/// 二つの恋塚寺  ///  (03/12/15)

茅葺きの山門が珍しい恋塚寺
 ”恋塚寺”、何とも洒落た寺の名前です。
いずれも俗称、通称かと思いきや、一つは
正式な寺の名が”恋塚寺”です。
それは文覚(もんがく)上人の開山になる
利剣山と号する浄土宗の寺院です。

もう一つは俗称、通称が”恋塚寺”になる
浄禅寺で恵光山と号する浄土宗西山
禅林寺派の寺院です。
浄禅寺は洛陽六地蔵の四番目のお寺、
鳥羽地蔵を祀ることでも知られます。
六地蔵巡りと云えば、京都のお盆の風物詩の
一つ。保元二年(1157)に木幡(こわた)の
里から移されたと云う地蔵尊が参詣者を
見守ります。

このお地蔵さんは小野篁(おののたかむら)が
息絶えて、一度冥土まで行って、そこで生身の
地蔵尊を拝して蘇った後に、一木から刻んだ
六体の地蔵尊の一つと伝えられます。
恋塚寺の袈裟御前”恋塚”
それでは、恋塚寺と云われるネーミングに
まつわるお話です。平安時代も末期、平家が
台頭し始める頃の貴族政治から武家政治への
転換期でもあり、末法思想が蔓延り世が乱れ
混乱していた頃の話です。

ちょっと高校歴史のおさらいで、天皇が
譲位した後に自らが上皇(院)となり政治を
行うのが院政ですが、その舞台の一つが、
これまでに紹介した鳥羽離宮であったりした
訳です。その院の警衛の任に当たった北面の
武士で、鳥羽天皇の皇女である上西門院に
仕えた人物に遠藤盛遠(もりとお)が
おりました。
遠藤武者と云う言葉も残りますが、盛遠も
武芸には優れていたものの武骨そのものを
絵に描いたような武士であったと伝えます。

その盛遠には衣川(きぬかわ)と云う叔母が
あり、その娘には袈裟(けさ)と呼ばれる
美しい娘がおりました。盛遠と袈裟は幼少の
頃の従兄弟(いとこ)同士の仲でしかなかった
けれど、時を経て、橋供養の折に盛遠は袈裟に
出会うこととなります。
浄禅寺の”恋塚”五輪石塔
その美しく大人になった袈裟に心を奪われる
盛遠ですが、袈裟は渡辺右衛門尉渡(うえもん
のじょうわたる)に嫁している身でした。
そこで諦めれば良いものの、あろうことか
盛遠は叔母の衣川に「袈裟を妻に申し受け
たい」と迫ります。
「そのような無体は聞かれませぬ」と答える
衣川に、さらに盛遠は太刀を抜き「刀にかけて
も望みは達する所存ぞ」と言い放ちます。

衣川はこの出来事の一部始終を袈裟に話し、
いずれ盛遠は私を手に掛けるだろうから、
それよりは愛しい袈裟の手に掛かる方が本望、
「ひと思いに私を突き殺しておくれ」と懇願
します。

思わぬ出来事、成りゆきに思い悩み、袈裟は
一度だけ会うことを伝えますが、対面した
盛遠は会うだけでは収まりきらず、
「色よき返事を給われ」と迫ります。
困り果て進退窮まった袈裟は一計を案じ、実の
ところは渡とは不仲であると、心にあらずの
話を語り、「今宵、渡に髪を洗わせ、酒を飲ま
して寝かせるので、濡れ髪を探って首をお討ち
下さいませ」と伝えます。
神護寺の文覚上人のお墓
その夜、盛遠は袈裟の言葉のままに喜び勇んで
屋敷に忍び、討ち取った首は、あろうことか
渡ではなく袈裟の首であったと云います。
愕然とうなだれ、己の非を悟った盛遠は髪を
下ろして出家、名を文覚と改めて、ひたすら
修行の身となります。
後年、高雄神護寺の復興を後白河上皇に強要
して伊豆に流され、源頼朝に挙兵を勧め、
頼朝の助力で神護寺を再興した人物。
後の世に「行はあれど学なき荒聖人」と
云われた文覚上人こそは遠藤高遠でした。
今は神護寺の裏山に文覚上人のお墓があり
ます。

一途な恋と母の身を恋したことにまつわる
”恋塚”、恋塚寺には袈裟御前の恋塚が
伝わります。旧街道の傍らに珍しい茅葺きの
小さな山門、ほんに小さな境内にそれはあり
ます。
もう一つ、通称寺ではあるけれど浄禅寺にも
袈裟御前の墓とも伝わる五輪石塔が残ります。

二つの恋塚寺は戊辰戦争の発端となった小枝橋、
鳥羽離宮をはさんで、歩けば40分ぐらい離れて
いるでしょうか。

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