に、昔世話になった山田老人が婆やと共に転がり込んで――
『鈴の音』の姉妹作と言えるような小品。海棠の植木鉢を後生大事に抱え込んだ老人が、後にアイスキャンディー売りになって鈴の音を響かせる様は『鈴の音』をリメイクしたことを思わせる。
うちのイエス 1950/9/20 中央公論
 小説家常吉の知人菅原は、原始キリスト教に帰依して、神の声を聴こうと修行するうちにローズと名乗る天使の声を聴き始める。
 『天使ローズ』の続編。短い話のなかに、時代における宗教の意義、神と人との関係、信仰と宗教、新興宗教の問題と多くのテーマを盛り込みながら、それらを「うちのイエス」と揶揄して、さらりと読ませる短編。この作品はあまりにも面白いので別枠を設けた。
教祖様
(この母を見よ)
1950/10/29 天理時報 1959/12/15 『教祖様』角川書店 『芹沢光治良文学館5』新潮社
 1957/9/8まで連載。天理教教祖中山みきの生涯を作者の視点で書いた伝記。前半は激しく魂を揺さぶるほどの勢いのある宗教書のようだが、後半は教祖伝というより側近達の伝記のようで、資料不足やあまりに長い連載期間で作者が楽しめなくなっている様子が伺える。そうとしても、イエスの新約聖書物語にも劣らない素晴らしい宗教書であることに間違いはない。作者は、イエスの生き方を模範とするのに難しいが、みきの生き方はそう難しくないから、信者にとってありがたいというような内容のことを書いているが、飽食に慣れた現代人には信じられない言葉だろう。
 江戸末期、奈良の片田舎の農村に生まれた前川みきは、13歳で中山家に嫁いで、たくさんの子をもうけ、40歳を迎えて、もう後は幸せな晩年を過ごすだけであった。ところが、長男善右衛門の病気快癒祈願に呼んだ加持祈祷で代役の加持台をみきが勤めたことから、みきに「天の将軍」と名乗る神が降りて家族全員屋敷もろとも神がもらいうけると宣告した。そこから中山家の苦難の道が始まった――
 1952年に第3章だけが『この母を見よ』と題して単行本化されている。
死の影を見つめて-広島の記 1950/? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 被爆5年後に訪れた広島の記録。『芹沢光治良文学館11』には49年発行の「キング」が初出とあるが、内容から間違いであることがわかる。
 読む度に心に深く刻まれる平和への書。「日本は軍備を捨てたから世界平和を願うのではない。世界平和が確立しないことには、文明も人類も危機にあることを、広島によって知ったから、武器を永久に捨てて、懺悔の心から世界に向かって平和を提唱するのである」という言葉が力強い。
晴れた朝 1951/1/1 女性改造
 隣家の奥さんが、次女のO子の縁談について話を聞かれたと主人公に告げて、その後、その青年が家に交際を申し込みに来た。アテネ・フランセに通いフランスに行く夢を持った次女は、交際の末に希望を変えて、青年との結婚を決意する。
 この作品は小説のようだが、エッセイと読んでもいいだろう。作者が次女の結婚を喜んでいることが全編に描かれて、その他にテーマも見当たらないから。
母の心配 1951/1 婦人画報
 房子は娘由利子のことで話があると、未知の青年に呼び出される。青年は由利子からの求愛の手紙を母に返した。由利子は見合いをしたばかりだったのだが。
 青年に失恋した娘のこころを案ずる母の物語だが、いつの時代も母の心配をよそに、娘はそれ程母を頼りにしないものであろうか。
紙刀 1951/1 別冊小説新潮
 村上順一と中野陽子は学生恋愛をしたが、陽子が父から婚約者を決められて、フランスに渡ることになり、お互いに別れを決意する。順一はペーパーナイフを記念に贈ったが、20数年後、娘の鶴子の婚約者が陽子のペーパーナイフを持ってきて――
 今の妻ではなく、恋愛した女と人生を共にしていたら、と悔いる男の像は芹沢文学の得意なテーマの一つである。それらの作品群の中でも、本作は男の後悔が少なくて、さっぱりした作品に仕上げている。
清き泉を掘らん 1951/4 女性生活 1954/1/31 『清き泉を掘らん』北辰堂
 音楽を志して上京した節子は、戦死した兄の親友青木の家で世話になりながら、声楽の勉強に励むうちに、青木の友人岩田に恋をする。一方青木家では、妹のすみ子が親にやかましく結婚を迫られて、すみ子は尼になろうかと考え始めるのだった。
 若者たちは、学問に確固たる信念を持つ青木を除いて皆「生きるとは何か」を模索しているのだが、すみ子の生き方は対象が信仰である為に深い。それだけにこの短い物語では満足できない余韻を残している。
紫の君 1951/5/1 婦人世界
 婦人雑誌に「私の初恋」というテーマで書かれたエッセイ。
 一高の2年生の時、いつもすれ違うお茶の水の女生徒に憧れた。紫がかった着物を着ていたが、清純な感じで、その娘のために半年間で和歌を千首も詠んだ頃、突然会えなくなった。それから1年後、友人の家で、妹のアルバムに彼女を見つけたが、彼女は結核で亡くなっていた――。
世界ペン大会に出席して 1951/6? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 石川達三夫妻、池島信平と共に出席したローザンヌの第23回世界ペン大会の出席録。
 フランスの会長、アンドレ・シャンソンの名前が初めて出ている。
ヨーロッパ便り-娘たちへ贈る 1951/9 婦人公論 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 随筆集の中でも中身が濃い。例を挙げれば、スイスに向かう途中、飛行機の故障によってテルアビブに不時着した際に触れたイスラエルの人々の苦悩や希望について(この経験は後に『きいろい地球』という作品に生かされている)や、講和条約と第3次世界戦争について、ヨーロッパの休暇に見る日本の労働との違いについて、そこから得られる幸福への希求の差、ロダン博物館の感慨、等々どれも読む者に一考させずにおかないテーマを持っている。
再び「ブルジョア」の日に 1951/11/1 文藝春秋 1957/7/10 『芹沢光治良自選作品集6』宝文館 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 主人公「私」は23年ぶりに国際ペン大会のために渡欧した際、同伴者の勧めで闘病したスイスを訪れた。自ら進んで訪ねようとしなかったのは、作者の中に未だ悲しい記憶が残るからだろう。
 物語の中で、当時世話になったT博士との再会を書いているが、主人公は博士の深い愛情と同時に、自分がちりあくたに等しいような悲しみを感じている。この部分を読んだ時に「愛情は悲しみを伴う」と言った釈迦の言葉を思い出した。親や妻にも感じたことのないような深い愛情が、魂にしみるような悲しみを連れてきたのではないかと。
 本作は『女の都・パリ』の中では『パリの空の下で』という3つの短編を合わせた作品となっている。
