芹沢氏が自分の生涯を翻弄され、実父がすべてを捧げた天理教とは何であったのか。それを知るためには、教祖中山みきの伝記を書くのが一番だと考え、書き上げた天理教教祖伝が『教祖様(おやさま)』です。

芹沢氏が書くからには、教祖伝と言っても単なる伝記ではなく、すばらしい文学作品に仕上がっています。作者はこれを書きながら、主イエス・キリストに降りた唯一の神が、大和の農婦、中山みきにも降りたのだと信じられました。その作者が10年近い歳月を通して見つめつづけた中山みき像の結晶『教祖様』を下地に、中山みきの生涯および神と信仰について考えてみたいと思います。

教祖様(おやさま) 後に「おや様」と誰からも親のように慕われた中山みきが生まれたのは、1798年6月2日、今から約200年前のことです。生まれた場所は奈良の田舎の三昧田という部落ですが、重要なのは近くに大和神社があったこと、そして「いざなみのみことが3年3月とどまった」と親神の言う庄屋敷村にほど近かったことでしょう。

家は農家で名字帯刀を許された、今でいう中の上くらいの家庭でした。信仰の面から見れば、みきの両親は浄土宗の熱心な信者で、みきもその影響を受け、13歳で中山家に嫁入りの話が出たときも、「尼になりたい」と言って一度は拒否しています。結局両親に説得され結婚しましたが、その条件に毎晩念仏唱名する許可を求めるほど信仰心のある娘でした。

不思議ではありませんか? 13歳の娘が尼になりたいと言うほど仏を求めたこころが。少女のみきは何を思っていたのでしょう。

中山みきの生家前川家 1999年春、みきの生家前川家を訪れました。田舎としては決して大きくない家です。そこ大和は周りを山に囲まれた、どこまでも平坦な土地です。風光明媚なわけでも、厳しい自然があるわけでもない、何もない田舎町でした。

みきは婚家において人並み以上の働き者でしたが、5年間子供ができなかったことで肩身の狭い思いを味わいました。その頃、中山家の檀那寺である善福寺で五重相伝の伝授会が行われ、悲しんでいるみきを思いやって、家族が参加を勧めました。みきは伝授会の後、「本当の意味で受けたのは唯一みきだけだった」と和尚から感心されますが、この経験により、みきに神が降りるというわけではなかったようです。

神がかりのある前のみきを簡単に評すれば、欲がなく、こころのきれいな働き者で、信仰心の厚い娘ということでしょうか。この事は、神が降りる社となれる最低条件かもしれません。そのみきに神が降りたのは、1838年10月24日のことです。息子善右衛門の足痛快癒を祈願するために修験者を呼んだのですが、加持台が偶然留守で、みきが代役に立ったのでした。この事はみきが修験者も認めるほど心の澄んだ慈悲深い人間であることを示しています。だが、その祈祷に降りたものは、いつものような霊や八百万の神ではなく、「天の将軍」と名乗る唯一の神でした。神はみきの口を通じて、中山家に「因縁あるこの屋敷、親子もろとも、神の社にもらいうけたい……返答せよ」と迫ります。

ここで少し注釈を入れます。「神」と本欄で使う神は、この世の運営に関わる人間のような意志のある見えない存在です。決して唯一神を指すものではありません。この見解の理由は、僕自身の体験(管理人月報参照)、また「この宇宙を造った神とは、人間のような意志のない存在、ただ大自然そのものではないか」という芹沢氏の晩年の解釈に依ります。ここで使う神は、その大自然の意を伝えることのできる存在と考えてください。天にはそんな八百万の神々が実際に存在するのです。では本題に戻ります。

ここは不思議なところです。因縁ある、つまりいざなみのみことが3年3月とどまったこの地を、世界助けの中心にすることは、最初から神の計画であったわけです。いざなみのみことの魂を持ったみきを、この地に住む中山家に嫁に迎えることも、すべて神の思惑であったということになります。また、神は「引き受けないなら、この家粉もないようにする」と脅していますが、それほどの力を持った神なら、そんな事を頼まずに、ただ「もらいうける」と宣告すれば良いのではないでしょうか。人間に選択の権利を与えたのでしょうか。

ここで思い出すのは『旧約聖書』です。旧約の世界の中で、神は幾度となく人間の自由意志を尊重する態度をとっています。神の望む生き方をすれば幸福は約束され、それに反すれば苦難を嘗める。それを決定する権利はいつも人間の側に与えられていたのです。そして旧約の中で、人間がいつも神には抗えないと悟ったように、夫善兵衛も、全ての親類が反対する中、天の将軍の申し出を承諾したのでした。

