/// 黒谷の二つの供養塔 /// (06/06/23)
木曽義仲に追われ、九州に落ち延びていた平家一門ですが、四国 の屋島に本拠を構えるまでに勢力を挽回し、かつての都であった 今の神戸市辺りの福原に兵を集めていたのでした。 1184年と云うから平安時代後期、2月7日のこと。 源義経、範頼らが源頼朝の平家追討の命により一の谷で合戦に 及んだのでした。そこは防備も厳重で容易に攻め落とせそうにない 城塞になっていました。義経は一計を案じ城塞の背後から攻める ことを思いつきます。俗に云われる”鵯(ひよどり)越え坂落とし” です。 そこは断崖絶壁、平家も、よもやその場所から攻め入る者がある ことなど想像すらしていなかったのでしょう。しかし、義経軍は その断崖絶壁を人馬一体となって駆け下りたのでした。思わぬ奇襲 攻撃に平家軍は大混乱をきたし、須磨浦に追いつめられ、ついには 海上の船へ逃げ落ちるのが精一杯だったようです。この合戦で平家は 壊滅的な打撃を受け西へ西へを落ちのび、壇ノ浦で滅びることは よく知られるところです。 |
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この一の谷の合戦で今ひとつ手柄を 上げられぬ熊谷次郎直実と云う源氏方の 武将がおりました。若いころは源義朝に 仕えていたけれど、平家全盛の時代には 平知盛に仕えた人物。この時代の武将は 寝返りとまでは言わないまでも二君に 仕える者も多かったようです。 熊谷直実は幼名を弓矢丸といい、保元元年 (1156)には「保元の乱」で源義朝に仕え 初陣を飾りました。19歳となった平治元年 (1159)の「平治の乱」では源家十七騎の 一人として平氏の大軍と奮戦します。 その後、一時期は平氏に仕えますが、 「石橋山の合戦」以降は源頼朝に仕えます。 |
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今ひとつ手柄の無かった熊谷次郎直実は、 よい大将と組みたいものだと思いつつ、 平家が逃げゆく海岸に馬を進めたのでした。 すると、鶴を縫った直垂(ひたたれ)に 萌黄匂(もえぎにおい)の鎧(よろい)を 着て、鍬形の兜(かぶと)を被った大将 らしき武者一騎が沖の船を目指しているのを 見つけます。 直実は「それなるは、よき大将とこそ見まいら せる。みぐるしくも、敵に後ろを見せたもう ものかな。返させたまえ、返させたまえ」と 促しました。武者は後ろを見せたと云われては 名折れと感じたのでしょうか、引き返してきた 大将と波打ち際で組み合うこととなった直実。 勝負あって落ちた大将の首を掻き取ろうと兜を 押し上げると、薄化粧にお歯黒の武将はあろう ことか、我が子と同じ年頃の十六、十七の少年 でした。 「そも、いかなるお人にてわたらせたもうぞ。 名のらせたまえ。助けまいらせん」と訪ねると、 少年は「まず、そういう和殿はだれぞ」と 返しました。「武蔵の国の住人、熊谷次郎直実 と申しそうろう」、「さては、なんじの為には よき敵ぞや。名乗らずとも首を取って人に 問えかし、人も見知らん」 |
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直実はこの少年は名のある若殿かと思いを 巡らせるも、平家はもう負けたのであり、 今一人この若殿の首を取ったとしても意味は ないではないかと思い、また我が子の小さな 怪我にも心を痛めるのに、この若殿の父は、 子が討たれたと聞いたならどのように嘆き 悲しむか…、と考えていると、同胞の一団が 近づいて来るのを見ます。 「あれをごろうじそうらえ。いかにもして 助け参らせんとはぞんずれど、雲霞(うんか) のごとき、味方の軍兵、よもお逃がし申すまじ。 あわれ同じことなら、直実が手にかけて後世の 供養をつかまつらん」と言うと、「何も申すに もおよばぬ、とく首を刎ねよ」と…、 よもや味方の軍勢は見逃すまい、他の軍勢の 手に掛かるよりは、自らが手を下そう、それが 供養にも成る筈と云った意味でしょうか。 しかし、あまりのいとおしさに力も入らずに いたけれど、泣く泣く、念仏を唱えつつ首を 取る直実でした。 その若殿の名は平敦盛、平経盛の末子で平清盛 の甥に当たる武将。平家一門が何らかの官職に 就く中で、無官だったので、”無官大夫敦盛” の名が残ります。横笛の名手で、所持していた 「小枝の笛」から名が知れ、合戦の前日も心に しみいる音色が響いていたと云います。昨日の 音色がこの若者かと、直実は哀れを感じたの でした。 |
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直実は、敦盛を弔うために高野山に入り。 哀れと世の無常を悟った直実は出家を決意し、 黒谷(金戒光明寺)で草庵を結び念仏を 広めていた法然上人を訪ねたのでした。 出家の原因は所領争いからだと云う説も ありますが、黒谷を訪れた直実は方丈裏の 池で鎧を洗い、目に付いた松に鎧を掛けて、 出家したと伝わります。 今は二代目だそうですが、御影堂脇に大きく 枝を広げた松があり、”熊谷よろひかけ松” と云われ、その歴史を伝えます。 また、法然上人の遺骨を祀る御廟前に人の 背丈も超える熊谷次郎直実の供養塔が建ち ます。そして、向かい合うように平敦盛の 供養塔も建ちます。 直実が結んだ庵は蓮池脇の蓮池院、別に 熊谷堂とも云われます。 ここ最近は新撰組ですっかり有名になった 黒谷ですが、源平の悲哀を伝える二つの 供養塔も話の種に訪ねてみて下さい。 |