新しいパリ 1951/12 別冊文藝春秋 1953/2/10 『新しいパリ』小説朝日社 『芹沢光治良文学館2』新潮社
 1952/8まで連載。杉は20年ぶりに訪れたパリで、先人に紹介されたラチモフ夫人の宿に世話になりながら、旧友たちの消息を捜す。だが、戦争は大きく町を変え、その消息は容易に知れない。
 作者のスイス土産を『再び「ブルジョア」の日に』とするなら、こちらはパリ土産ということになるだろう。大戦を経て、ヨーロッパの人々がどう変わったか、その答に人類の未来を見ようとする作者の目が輝いている。重たいテーマの中で、コミカルなラチモフ夫人とのやりとりが一服の清涼剤になっている。
スイスの旅 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 「1.フライブルグの旅」では、ルソーの博物館に寄り、サン・ニコラス寺院でバッハを聴き、壮大な規模の大学を見学した。「2.ローヌ」の祭りでは、ブビーの街でローヌ河に感謝する祭に遭遇して、下流に住むフランスまで上流のスイスにやって来て祝う盛大な催しに包まれた。章末ではスイスで唯一の酔っぱらい(紳士だったらしい)に家に泊まれと親しくされている。「3.シヨンの城」の晩餐会では、「たとえ城が朽ちても、ここにいる皆さんが文学で再現してくれるだろう」と言う知事の味なスピーチが聞かれた。「その他(後記)」では、国民が週末には演習で、男も女も山に登ること、レーザンを再訪して、作品に書くつもりであることが述べられている。
世界人の表情 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
『世界ペン大会に出席して』同様、ペン大会の様子を伝えている。
 世界中の人種が集い、世界の平和のために論じ合っている様は、オリンピックの閉会式のように感動的な光景だ。
第三次世界戦争 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 サンフランシスコ会議で日本が平和条約に調印したが、それは第3次世界戦争に加わったと言うことだと、欧州の人々が世界戦争を現実的に恐れている様を伝えている。
 実際には、まだ第3次世界戦争は起こらずに済んでいる。だが朝鮮戦争、中東戦争、イスラエルやアフリカ問題と世界は戦争を続けている。「人類はバカでしょうかね。一生の間にもう二度も世界戦争をして、戦争が勝つも負けるも不幸だということを十分知ったのに、まだしなければならんですかね」とルーブルの看視がギリシャ彫刻の前で語ったという話に頷くばかりだ。
西欧の表情 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 51年の渡欧で、ロンドン、スイス、パリと巡ったが、戦前とは全く風景が異なっていた。ロンドンでは貧民窟が無くなり、労働者が高層住宅に住んでいた。どの国でも服装はラフになり、貧乏人とブルジョアの差がなくなったが、殊にスイスに至っては、犯罪も結核もなく、この世の天国のように幸福である。そんな様子を見て、作者はかつて貧困は、それ自身悪ではないと考えていたが、貧困がそれ自身悪であることを痛感する。
パリの表情 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 パリ女は子供を産まないということで有名だったが、政府の奨励で補助金が出るようになって、街には2、3人の子供連れの親が多くなった。子供の4人もあれば生活に困らないくらい補助金が出たというのだから驚きだ。だが、パリもロンドンと同様に貧富の差が無くなって、住みよくなったと書いている。
 時代の流れというのは面白いとつくづく思う。それが戦争によって引き起こされるのは悲しむべきことだが。
パリ祭 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 フランス革命の記念日の模様を伝えているが、盛り場はモンパルナスからサンジェルマンに移り、かつての色を無くしたパリ祭に作者は幾らか失望したようである。
 この日、日本大使館が復活して、そのパーティに出席して、日本人の多さに驚いたことが、一番の思い出になったようだ。
コルトーに会う 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 ショパンの第一人者だったコルトーを日本の知人から託された手紙を持って尋ねた記録。
 レーザンを訪ね、ヴォチェ博士宅にお世話になってローザンヌに戻ると、パリのビザが下りていて、すぐに飛行機を手配する。博士からコルトーがローザンヌにいると聞いて、電話すると、その朝パリから戻ったばかりで、出発までに会えることになった。
 なかなか嘘のような本当の話であるから面白い。
ルイ・ジュベの死 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 渡仏時、交流のあった劇作家であり俳優であるルイ・ジュウベに、パリのレストランの廊下でばったり再会した。ジュウベは、数日中に訪ねてくるように話して別れたが、一週間後、心臓発作で呆気なく亡くなって、作者は約束を果たすように事務所に訪ねた。
レジスタンスの墓 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 ある公爵夫人に、ナポレオンが造ったサンクルーの庭に日本式庭園があるが、あれは本当の日本庭園かと聞かれる。作者はひとりサンクルーを訪ねてみたが、昔、三木清とそこを歩いたことを思い出しながら歩いていると、レジスタンスの墓に行き会って、戦争の影を切なく感じるのだった。
マチスに会う 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 同行の石川夫妻がマチスに会いに行くのに通訳のような役割でついていく。マチスは療養中でベッドに半身を起こして会うことになったが、そしてもう起きられないだろうと思って別れたが、その後、モンパルナスのレストランで、元気そうな様子のマチスに再会した。
ペタン元帥 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 第1次大戦でフランスの英雄となったペタンが、第2次大戦で戦犯となって孤島に幽閉され、亡くなるまでの軌跡とその後の国民の反応を描いている。
組閣難 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 フランスで政府が組閣できないで1ヶ月になっている理由が、教育問題であることを伝えているが、最後の挿話が面白い。13歳になる女子学生があまりに美しくて、共学の男子生徒のこころを惑わせるので、遠く離れた女子校に転校させたために、その通学の交通費を親が村長に要求したが拒絶され、村長は次回の選挙で落選するだろうという記事が出たらしい。その子の新しい学校での生活を考えるだけで、大勢の女の子の心理と行動を描いた小説が書けそうだ。