みきはこのとき40歳になっていました。当時としては、子供を育て上げ、妻の役目を終え、夫と楽隠居を待つ間際の年齢でした。神は何故この年齢まで待ったのでしょう。釈迦の母、イエスの母、伊弉冉尊の魂を持ったというみきに神が降りることは、最初から神の計画であったはずです。それならばもっと早くに降りても良かったように思えるのですが(実際、釈迦もイエスも30の声を聞いた頃に神に触れています)、神は40歳のみきに降りたのでした。それは、どんなに清い魂を持った者でも、女として人間として生きるうちに、俗世に汚れて堕落することがあるから、それを見極めるのに40年が必要だったということでしょうか。あるいは、それも神の計画だったのでしょうか。

この日からみきと家族の苦難の生活が始まります。みきは貧しい者や病んだ者への施しを始めたのです。それも家財をすべてなげうつような、度を超した施し方でした。みきは神のことばを聞いて満足していましたが、神のこころが家族に理解されない苦しみを抱き、家族は家族で、母が狐つきと罵られ、実際にそう思えるような無理な施しの中で苦しんでいました。そして、その苦しみは10年以上続きました。10年以上の苦しみに堪えた家族の苦しみが、こころを打ちます。

例えば、息子の善右衛門は嫁を取りましたが、夜中にみきに神懸かりがあるのが怖くて、3日で実家に逃げ帰っています。善右衛門の嘆きはいかばかりだったでしょう。自分が足痛にならなければ――そんなやるせない思いに苛まれたのではないでしょうか。長女のまさも婚期を逃し、家は殺伐とし、親類縁者はそんなみきを狐憑きだとして激しい拷問を加えますが、ついにみきの身体からは狐は出ませんでした。

為す術のない親類縁者は中山家と縁を切りますが、みきの施しは一層激しくなり、ついに先祖代々の田畑に手を付けはじめ、家を守る塀を壊すのです。一家の長である善兵衛は苦しみ中で、子供たちを守るためにみきと共に死を考えますが実行できません。みき自身、家族に済まなくて自殺を考えますが、やはり神に説得されて諦めるのです。善兵衛は、親類から義絶されようと、近隣から嘲笑されようと、みきを離縁することができませんでした。

釈迦もイエスも、家を捨て家族を捨て、無一物になって教えを説きました。しかし、みきは家族と共に歩んだのです。その為に、神の声をきけない家族は、疑惑と苦しみの中で過ごさなければなりませんでした。なぜだったのでしょう。それは、神が初めて男性ではなく、女性のみきを選んで降りたことが、大きな鍵となっているように思えます。釈迦やイエスが火のような強さで教えを説いたのに対し、みきが女性のやさしさで教えを説くという違いの中に、教えの雛形となる家族も必要だったのではないでしょうか。

みきの家族はそのように苦しみましたが、その苦しみの中から、古い家族を超えた新しい魂の家族の芽が植えられ始めたのでした。みきは天啓から10年後に裁縫を教え始めますが、そのお針子の口利きで次女のきみが嫁に出ます。狐憑きの家の娘を嫁に貰う家が現れたのも、みきの地道な教えが実を結べた兆しだったのでしょう。五女のこかんも母の意をくめる娘に育っていました。

みきが56歳の時、結局最期までみきに寄り添って生きた夫善兵衛が天に帰ります。その頃のみきは、ただ神に仕えていたとはいえ、封建制度の元、夫善兵衛に仕える気持ちが残っていたのは間違いありません。その仕える者を天に送り、後はもう神一条に生きられる――そんなこころ持ちだったのではないでしょうか。そのこころに添えない長女のまさは家を出ました。神の準備は整い、その年の晩夏、みきは次女のこかんを大阪ににおいがけに出します。ついに布教活動が始まったのです。

布教とは何か? 布教とは読んで字の如く、こころを救い、魂を救う教えを敷き広めることです。現在の宗教の多くが誤ったのは、それをただ単に「教団を広げる」と置き換えたことにあるようですが、その非に気づくような知恵のある世代の登場はいつになるのでしょう。

そうして現在の天理教の元となる活動が始まったわけですが、家族はまだみきを信じてはいませんでした。母屋を売ろうと言い始めたみきに、戸主の善右衛門は反対しますが、持病の足痛が起きて観念します。病は全て自らの内に理由がある――この事は案外簡単な真理ですが、知らないひとが多いのではないでしょうか。その真理を起こすのは神の業ですから、神が善右衛門に気づかさせるために足を痛めることくらい何でもないことなのです。

