/// 京の七口 /// (01/07/20)
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青蓮院近くの標 今年は東海道の宿駅制が制定されてから400年目にあたる そうですが、お江戸日本橋から京の三条大橋まで東海道 五十三次は安藤広重の風景画でお馴染みですが、その京の 入り口に当たるのが粟田口(あわたぐち)。京都ではその 入り口に当たるところを「口」と称して、俗に「京の七口」と 呼ばれます。 しかし、この「七」と云う数字は必ずしも七つではなく、 時代によって六口であったり、あるいは十四を越えることも あったりで一定していません。なぞらえる「七」と云う数字の ようです。 この京の七口が歴史上登場するのは、鎌倉末期、そして室町 時代には室町幕府が七口の制札を設けたとの記録が残ります。 この時代には七口に「率分所」(そつぶんぜき)と云う関所が 設けられ、物資の量や質に応じて一定の率で関銭、いわば 通行税が徴収されていたそうです。天下の悪女とされた足利 八代将軍の夫人であった日野冨子がこの徴収権に取り入り財を 築いたことは知られるところです。 しかし、京の七口を人々が入り口として目のあたりにし、 認知したのは豊臣秀吉がお土居を築き、明らかな京の入り口を 造った時のことかも知れません。
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大原口標、町名も上京区大原口町 一般には京都の北東端の鞍馬口、大原 へとつながる大原口、山中越を経て 滋賀につながる今道下口(大原口、 北白川口、荒神口とも)、東海道に つながる表玄関とも云える粟田口、 伏見へとつながる五条大橋口、竹田 街道に通じる竹田口、南端の鳥羽口、 周山街道への長坂口、西国街道へは 東寺口、丹波山陰へ向かう西七条口が 知られます。 この京の出入り口にあたる七口です が、地名にも丹波口、鞍馬口、 粟田口、荒神口、上鳥羽口などとして 残ります。 他にも口の付く地名は幾つもあり、 こちらは郷や村々の出入り口に由来 するようです。