妻に殺された新大臣 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 1ヶ月の難産の末に誕生した内閣で、新大臣が妻に殺された。理由は組閣で忙しいときに、妻の呼び出しを断ったからだという。フランス人達は、新大臣に同情しながらも、妻をなおざりにしたのが悪かったと批評する。日本では新大臣の行動は当たり前で、妻の行動が考えられないことだが、逆にそれを言うと、フランス人には理解してもらえない。『男子の愛情』と同じ日仏の男女関係の違いだろう。
フランスの新興宗教 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 当時フランスでも新興宗教が盛んで、アメリカから来た教祖が欧州中の信者を集めて、作者の下宿のそばで総会を開いた。町人達はその宗教について盛んに論じ合ったが、そこへ偽の神父が現れて――。
 新興宗教について論じ合っている町の声は面白い。日本には元になるキリスト教がないから、この人たちのように論理的には批判を展開できないだろう。
「戦争」と「神」に悩む西欧-サルトルの「神と悪魔」を見て 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 芝居を見て、すすり泣くフランスの民衆を見て、フランスが今いかに神と戦争の問題について悩んでいるかを知らされる。
パリでピアノに精進する日本娘 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 コンセルバトアルに学ぶ二人の日本人、田中キヨコと高野ヨーコについて。二人はコンクールに出て、他にはない喝采を浴び、その感動的な様子が語られている。
 田中には初対面だったが、大学都市に会いに行って、ショパンの音に誘われるように出会った場面も素敵だが、田中の人間性にも惹かれたようだ。作者はこの頃から娘たちをコンセルバトアルに送る希望を持っていたから、彼女と1時間も話し込んだらしい。安川加寿子や原智恵子、レビー教授の名前も出てくる。
フランスに伝えられる日本 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 サンフランシスコ講和条約を機に、フランスでは忘れられていた日本が再び取り上げられるようになった。
 フランスに伝えられる日本と言うよりも、フランス人が昼に2時間休み、週休二日で、夏休暇は1ヶ月あるというのに、日本人は……という現在の日本の労働環境の嘆きに終始しているようだ。
パリで会った日本人 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 留学時はフランスから帰国したばかりの末弘厳太郎に「日本人と交際しないように、それが成功の道だ」と教えられて実行したが、今回の渡仏では進んで会うことにした。ブランを再訪した話や、宿を世話してくれた工大の桶谷教授、後に『巴里夫人』を書くことになる浅田夫人、ロマン・ローランの研究家の宮本、彫刻家の高田博厚、東大教授の水島、北本、画家の藤田、関口、女優の高峰秀子、柔道家の川石などの名前が上がっているが、食物を中心にした滞在記のようでもある。
 特筆すべきは、森有正に会って、翻訳を頼んでいることであろう。それが初めての仏訳本『巴里に死す』となるのだから。
帰国前 1951/? 1952/2/20 『ヨーロッパの表情』中央公論社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 帰国前、画家の関口に誘われて、行きたかったラブレーの村シノンを訪れ、村人達に戦争の話を聞く。
 半年に亘る渡欧の総決算のようなエッセイで、作者がいかに有意義に過ごしたかがわかる。シノンで関口と共に書いた風景画は、今も沼津の文学館に保存されているものだろう。
パリ乙女※ 1952/1/5 湘南書房 1952/1/5 『パリ乙女』湘南書房
眠られぬ夜 1952/3 小説公園 1959/6/10 『女の都・パリ』新創社
『再びブルジョアの日に』の続編。過去に同名の作品があるが、内容は全く別物。
 T博士に促されて、主人公は20年前の療友達と再開する。友は20年の時間が無かったように歓待して、その夜、昔の病室と同じ造りの部屋に寝かせてもらったのだが、そこで見た夢は苦しかった妻との思い出だった。
 無言の行を続けるうちに、自己に閉じこもる性癖を身につけたが、その為に自分も妻をも不幸にしたのではないか――内的成熟と自己の解放を天秤に掛ける主人公のこころの叫びは重い。
夢枕 1952/3/10 サンデー毎日
 ペンクラブへの出発を目前にして、着飾った芸者が新太郎の家へ訪ねてきた。そして言うことには、亡くなった母が夢枕に立ち、イギリスの兄を捜せと頼むから、代わりに新太郎に捜してきてくれと頼む。
 芸者はこの頃のお気に入りの小道具だろうか。作品にもよく登場するが、そのままのタイトルの短編集も出している。主題は戦後のイギリスにおける日本人の生活、思想にあるのだが、その導入役として芸者が味のある役割を果たしている。
ゲーシャ・ガール※ 1952/3 小説新潮
はるかなる母の香 1952/4/1 女学生の友
 少女小説。パリでピアノを学ぶコーコは、コンクールで着物を着ることになり、日本にいる母を偲ぶ。
 本作にはモデルがあり、その事はエッセイの『パリでピアノに精進する日本娘』に詳しい。コーコは高野ヨーコ。K・Tは田中キヨコがモデルである。
むすめごころ 1952/9 小説朝日 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社
 婚期を逃した娘が見合いをしたことで、自分の胸に愛する人のあることに気づく――。
 女性は現実的なものだが、恋愛となると、あらゆる理性を捨て、思い込みに走ることがある。そういう「女」を描いているが、「女」を書けないと批評されたことに反発したデッサン的作品。
一つの世界-サムライの末裔- 1952/10 婦人公論 1954/4/25 『一つの世界』中央公論社 『芹沢光治良文学館6』新潮社
 1953/10まで連載、1955/5/20ロベールラフォン社より仏訳版。フランスで出版することを念頭において書かれた初の作品である。作者はこの作品で原爆の非人道的な恐ろしさを世界に訴え、ノーベル賞候補に挙げられた。
 舞台は東京と広島。原爆を経験した若い男女が身体ではなく心に原爆症を負い、死よりも困難な生を模索する。作者は驚いたことにこの作品で主人公の一人をキリスト教から天理教に改宗させている。
独立と家賃 1952/12? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 家主の急な値上げ要求に、「焼けた家を国家から返してほしい」と嘆く妻の吐息に、作者も「家が焼けなければ、それを売ってまたフランスに行けるのに」と考える。