布教を始めた翌年には、娘はる(きみが改名)のお産で初めて「おびやのゆるし」をみせます。その評判が広がって「お産の神さん」と言われるようにもなりますが、その頃には家を売り、日々の飯にも困るほどの窮乏で、みきの家は相変わらず嘲笑の的でした。しかし、みきが59歳の時、足達重助という男が、いざりの娘を助けてくれとみきの元を訪れます。みきはその場で娘を歩かせて、初めての癒しをみせます。この二つの出来事が、みきの身辺に変化をもたらし始めたのです。

みきが64歳から66歳の頃、ついに「神の家族」が姿を見せ始めます。病気を癒してもらった者のうちから、みきの教えに耳を傾ける者が出てきたのです。66歳といえば、みきが神がかりにあって25年後のことです。四半世紀――なんと長い月日だったことでしょう。ですが、それも過去を振り返れば無理もないことかもしれません。たとえば釈迦は王子として生まれ、幼い頃から学問に通じ、出家して後も7年間、死に瀕するような苦行を行っています。イエスも子供の頃から律法に通じていたという下地がありました。ただの田舎の農婦であったみきが、神の話を理解し、その身に染み込ませるまでに、25年は必要だったのかもしれないのです。

神の家族はひとりまたひとりと増え、みきの家には常に人々が集って、毎夜みきの神の話がとりつがれました。みきが67歳の時、「とうりょう」と呼ばれ、後にみきの片腕となる大工の飯降伊蔵が入信します。伊蔵は、妻里が産後の肥立ちが悪くて寝たきりだったのを助けられたのですが、初めてお礼に伺った日の帰りに、「お礼にお社をつくってさしあげたいなあ」と夫婦で話し合うほど、こころの豊かな二人でした。その気立てゆえでしょう、1ヶ月後にはもう「お授け」をいただいています。そして、その伊蔵の希望通り、壊してばかりだったみきの家にお社がふしんされたのです。

せっかく余計な衣を脱いで身軽になっていたみきは、このふしんをどう思ったことでしょう。釈迦ならば、あっさりと「大切なのは器ではなく中身だよ」と建物ではなく、こころの普請が必要であることを説いて、拒否したことでしょうが、みきには人間的な情が残っていたのでしょうか。それとも聞く耳を持たない信者たちを、太陽のようにただ優しく見守ったのでしょうか。

みきと信者との断裂は、信者が現れはじめた、このごく初期の頃からはじまっています。みきは何とかして信者たちに、神の理をわからせようと話し続けたことでしょう。しかし、耳あれど聞かずの信者たちのこころには、なかなか浸透していかなかったようです。すぐそばに神の意を伝える者がありながら、俗世のこころを捨てられない信者たち。このことからも、神のこころになるとは、いかに大変なことであったかがわかります。作者はそれを当時の農民たちにとって「革新的な教えであったから」だと書いています。

これだけ文明が進化し、人々が生きるための様々な智慧を持ちはじめた現代でも、この書物の親様の教えを読んで、きちんとその意味するところを理解できている人がどのくらいいるか。それを考えると、作者の同情も正しい評価なのかもしれません。あるいは神の言葉を理解できても、神のこころに添って生きることが如何に難しいか。当時であれ、現代であれ、素直で清純なこころにのみ、神のことばは浸透していくのでしょう。

そんな状態ではありますが、みきの元を訪れる人の数は増える一方でした。百姓の次には武士も訪れるようになり、それと同時にイエスと同じように、旧教による弾圧もはじまったのです。山伏が刀をさげて乱暴狼藉を働くのですが、みきは一向に動ずることなく、「神にもたれていれば何も案ずることはない」と怖れる信者たちを慰めます。みきにとって、信者も山伏も同じ神の子だったのではないでしょうか。ですが、みきのように信を持てる人はそう多くありませんでした。そのことが保身という考えを生み、権力を頼ることにつながっていきます。

宗教団体。現代において、この言葉に嫌悪感を抱かないのは、その団体に属する人たちのみです。献金を迫り、政治に関与し、豪壮な建築と精神の繁栄を取り違える。異なる思想を排撃し、戦争にまで発展させる。幹部の心は金と権力と名誉に汚れ、末端の信者の真の信仰は少しも生かされない。宗教はいつこの過ちから抜け出て、宗派の壁を超えて1つになることができるのでしょうか。

みきは当然その宗教の堕落を承知していました。或いはそれも神の計らいの一部であると教えられていたのでしょうか。みきはただ黙って信者たちの権力主義に目をつぶったようですから。そんな信者たちの行動に関わりなく、その晩年まで、みきはただ淡々と神の道を説き続けたのでした。

