/// 六角獄舎と平野国臣  ///  (04/04/13)

二条城の南にあった東西の町奉行所
 二条城の南、東西の町奉行所を
越えた辺りに六角獄舎はありました。
獄舎をいま風に云えば刑務所。
平安時代には左獄、右獄の二つが
あったそうですが、右獄は早くに
廃され、左獄のみが維持され、秀吉の
命により二条城の東、今の全日空
ホテルの東側辺りに移されますが、
宝永五年の大火類焼によって二条城の
南へ移されます。

余談ですが、平安京では東寺が栄え
西寺は廃され、左京も栄え、右京は
寂れました。どうも左右対称は機能
しないのでしょうか?
同じ役割のものは二つはいらないって
ことでしょうか。でも、町奉行所は
東西二つありました。しかし、月番で
業務を担当していたので、これは
一つの機能と云えるのかも知れません。
竹林寺の三十七志士慰霊塔
話はそれましたが、獄舎は六角通に
面していたことから後に六角獄舎と
呼ばれていました。その後は、
鵺大明神の話題でも少し触れましたが、
天明の大火で今のNHK京都放送局辺り
に移転し、昭和の時代には山科に移り、
京都刑務所となっています。

六角獄舎では幕末の頃には多くの志士が
囚われの身となっていて、その中に
平野国臣もおりました。国臣は西郷隆盛
と肩を並べる尊皇攘夷論者として知られ
ます。俗に云う”大和義挙”においては
三条実美公の直命を受け鎮撫役を務め
ます。鎮撫役とは”反乱をしずめ民を
案じること”。

日本各地に出没する外国船を目にし、
耳にするにつけ攘夷の思いはふつふつと
募ったのでしょう。入洛した国臣は
木屋町御池上ル辺りに隠れ住んだと云い
ます。近くには長州の桂小五郎、土佐の
吉村寅太郎らも住んでいた所。
その隠れ家も文久三年(1863)八月
二十二日の明け方、暗殺集団として恐れ
られていた近藤勇らの新撰組の一隊が
急襲しますが、祇園で遊興中の国臣は
難を逃れます。
マンション一角にある殉難勤皇志士忠霊碑
大和義挙では思いを果たせず、生野で
兵を挙げますが、幕府方に捕らわれ
六角獄舎につながれの身となったの
でした。

元号も改まった元治元年(1864)七月、
尊皇攘夷急進派の志士が長州藩を
動かし出兵、御所蛤御門を守る薩摩藩、
会津藩、桑名藩兵と交戦、俗に云わ
れる”蛤御門の変”、禁門の変とも
云ったりしますが、戦いは一日で
終わるものの、京都の町は三日三晩に
わたって”京のドンド焼け”と云わ
れる大火となってしまいます。

迫り来る炎に当時の町奉行、滝川
播磨守具和は獄舎に対して、「火が
堀川に及ぶことあらば、重罪人は
すべて切り捨てよ」と命じ、その犠牲と
なった一人が平野国臣でした。

この時、他に横田友次郎靖之、大村包房、
乾嗣竜、足利尊氏の木像を斬った
長尾武雄、池田屋騒動の発端となった
輪王寺宮の古高俊太郎ら八十余名の
志士が斬首されています。
護国神社の平野次郎国臣慰霊碑
往事を偲べる光景は全くと云っていい
ほどに残ってはいないけれど、日本の
行く末を案じつつ、無念の生涯を終えた
志士の地が六角獄舎でした。獄舎での
囚人に対しての応対は寛大であったとも
伝わります。意見、考え方の相違は
あれど日本を思う気概は役人にも
伝わったのでしょう、その死を惜しむ
声も大きかったと云います。

平野国臣ら三十七士のお墓は上京区
行衛町にある竹林寺にあって、また、
墓碑は東山区清閑寺霊山町の護国神社に
あります。六角獄舎跡は中京区因幡町で、
その跡地はマンションがそびえて
いますが、その一角に”殉難勤皇志士
忠霊碑”が”日本近代医学発祥地碑”と
並んで残されています。
近くに住む人に聞いたところでは、
マンションが建つまでは”首洗い井戸”
なども残っていたそうです。
今は石碑だけがその歴史を伝えます。

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