 その表現にユーモアが籠もっていてたのしい。勿論、当人たちには楽しいことなど何も無かっただろうが。
「たねまき飛行」によせて 1952/12? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 天理教真柱、中山正善の本の出版に寄せた一文。
 真柱を一人の人間として接した作者の態度がよく現れている。
東西こども心 1952? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 日本の小学生とヨーロッパの小学生の作文の相違から、日本の不幸なことを導いて、政治を嘆いている。
 戦後7年だが、庶民はまだ塗炭の苦しみの中にいたようだ。この頃には、どうしようもないと嘆いていたくらい腐敗した政治がどこで転換したか、なぜ変わったか興味のあるところだ。
児童の楽園 1952? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 内容的には『東西こども心』の続編なのだが、世界に目を向けたヴァイオリニストの小学生が登場したり、作者の中にも希望の芽が膨らんでいるのがわかる。
「子供の日」に寄せて 1952? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 6年生のこどもの作文の41名中38名が家庭の不幸を訴えていることに驚いて、政府の施策の遅れていることを嘆いている。
日本語について 1952? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 戦争によって漢字も仮名遣いも変わったが、フランスの知人達はそれに憤って、改悪だと作者を責めるように訴えた。
 私たち現代人にとってはわかりづらい旧仮名遣いだが。
原爆の娘を救え 1952? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 広島を訪問して、被爆した娘たちが現地の病院で治療してもらえない嘆きを牧師から聞いて、東大病院にかからせることになる。娘たちは上京したが、その純真な娘たちを、治療以外に利用する大人たちに憤っている。
 これも、やはり忘れてはならない原爆の記録だろう。
パリの日本料理店(女の都) 1953/1 『女の都』小説公園 1953/2/10 『新しいパリ』小説朝日社 『芹沢光治良文学館2』新潮社
 大戦中のパリで、日本人として塗炭の苦しみのなかに生き抜いた実在の人物マダム・アイダとシイナという男性のそれぞれの物語。
 パリの人々の変化を描いた『新しいパリ』のおまけのような短編だが、テーマが「戦争」というより「人生」という普遍的なテーマのためか、前作よりも感動が大きい。二人の人間性が胸に染みるからだろうか。
二重国籍者 1953/2 小説新潮 1959/6/10 『女の都・パリ』新創社
 杉がフランスからの帰途、経由したカルカッタで、凱旋門で出会ったアメリカ育ちの日本の老夫婦に再会して、エジプトで監獄に入れられたと恨み言を言われる。
 国外で出会った3人の滑稽な日本人(一人はハーフ、一人はアメリカ国籍だが)が登場して、作者に小説のネタを提供していったような、当時の国際事情を伝える面白い物語だ。
立候補せざるの弁 1953/3? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 文芸家協会で参議院に候補者を送ることになって、芹沢氏も選ばれるが、熟慮の末、辞退する。その理由は述べられていないが、自分を殺して協会のために尽くすよりも、創作によって、民衆に尽くすことを選んだように思えるが、どうだろうか。
フランスの母と日本の母と 1953/4? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 日本の娘たちが「母のようになりたくない」と言うのに反して、フランスでは誰もが「母のようになりたい」と答える。それはフランスの母が、常に娘と共に成長するように努力し、尊敬されているからだが、日本の母がそうではなく、家庭にあって愚痴や不平を言うだけのみじめな存在に置かれているからであった。その咎は母自身にはなく、封建的な戦前の日本の咎だが、今の娘たちは、そこから開放されて自由になったのだから、今度自分の娘たちが卒業する際に、「母のようになりたい」と言われなければ恥辱であると、手厳しい忠告を送っている。
 最後に、恋愛についても、恋愛に不慣れな日本娘に、フランス娘のように冷静であれと釘を刺しているのも作者らしい。
我が宗教 1953/4? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 戦時中、創作ができない時に、人生に絶望したくなくて、聖書やキリスト伝を読んだ。同時に天理教についても再考して、その真理であることを父のために喜んだが、教団の欠点を知っているから、復帰はしなかった。今、宗教を選ぶならキリスト教だろうが、ローマ法王に謁見した際も、受洗しない理由を問われたが、恩恵がないからだと思っていると結んでいる。
 作者が初めて明確に記している信仰観について。芹沢氏を天理教信者であるとか、キリスト教信者であるという記述を未だに見かけるが、当館は――芹沢光治良は無宗教である――とここに断言しておこう。
毛利真美の絵 1953/5 文学界 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 20年前に児島善三郎の個展を見て感動し、以来20年間その絵を見続けることを楽しみとしたが、今度新たに毛利真美の絵に出会って、児島と同じ様な感動を持って楽しみを持った。
 児島は現在でも美術の世界に名を残しているが、毛利の方は残っていないようだ。
第二の故郷-二回目のスイスの旅 1953? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 内容は『スイスの旅』と同様で、そちらの方が詳しい。スイスの旅の感慨を思い出しながら再び書いたようだ。それにしても、僅かな滞在期間で「第二の故郷」と呼びたくなるほど、スイスに惚れ込んでいることがわかる。
母性愛について 1953? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 封建制度に育った母親が、開放された子供たちから蔑まれているような時代の、母親の憐れさを嘆いている。
 現代の母親はただ平和の中に安住して、向学するでもなく、不平があれば平気で離婚する。母娘は何でも話し合えるように仲良くなったが、戦後とは違った意味で、尊敬される母親は少ないのではないだろうか。
