フランスでの2冊目の出版となる「サムライの末裔(一つの世界)」についての記事。

「サムライの末裔」の記事
「サムライの末裔」

原爆のイメージとは何であろう。私には混沌、映画「広島の子供たち」に見るシーン、エニウェトクの後の日本人漁師達の顔、そして1945年8月6日の広島である。最近おこったその残酷な日の現実は、映画人や作家によって知らされる。生存者には、その日付が何を意味するものか、自問する事がしばしばある。当時の恐怖だけでなく、及ばされた反応というものについて。そこに現れたのが、「パリに死す」の著者による「サムライの末裔」である。題名は能の世界を予想させるものであるが、我々の希望に答えてくれる作品でもある。「パリに死す」によって氏は、心理描写にたけて、日本女性を讃美していた。

(中略:あらすじ)

こうして戦後の、引き裂かれた、しかし生存している日本の姿が見えてくる。 多分その復活が、守り続けようとする生が、サムライの末裔」によって胸をつかれる。 アンヌ ヴィルロー


「サムライの末裔」の記事 Carrefour 1955年8月3日

1945年8月6日、つまり10年前、広島の空に光が轟いた。何千人という死者は、原子時代の幕開けでもある。この悲劇、その続きを語るのが、芹沢光治良の「サムライの末裔」である。広島の原爆化と生存者について描かれている。ヴァカンス中の読み物としてふさわしくないとおっしゃるだろう。否。ヴァカンスは、存在する喜びを満喫させる。だからこそ、突然に燃えさしとなってしまう恐怖がわかるというものだ。

占領下の日本を、芹沢光治良は膨大な史料をもって表している。勿論被占領人は、 占領人に対して賛否両論ある。我々もそれを体験している。しかし日本人の場合がフランス人と違うのは、敗者は敗者であり、戦争は良かれ悪かれ終わったのだ。パンパン達は日本愛国者に嫌われたが、愛国者は占領人にどう向かったらよいのか解決策がなかった。実際、敗者が勝者に対するのに、微妙なニュアンスがあった。短い分析から、作者の巧妙な筆さばき、性格を描写する技術、作品の豊かな内容等を伝えるのは不可能である。一つだけ残念なのは、民衆の登場する場面が少ない事であろう。


「サムライの末裔」の記事 L'information 1955年7月8日
「ピカドンは魂をも破壊した」
筆者 ルネ・ソレル

芹沢光治良は57年前に、富士山麓、浮世絵の背景のもとに生まれた。「ブルジョア」「イエスの生涯」、随筆類は英語、ドイツ語、中国語に訳されている。何年かフランスに滞在したのに、我々が彼を知ったのは「パリに死す」による。「サムライの末裔」は、多分英訳を元にしてであろうか、カズ夫人(訳注:青木和子大使夫人)がフランス語化したものに、ピエラールが手を加えた。二つの翻訳という二重の幕を通して、文学作品の善し悪しを論ずるのは危険である。その上外国文学に接する時、文体を読み取るより、その国や人々を知りたいという欲がある。その見地からして「サムライの末裔」は、広島以降の日本を知る絶好の史料である。ピカドンとは日本人が名付けた、45年8月6日の恐ろしい爆弾である。ピカドンを題材にした著作は既に多い。また「広島の子供達」の映画も忘れ難い。しかし、肉体は傷付かぬとも、顔は変貌しなくとも、敗血症にならなくとも、魂が破裂してしまった場合がある。それが芹沢の小説のテーマであり、占領下の日本、それに続く5年が語られている。


「サムライの末裔」の記事 「サムライの末裔」
左 Gazette
筆者 エマニュエル ブオンゾ

出版社が広告しているように、日本の戦後の大作であろうか。ともあれ、稀な題材を扱った、独特な作品であるのは確かである。確信を持った力と、明白な展開の効力をして。憎むべき戦争に対する筆者の告発は、事実を簡潔に示す事により強く印象付けられる。文明大国をひきずり、45年8月6日の朝 、広島の空に至るまでの<戦争の必要性>について雄弁に呪い 、憤然の叫びをもって 判決をくだす。

「既に街中は負傷し者で一杯だった。頭が血だらけの人、腕をぶら下げている人、ある者は棒切れにもたれ、ある者は人の肩にもたれ、赤坊を背にくくりつけた女、血だらけの女子供。その男女達は、目に見えない力に引き込まれるように、沈黙して這っていく。ぼろきれを身につけた、無言の操り人形の列であった。」

ページを繰る度に次から次へと、地獄の様相が示される。奇妙なまでの冷酷さをもって。それが黄色人種の自然な表現であるのか、それとも事実の恐怖が、写生する感受性を凍り付かせてしまったのか。どんな恐怖に遭遇してしまったかわからずに、黙りこくって行き来している蟻が見えてくる。

「ピカドンを体験した者にしか、生きる事なく存在するとは何を意味するか、理解できない。」

真ん中下
Les Nouvelles Litteraires
筆者 コリン・デラヴォー

広島の爆弾による惨害が克明に描かれている。占領下の現実に退廃を余儀なくされ、熱に冒された様な存在にして然りである。混沌とした国の、打撃を与えられた中より、手探りで、反芻して、癒されていく経過。ピエラールは巧みに編纂している。

右 L'expresse 8月6日
「サムライの末裔」312ページ 600フラン

あまりにもひどい経験の為に、苛酷な求めをする事がある。日本民族のそれを、この情熱ある著作は、完璧な生きた描写と、最大のデリケートさとで模範と言える。中心的登場人物である光子は、生きる喜びを失った、日本のイメージをになっている。

(中略:あらすじ)

ピカドンとは原爆の事であり、広島の空の閃光は、戦後の日本につきまとった。敗戦、占領は、この恐怖に関連する。生き残った後、何年もたってから原爆病に冒される者がいる事実に、無関心であってはいけない。深い罪の意識は、民衆の道徳を倒壊にかきたてる。古い、残酷な、軍と慣習による日本は、かつてなかった非人間的行為によって目覚める。


「サムライの末裔」の記事 「サムライの末裔」

広島より丁度10年たった。非常事態は脅迫観念をはらう事ができない。多くの語り、証言、映画、記事等が絶えず記憶を呼び起こす。しかし小説だけが犠牲者の内的な事柄に入り込み、ドラマの精神的な足跡を提示し、時をおいての経過を知る事が可能である。「サムライの末裔」は、その典型と言える。かの国では著名な作家である氏については、こちらでも「パリに死す」によって紹介された。負けて占領された45年8月10日(訳注:15日の誤り)の休戦から朝鮮戦争が始まる50年までの、日本の姿がモチーフ。登場人物の数は少なく、各々が、立場や年齢によって異なった行動をとる。

(中略:あらすじ)

日本語をフランス語に変換するのは、非常に難なものであろうが、ピエラールは立派に、簡素で単刀直入な、それでいて寛容なこの作品の美徳を捕らえている。10周年記念の年にふさわしい出版である。

※上の書込は芹沢氏自身の筆跡による。