/// 秀吉と千利休 /// (06/03/20)
千利休は言わずとも知れた茶道の開祖。利休との名は堺の南宗寺の 大林宗套から与えられた居士号で、正親町(おおぎまち)天皇より 下賜されたもの、「利心、休せよ」の意で、才能におぼれずに 「老古錐」の境地を目指せ、との意味合いがあると云います。 老古錐とは当初の鋭い切れ味の錐も年月を経ると、先は丸くなり切れ 味も落ち着いてくると云ったことを現す言葉で、利休独特の侘びの 世界観と一にするものでしょうか。 利休は堺に生まれ、姓を田中、名は与四郎と云いました。「千」は 祖父が千阿弥と称して、八代将軍の足利義政に仕える同朋衆だった 人物に由来し、そこから田中の姓を千に改めたものです。 |
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与四郎は幼い頃から茶を学び、十六歳に して自らの茶会を開いていたそうです。 十九歳になり往時の茶の重鎮であった 道陳に紹介されて、武野紹鴎(たけの じょうおう)の門に入った折に道陳の 庵号である易庵の一字を取って宗易 (そうえき)と改め、千宗易を名乗る ことになります。 本格的な茶の栽培は鎌倉時代に禅僧の 明庵栄西(みょうあんえいさい)が 宋より抹茶の製法をもたらしたことが 始まりと云われ、栂尾(とがのお)の 高山寺には「日本最古之茶園」の碑と 茶畑が名残を伝えます。 往時では茶は薬としても考えられて おり、「喫茶養生記」なる茶の効用を 記した書物も見受けられます。 禅宗に広まった茶は精神的な要素も 加味されてゆきます。栽培が広まるに つれ一般にも広まり、同じくして、 禅寺とも出入りのあった武家社会へも 広まってゆきます。 |
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やがて、茶の品種、産地を当てる茶勝負 (闘茶)と云う茶寄合(ちゃよりあい)が 流行、京都では闘茶は「茶歌舞伎 (ちゃかぶき)」と云われていました。 茶歌舞伎は当て字で、茶香服と書くと云い、 茶の香を利き分けるもの。 また、本場中国の茶器である「唐物」を 大金を使って蒐集し、盛大な茶会を 催すことが大名の間で流行ることになり ます。 これに対し、村田珠光が亭主と客との 精神交流に重きを置く茶会のあり方が 生まれ、これがわび茶、茶道の始まりと なってゆきます。 時は戦国時代、堺で茶人として名を 上げていた宗易は織田信長の茶頭と して召し出されることになります。 茶頭とは茶についての指南役と云った 役柄でしょうか。その信長が本能寺の 変で敗れてからは豊臣秀吉に仕える ことになります。 秀吉の出世と共に宗易も活躍の場を 広げる訳で、この頃に町人である 宗易が宮中に出入りする為に、正親町 天皇より「利休」の名を賜ることに なります。 |
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そして、秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会、 北野天満宮における北野大茶湯などを 成し、「天下一の茶匠」の名を不動の ものとすると共に、茶の範疇を越えて 秀吉の側近と云った側面も見て取れる ようになります。 秀吉は天下一の茶匠を抱えていることを 誇示し、一方の利休も政治の一翼を 担っている自負があったのでしょうか。 しかし、天正十九年(1591)、利休は 秀吉の怒りにふれ、突然に堺へ蟄居を 命ぜられてしまいます。 その後、京都へ呼び戻された利休は秀吉 より切腹を命じられることになります。 切腹の理由は定かではなく諸説あり ますが、まず、大徳寺山門である 金毛閣の階上に勝手に雪駄を履いた 利休像を設置したこと、また、茶器の 鑑定に不正を働いたことなどが、その 理由ではないかと云われています。 |
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派手好みで、黄金の茶室を造ったりの 秀吉に対して、利休は侘び茶を好み 目指したと伝わります。利休は高額で 売買される茶器、茶道具などに媚びる 茶の世界に批判的だったのでしょう。 このような反発が秀吉の行動とも 重なり反目する態度が秀吉には気に くわなかったのか。 大徳寺山門の利休像はくぐる者を 踏みつける意図があるとかの噂、 これも秀吉にしてみれば、自分への 挑戦的な仕業に映ったのでしょう。 天正19年2月28日、利休は葭屋 (よしや)町の屋敷で切腹しました。 享年70歳。大徳寺山門の利休像も降ろ され、その木像は一条戻り橋において 磔(はりつけ)にされ、利休も同じく 一条戻り橋に晒されたと伝わります。 秀吉と利休は互いに利用しようと 目論んだけれど、やはり根本的なところ で背反する側面があり、利休は権力者の 秀吉には抗しきれなかったと云うこと でしょうか。 |