母への願い-投稿を読んで 1953? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
『フランスの母と日本の母と』『母性愛について』と同じテーマを扱っている。当時は余程、親子のギャップが社会問題だったのだろう。
1953? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 家のそばの路が、橋から右に曲がると舗装路で、左に曲がると未舗装路である。右には大臣の家があるからだが、作者の家は左にある。今度左の路に役所の住宅が建った。果たして左の路も舗装されるだろうかと皮肉な目を向けている。
私の読書遍歴 1953? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 中学の図書館で初めて読書ということを知り、蘆花の「自然と人生」「不如帰」から始まり、リビングストンの伝記に胸を熱くして、ロシアのゴルキー、武者小路を経て、「創造的進化」「善の研究」にも進み、ストリンドベリー、イブセン、ホイットマン、ベルレーヌ、ボードレール、モーパッサン、ロマン・ロランを知った。一高の3年に河上の「貧乏物語」を読んだために経済学に進み、有島に「草の葉」の講義を聞いた。フランスで病に倒れてからは、フランスの小説を読むことが生き甲斐だった。
私は失望しない 1953? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 選挙になって、作者はたとえ今の議会が醜悪であっても、失望することなく政治を見続けていきたいと、各地を回る。会場で熱心に候補者の演説に聴き入る聴衆を見て、話を聞き、民衆が案外よく候補者の真実を見極めているのではないかという感想を持つ。
肥えてきた民衆の目 1953? 1953/6/30 『幸福への招待』要書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 選挙が終わり、作者が信が置けると感じた候補者達が当選したのであろう。民衆の目が肥えてきたことを実感している。
白霧 1953/8/1 新潮
 日本に帰る前に旧友に会いたい。だが友の消息は知れない。苦労の末、やっと探し当てた友の妻は、二度目の戦争で人間の苦しみをしたと涙ながらに話すのだった。
 ドイツ協力派、レジスタンスの墓、この短編には二度目の渡欧でよく扱われるテーマが短くまとめられている。「新しいパリ」の付帯物のようでもある。
母の哀歌 1953/11/20 『母の哀歌』ポプラ社
 パリに住むクレールは14歳の誕生日に、今まで亡くなったとしか聞かされていなかった父が、コージ・フジワラという日本人の画家であったことを母から聞く。自分の名前は日本語で光子だとも。光子は父が生きているのではないかと疑いはじめたが、入学したコンセルバトアルで、赫子という日本娘と友達になり、父が生きていることを確認しようと――。
怒りに胸はふるえて 1954/6 中央公論
 作者にはめずらしく激しいタイトルは、ビキニの水爆実験に向けられた随筆。
 だが実際は、その水爆で灰を被った日本漁船に対するアメリカの態度が、日本人をひととしてではなく動物と扱っている事に始まって、実はそれが日本の為政者が国民を動物として扱っているからだと、真の民主主義の復興を説いている。
昼火事 1954/7 新潮 1973/2/10 『忘れがたき日々に』新潮社
 戦時中支那へ従軍した際に同行した記者が10年ぶりに作者を訪ねて、その時の記憶を蘇らせる。戦争が如何に人心を亡くさせるかを説いた書の一つ。
苦の鳩 1954/8/1 中央公論
 ××教の布教師である老人は、お授けに行った村からの帰り、道に迷ってしまう。道に迷ったのは初めてではないが、前回はもう50年も前で、当時のことを回顧して――。
 布教師を鳩となぞらえて父の信仰を描いているが、父の気持ちになりきって書くだけでなく、それを客観的に分析する長男、中立的な立場から祖父の信仰を認める孫の3者を描くことで、物語に広がりを持たせている。
むすめの野心 1954/9 小説新潮 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 作者の3女、4女をモデルに描いた短編で、後に『パリ留学生』として1本にまとめられている。
 声楽を学ぶ小説家杉の3女スミ子は、外国人の教師にパリの音楽院を目指しなさいと言われて、その気になった。しかし、父母も姉も本気にはしないので、スミ子は自らの力でパリに行くのだとフランス語学校にも通い始めて――。
森の声 1954/秋 文藝春秋 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 杉の小説がパリで好評を博した為に、スミ子はこれでパリに勉強に行けるものと淡い期待を抱いた。しかし、頼りにするラフォン氏からの手紙はなかなか届かず、この秋の入学は無理だろうと諦めるのだった。
小説に登場しない女 1954/11 小説新潮 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 小説家杉の前に過去の亡霊のような女清子が現れて、杉は愛する者しか小説に書かないから自分は杉の小説には登場しない女だと告げる――。この作品で面白いのは、他に登場する娘の母よりも清子の方に愛情を持って描かれている点である。
心に咲く美しい花々 1954? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 関西旅行で友人の化繊工場に招かれる。友人は女工にクラシック音楽を聞かせて、こころを豊かにしようと努力したが、その甲斐があり、女工たちの中に、読書会を組織して音楽と読書を楽しむ豊かな女性たちができた。
 上に立つ者が努力すれば、日本はまだまだ良くなるという教えであろう。
若者を信頼していい 1954? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 太陽族が盛んに騒がれた時期らしい。親の心配に答えて、若者をもっと信頼していいと言っている。
「人口過剰」のため息 1954? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 講演から帰る新幹線で、作者の随筆を読んだ老人に「日本は人口が多くてどうにもなりません」と話しかけられる。講演しても、よくそういう話を聞くが、オランダやデンマークが成功している例を挙げて、人口過剰を言い訳にしないで、適材適所で頑張るべきではないかと励ましている。
 この9月に『サラリーマン道への反省』という随筆を載せた雑誌があったようだ。
小国に生きる心構え 1954? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 「日本は小国になったから将来に希望がない」という若者の言葉に、小国故の生き方を探る。日本は軍事大国から小国に変わったが、かつての大国の夢を捨てて、スイスやスエーデンのように福祉国家に生きるべきだと説いている。