この頃のみきについて疑問に思うことがあります。信者たちは「今夜はお降りがあるかもしれない」と言って夜遅くまで帰らなかったとあるのですが、この通りだとすると、みきが神の話をするのではなく、降臨した天の将軍が話していたということになります。では信者たちは、みきのことをどうとらえていたのでしょうか。神の社ではあるが自分たちと同じ人間だと、軽く考えてしまった者もあったのではないでしょうか。そこから神のことばは重んじるが、みきの言葉は聞き流しても構わないという誤解が生じたのではないでしょうか。それが晩年のみきと信者たちとの溝となったような気がして仕方ないのですが――。

そうだとするとみきはどんなに寂しかったことでしょう。四半世紀を血のにじむ修行の中で、神と共に暮らしたみきは、確かにおなじ人間ではあっても、イエスとおなじ神の子と呼ばれるにふさわしい魂になっていたというのに。作品の後半には、その寂しそうなみきの姿が、目に浮かぶように描かれていて悲しくなります。信者たちにもう少し智慧があれば、天の智慧があればと思わずにいられません。

神のこころと人間心との間に板挟みになったこかんが出直したのは、みきが78歳の時です。ひとが死の準備をするような年齢になってなお、みきの活動は勢いを増します。こかんを失った後、みきは本当にただひとりになったのではないでしょうか。もう何に煩わされることもなく、周りに集まる「まこと」のある信者たちの行く末をたのしみに、ひたすらに神一条の道を走ったようです。みきは方々の信者ににおいがけを行い、その芽は全国に芽吹いていきます。

天理の桜 みきは86歳のとき、休息所に移ります。すでに善右衛門も出直し、みきと対等に対話のできるものはありませんでした。

みきはもうただ一人ひとりの胸に神のこころを刻むことだけに時を過ごしたようです。この晩年のみきからは、ただただひかり輝く姿が浮かび上がってきます。奈良のおだやかな寒村から、目に見えぬ後光が世界中に放たれている様子が見える気がするのです。

明治20年の冬、みきは90歳で天に帰りました。115歳の寿命を信じた信者たちは大いにうろたえました。ですがみきは、25年の定命を縮めて、それこそ復活のイエスのように自由な魂で活動をはじめたのです。

『教祖様』はここで筆を置かれていますが、この日から、神が表に現れると予言した30年祭までの間、存命のみきは日本中で活動したのではないでしょうか。あらゆるまことある信者の元に現れて、その信仰を深めたのではないでしょうか。そして30年祭。いよいよみきは井出国子の身を借りて教祖殿へ現れます。

井出国子は、あの3女きみの理を継いだ娘だったと言います。心根のやさしさを買われて、狐付きと噂されたみきの娘であるにも関わらず、請われて鍛冶屋に嫁いだきみ。国子の夫もまた鍛冶屋でした。その国子の身体で教祖殿に座り込んだみきは神の教えを説きはじめましたが、すぐに教祖殿から引きずり出されました。

そこから播州に帰って、一人ひとりの胸に種を蒔くような地味な活動を続けましたが、それこそが神の道で、それとは対照的に天理の教祖殿では、今も変わらず主のない愚かな儀式が繰り返されています。国子は教団を非難するのではなく、「形ではない、団体ではない、自分ひとりで神に真向かうこころの対話が必要なのだ」というやさしい真実を伝えていたのでしょう。

終戦3年後、国子は85歳で天に帰っています。死の数ヶ月前から「疲れた。もう神の元に帰りたい」と絶食したと言います。みきの道、国子の道を思うとき、神の道のなんときびしいことかと畏れずにはおれません。あのイエスの道もそうでしたが――。

みきは今、どこで働かれているのでしょう。それは一人ひとりの真の信者たちの元で、また、神の意を必要としている世界中の純粋なこころのそばで働かれているのではないでしょうか。

宗教など無くとも、人間一人ひとりが大自然と対話し、愛を語るために言葉を使い、幸福になるために知恵を使うことを思い出すだけで良いのですから。

神にもたれて安心していれば何事もうまくいきます。この大自然に感謝して、やさしく、欲のない低いこころで通らせてもらってください。みきの伝えた教えは、そんな素朴なことだったように思います。この豊かな大自然に育まれて、私たちは生きているのですから。

『神の慈愛』の中で親様のことばをとりあげた一文を、みきと芹沢氏に深く感謝して、ここを訪れてくださった皆さんに贈ります。

「言葉によって人間同士愛を語りあい、知恵によって、おたがいの幸福をつくれるように」

――最後までお読みいただき、ありがとうございました――

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