天国の創造は夢ではない 1955/1? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 ベレソールが「世界で尤も優秀な民族はフランス人と日本人だ」と言った話と、30年履いた靴と刷毛の話をして、日本人が優秀であることを教え、その労力と資力を、武力の代わりに仕事に使えば、日本はスイスにも負けない天国となるだろうと希望を述べている。
 この靴のことは、10年後に『一足の靴の話』でも取り上げている。
”十年の余韻”あたためて 1955? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 40歳まで生きられるだろうかという身体が、戦後でとうに40を超えたのだから、これからは他人のためになる生き方をしようと、講演会や身の上相談を引き受けて10年が過ぎた。その為に社会をよく知ることができたが、10年経ったから、今度は良い作品を書くために過ごそうと気持を切り替える。
芸者※ 1955/1 サンデー毎日 1956/1/25 『芸者』鱒書房
人形師の涙 1955/1 別冊小説新潮第9巻第2号 1997/4/10 『芹沢光治良文学館10』新潮社 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 作者の家にあった義母の形見の八重垣姫にまつわる物語。八重垣姫を柱に義父母のこと、戦争のこと、家族のこと、八重垣姫を仲介した林芙美子のことが走馬燈のように展開して、仄かな余韻を残す。
麓の景色 1955/1 スタイル 1955/12 『麓の景色』角川書店
 戦後貧しくなった我が家で、優しかった母も金の亡者のようになり、娘のヴァイオリンに対するひたむきな情熱を理解しない。だが娘は母の愚痴にも周りの誘惑にも負けずに精進を続ける。
 本作以前の若い娘が主人公となった作品には『春箋』『幸福の鏡』があるが、本作の登場人物はその2作に比べると人が好くなったようだ。それも主人公のはつ子がヴァイオリンという明確な目的を持って生きるから、その周辺に集う人々にも幾分魂の澄んだ人達が多くなるのではないだろうか。
少年 1955/2/1 新潮
 ある小説家のフランスでの作品出版を記念して、昔の教え子たちが集まって同窓会を開く。教え子たちは口々に昔語りをして、小説家を30数年前に引き戻す。
初恋の女 1955/2/1 小説新潮
 画家の杉田治郎は文芸祭に出席して、和服の美しい婦人に声をかけられた。一週間後にフランス語の恨み節の手紙を受け取った杉田は、婦人が一高時代に通学路で愛した西川加寿子だったと気づく。
 この小説には、その後に愛したA子という女も登場する。安生鞠子を連想させるこの女性をA子と仮名にしたのは、作者の思いの深さを感じさせるのだが。
候補者の妻 1955/2 別冊文藝春秋第44号 1973/2/10 『忘れがたき日々に』新潮社 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 作者が秋田の営林局で高等官をしていた頃、作者に思いを寄せた芸者がいた。作者は相手にしなかったが、その芸者が数十年の時を経て作者の家を訪れる。女の長い間忘れることのなかった執念とすっかり忘却の彼方の作者を対比すると面白い。相手の芸者もこれを読めば、長い間の胸のつかえも取れただろう。
一庶民の悲願 1955/4/1 文藝春秋
 副題は「人間らしい生活のできる家だけでも欲しいのだ!」。友人のフランス女性作家シャブリエが4年ぶりに訪れて、戦後10年経っても日本の庶民が非人間的に扱われていると言う。
 随筆。ここで嘆かれている特権階級の存在は、今も格差社会という新しい形で存在している。ただ庶民も家を持てるようになった今、作者が嘆くのは環境問題ではないだろうか。
椿一輪※ 1955/5 小説新潮
パリよ・さようなら 1955/9/1 小説公園
 51年の渡欧をモデルにした創作。1話は下宿のカメンスキー夫人との会話だが、スワ・ネジコの挿話は実話だし、三木清との想い出も実話である。2話はアメリカ人になった日本人夫婦に会った話だが、これも実話を元にしている。3話の砂原も実在する人物である。4話は戦争犠牲者の墓の話で、大戦の苦悩を日本の現状に結びつけて嘆いている。
 カメンスキー夫人がネジコに娘らしい楽しみをさせれば良かったと悔いるシーンが美しい。
愛と死の蔭に 1955/10 『女と愛と死と』別冊小説新潮 1956/11/1 『愛と死の蔭に』光文社 『芹沢光治良文学館1』新潮社
 『女と愛と死と』、1956/1『ゲッセマネの夜』別冊小説新潮、1956/8『死につかれた日々』小説新潮、1956/6『死のあとに』世界、をまとめて加筆し単行本化した。20年近い時を経て書かれた『愛と死の書』の続編。
 前作では、親しいものを亡くした激しい感情だけが独り歩きして実を結ばなかった感のある全体のトーンが、作者自身の経験と成長により、本作では見事に実を結んでいる。
 津村若子は戦争で失った夫・秋夫を創作に生かそうと努力し、疎開先の軽井沢で小説を書き上げた。それを読んだ秋夫の弟・次郎が若子を訪ねて、義母と和解するように頼む。それは遺言となり、若子は義母との苦労の多い生活を始めるが、その母も亡くなって、現れたのは弟春寿の子・春子を連れた若菜だった。
巴里夫人 スタイル 1955/11 『巴里夫人』光文社
 51年、アメリカの占領下にある日本から、ペン大会に出席するために渡欧を許された主人公は、パリで出迎えの人の中に活動的な日本婦人を発見する。彼女はマダム・アイダと言って、日本料理店の主人だった。戦前の封建制度の家庭で不幸に育った女が、離婚してパリに住み着き、大戦のフランスで生き抜くまでの一生を語る。主人公は、夫人の告白を失恋したM子や妻のA子に重ねて、自己を省みている。
 本作はある女流作家の盗作にあって話題にもなった。モデルの浅田夫人は阿部知二や石川達三の作品にも登場する。
姉妹 1956/2 新女苑 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 スミ子がパリへ発ち、今度は自分の番だと節子は高校の卒業を待つ毎日である。そんな時、スミ子の部屋からコツコツと窓を叩く音が聞こえて、母はスミ子がホームシックで知らせるのではないかと心配した。
非現象の世界 1956/4 知性 1973/2/10 『忘れがたき日々に』新潮社
 林芙美子に似た少女に街角で声をかけられて――非現象の世界に傾倒する当時の世相をコミカルに揶揄っているが、現在も同じような時代である。これは物語だが、実際その頃の作者の家には実に様々な人が押しかけていたようだ。
パリよこんにちわ※ 1956/5 東方社
都鳥の女 1956/8 小説公園 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社
 小説家の杉の元に読者である夫人が訪ねて結婚をせまる。
 作家と読者の枠が判断できなくなった、こころ乱れた女が主人公だが、まじめな夫が物語を中和している。病んだ者を救えるのは家族の愛情だけだが、この夫では心許ないかもしれない。
死の影 1956/10 文藝春秋 1973/2/10 『忘れがたき日々に』新潮社
 作者は『人間の運命』執筆中から喘息に苦しんだが、結核から立ち直って忘れていた死と向き合って暮らすということを、喘息によってまた呼び覚まされる。ラストの会話がコミカル。
ピッコロ 1956/12 群像 1974/9/15 『芹沢光治良作品集⑧』新潮社
 心変わりした婚約者の男と最後の別れをした町子は、昔病後を養った海辺の町で電車を降りた。そこにはかつて自分に求婚した男の妻が待っていた。
 舞台は我入道で、狩野川、不動岩、姥のふところといった芹沢作品お馴染みの場所が登場する。その馴染みの風景の中で、女二人がこころの闘いをするのが主題のようだが、実は町子が若き日の自分を回想することで、男を忘れて、その頃の新鮮な気持ちに戻るまでを描いているように思える。
パリ留学生 1956/? 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 スミ子は同窓の今日子と休暇をどう過ごすか話し合った。父も周りの知人たちも、避暑に出て身体を休めるように説くが、自分は誰の世話にもならず、アルバイトをしながら独力で過ごして、精神の修行にしたいと考えていた。
女子留学生 1956/12 小説新潮 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 厳しいマダムの元で過ごしたシャモニーの休暇も終わり、スミ子はパリに戻った。パリでは女子留学生がフランスの青年に殺された事件の話題で持ちきりで、ラフォン夫人もピエラール夫人もうるさくスミ子に注意するように話すので閉口する。
高原の出来事 1956/? 新潮 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社
 養父のような伯父から高原に招かれた信吉は、そこで夫婦と妾の不思議な共同生活を目撃する。
 この作品は短編には珍しく2つのテーマを扱っている。ひとつは養父と息子との物語で、もうひとつは「太陽族」の青年の非行を描いている。どちらも「苦悩多き日々」ということだろうか。
女にうまれて 1957/1/12 婦人之友 1958/7 文藝春秋新社
 小説家杉の4人の娘たちは、戦後の荒廃した社会の中で、いかに人間らしく生きるか、それぞれの人生を模索しながら、結婚に、留学にと進んでいく。
 娘4人をモデルに描いた珍しい作品。女性が生き方を考える上で、何かしら得るところのあるのではないだろうか。エンディングでは、終始脇役の妻が大きくクローズアップされて暖かな余韻を引いている。
霧の日も月の夜も 1957/1 小説公園 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 父の世話になったボングラン夫人が突然訪ねてくると知らせがあり、スミ子は驚いたが、自分の部屋で歓待することにして準備する。ボングラン夫人はスミ子の慎ましい暮らしに感嘆して、両親との想い出を語ってくれるのだった。
ふるえる頬 1957/2 新潮 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 英仏によるエジプト爆撃で、留学生たちは戦争の勃発を怖れた。そんな中で、教室のホープのガストンが、スミ子の歌に興味を持って指導を始める。隣室のルネは、戦争を危惧するスミ子を励まそうと孤児院に誘って、スミ子は仲間たちの友情に感謝するのだった。
ミモザの花と娘 1957/4/15 新潮 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 仲良しのドニーズが先生とうまくいかなくてコンセルバトアルを辞めさせられて、同じようにジュアット先生と反りの合わないガストンも辞めさせられるのではないかとスミ子は怖れていた。そこへ当のジュアットからテアトル・パリでデビューすると知らせれて――
おかしな花嫁花婿 1957/6/1 小説公園
 美男ともてはやされた幼なじみが愛のない結婚式から逃げるようにアメリカに発ち、30年ぶりに帰ってきて、本当に愛した女性との結婚をやり直す。
 戦争を挟んだまさに「おかしな」ラブロマンスだが、若くて未熟だった主人公も、年と苦労を重ね円熟した時期に、第2の人生を始めるという清々しさが、語り手の不安を払うように全編に漂っている。
あじさいの女 1957/7 新潮 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社
 批評家の山辺が処女作を誉めたより子が家まで乗り込んできて、母に会ってくれと連れてきた女は幼なじみのきみ子だった。きみ子は学問したさに村を出て、芸者になったが――。
 男と同じように学び、出世することが女性には夢だった時代の物語だが、当時の作者は、田舎で薄汚れた細君になるよりも、こうして自分の道を切り拓こうと努力した女性の方を愛したのではないだろうか。こうした女性は何度も作品のテーマになっているから。
女と男と 1957/8/1 群像
 松子はベルリンで親しくした山岡の告別式で、勝手の愛人と再会した。夫も亡くし、子供のことで相談する相手のない松子は、かつての愛人に相談に行こうと決める。
 モデルは安生鞠子と作者であることは読者ならすぐに分かる。この頃の多くの主題である「母と子」がやはりテーマであるが、そこに自身のロマンスを載せて二つの時代の比喩にも使っているようだ。
「いか」と「鶏」と「マダム」 1957/8/1 あじ・くりげ
 料理雑誌のエッセイ。
 芹沢夫人が妊娠中に「いか」を食べたいと言い出したが、フランスでは生のイカは鶏のエサ並の価値だった。芹沢氏が結核になったときには、マダムが馬肉を生で出して、2度とこれを食べないで済むようにしなさいと諭した逸話がこころ温まる。
女の匂い 1957/8/12 新潮
 この頃、タイトルに「女」がつく作品が並んでいるが、意識してつけていたのだろうか。この後に『運命の河』を書いていることから、その手始めに書いた作品であろう。主人公の母子はそのまま『運命の河』のたつとみどりに重なっていく。
 戦後10年を過ぎてなお戦争の影を引きずるあや子と、新しい時代を生きようとする民子は、母子であれ、全く違うこころの世界を生きていた。
かくした宝石 1957/10/15 新潮 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 スミ子と共に日本を発った和子が帰国して、よし子の元に挨拶に来た。スミ子ももう帰ってくればいいと思うのに、今度はまた4女の節子がフランスに旅立つのだと用意を始めた。
運命の河 1957/11/21 三社連合 1959/2/10 『運命の河』角川書店
 58/11まで連載。女の幸福についてのメリメの一文が冒頭に引用されている。新聞小説というと『春箋』『秋箋』を思い出すが、主人公たつが美枝よりも遙かに愚かでやりきれない。作者はかつてない女主人公を書き上げたと満足している。
 就職を落ちて、花村みどりには出生の秘密があることが明らかになる。今まで母と思ったのは祖母で、姉と思ったたつが実の母であった。その姉を頼って上京した日から不幸な日々が始まる。それというのも、たつが男に頼ってしか生きられない哀れな女であるためだった。
マリア観音 1958/1 新潮 1997/4/10 『芹沢光治良文学館10』新潮社 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 戦後10年も経ってやっと作者は自宅の焼け跡に家を新築した。沢山あった灯籠も戦後の混乱期に全て盗まれたが、地中深く埋もれていたマリア観音だけが発見された。この灯籠は作者の我入道の実家裏で代々先祖の信仰を集めたものだったが、今は妻が娘の無事を祈る――。
女ばかりの寄宿舎で 1958/3 公園 1958/5/15 『パリ留学生』角川書店
 いよいよ4女の節子もパリに来て、スミ子は男のことで何かと噂になる生活から離れることが出来て喜んだ。節子は無事に良い先生につくことが出来て、パリでの生活は順調に滑り出した。
ドゴールとマルロー 1958/春 朝日新聞 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 作家のアンドレ・マルローが国務大臣となって来日し、新しいドゴール政権について意見を聞いてくれと求められたが、文学の話ならともかく、彼から政治の話を聞く興味はないと、娘たちから送られてくる手紙とメディアによって知る知識で、ドゴール政権を冷静に判断する。
美人 1958/7/1 日本
 『パリ留学生』と同設定の作品。コンスタン伯爵はスミ子に頼んだ絹子という女性からの手紙の翻訳を受け取りにきて、妹の節子を見かけ、美しいと誉める。日本では美しいなどと言われたことのない妹が、パリでは驚くほど美人に見えるようで、スミ子は自分に欠けている中音の勉強をしながらも、妹のことが気掛かりでならない。
友好国際賞と娘 1959/2? 朝日新聞 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 フランスの詩人連盟から第6回の友好国際賞を受けることになった。式では娘たちが出席し、講演会では旧友ピエラールが作者の文学について講演した。
 その後、祝賀会まであって、娘二人は詩人連盟の会長パスカル・ボネティ、副会長シャンソン、デュアメル、ガンドンなどの父の偉大な友人たちに囲まれて大変だっただろう。
パリの空の下で 1959/6/10 『女の都・パリ』新創社
『再びブルジョアの日に』『眠られぬ夜』の続編。
 ボーチェ博士の国際サナトリウム計画を支援するために、ノーベル平和賞の推薦文を書くことになった主人公は、その運動と、博士を支援する日本の著名人が日本で活動してきた事実から、個人の命を大切にしない日本の風土を憂える。
ロジエの手紙 1959/6/10 『女の都・パリ』新創社
 パリで止宿したドモリエール家の息子から手紙が届いた。その手紙は、日本のプリンスとして扱われたインフレ時代のパリの想い出を連れてきて――
 夫を亡くした時、食い扶持が減って助かったと喜んだ夫人が、国がインフレを克服すると、今まで生きてくれたら幸福になれたのにと涙を流すが、幸福とはある程度の金銭的背景があって成り立つものだという作者の思いが流れている。
パリの文壇の内部 1959/夏 朝日新聞 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 パール・バックがフランスの文壇にデビューして、宴が続いた。その華やかなサロンに文壇の内部を見る。新字を見つけ育てる苦労やお金のかかること、フランスの文壇は、日本と違って相変わらず大変なようだが、作家たちがサロンに勉強にと頑張っている様子を傍観して、自分も帰国して頑張らなければと、延ばし延ばしにしている帰国を思うのだった。
坂の上の家 1959/9 中央公論社 1959/9 『坂の上の家』中央公論社
 NHKでドラマ化もされた作品。定年を迎えた男とその家族の物語。30年以上も家族のために身を粉にして働いてきたが、定年になって家に戻ると家族からは厄介者のように扱われ、子供たちの心もわからないほど家族もバラバラになっていた。
 この作品は戦後12年しか経っていない昭和32年に書かれているが、この手の話は最近までよく映画やドラマなどで扱われた問題である。芹沢文学がもっと庶民に浸透していれば、そんな家庭も減ったであろうが。定年になった男が絵を志したり、唯一の理解者である嫁いだ娘がまた芸術一家であるという辺りが作者らしさか。
西欧文明の一つの灯 1959? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 一昨年、東京のペン大会で、スイスのジャーナリストから高原サナトリウムが無くなったと聞く。今回の渡欧でその真偽を確かめようと、レーザンのデュマレ博士に手紙を書くと、博士はローザンヌに近いクラランに隠棲していて、結核から解放されたと微笑んだ。ボーチェ博士の大学サナも夢と消えていた。その後、「チボー家の人々」のマルタン・デュガールの家を訪ねると精神薄弱児の施設になっていて、その献身的な精神に感心する。カメンスキー夫人に伴われて見舞ったラチモフ夫人が、脳溢血で廃人のようになっても、手厚く看護されていた様と併せて、西欧の文明の一つの灯を見た思いだった。
雨の囁き 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社
 夫が出征して銃後を守る妻の日常を描いた作品だが、冒頭に「苦悩を耐えているといろいろなものが見えてくるのだろうか」という表現がある。実際、多くのひとは、日常の繁忙に心を奪われて、道の木々や花々の美しさに気づかないものだ。だが、苦しい経験をすると、大自然は輝いて見え、鳥のさえずりに耳を傾けているだけで、自分が幸せであったことに気づくものだ。
独り心中 1979/7/30 『苦悩多き日々に』広論社
 婚期を逃した節子は家庭からも友人からも追われるように、高原の雪の中で眠りに就く。
 この苦悩多き時代は、戦前を捨ててしまえるかどうかで、その人の幸不幸が決まったようである。それを引きずった節子が愚かであって、戦前を捨ててしまった男は攻められないのだろう。

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