/// 粟田口を歩く ///  (01/08/03)

 粟田口は「京の七口」の一つ、大津、山科を経て三条大橋へと
至る東海道での京への入り口です。今の都ホテルがある地域から
青蓮院がある神宮道辺りまでを粟田口と呼びます。
九条山の山科側には旧東海道とおぼしき道路も残りますが、
九条山から京へは蹴上と云われる地名で交通量の多い府道となって、
今では旧街道の痕跡を見つけるのにも苦労します。

粟田口を歩くとき、まず思い浮かべるのは粟田焼、豊臣秀吉の
天下統一の後、秀吉が好んだこともあり茶の湯が広まります。
その湯茶碗を焼いたのが粟田焼。京焼とも云われ、京都で楽焼と共に
茶の湯にはなくてはならないものだったようです。明治の頃までは
登り釜も残っていたと云いますが、大正年間に消滅したと云われます。
唯一認められる粟田焼
古本で見つけた地図を頼りに登り釜跡を探し
たのですが、もはや痕跡は見つかりません
でした。
ただ、粟田神社参道に「粟田焼発祥之地」
碑を見つけ、これが唯一目に見える粟田焼を
伝えるものとなっています。

その粟田神社の起源は平安時代、清和天皇の
頃に疫病に悩み天皇は国民の安全を祈願し、
また感神院祇園社、今の八坂神社に藤原興世を
勅使として送りました。興世の満願の夜、
枕元に一人の老翁が立ち「汝すぐ天皇に伝えよ、
叡慮を痛められること天に通じたれば、我を
祭れば必ず国家と民は安全なり、我は
大己貴神なり。帝都の東祇園の東北に
牛頭天皇に縁の地有り、その地に我を祭る
べし」と云って消えたとか。その神霊を祀った
のが粟田神社となっています。
古い歴史を伝える粟田神社
粟田神社は江戸時代までは感神院新宮、
あるいは牛頭天皇を祭ることから粟田天王社、
粟田八大王子社と呼ばれていたそうです。
現在は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を祀り
ますが、天王社、王子社と云う名は平安京の
成り立ちを考える上で重要な呼び名です。

このような歴史もあり粟田神社では古い形の
祭礼が伝わっています。
「剣鉾」と云い、祇園祭の山鉾につながる形の
祭礼です。

茶の湯を好んだ太閤秀吉ですが、その茶の湯に
まつわる話が、粟田神社からすぐ東の良恩寺に
残ります。その昔、変わり者の善輔(ぜんぽ)
と云う人物が住んでいたと云います。
手取り釜、注文書が残る良恩寺
粗末な小屋に住み街道を行き交う人を招き
入れては茶を勧めていたと云います。
その善輔は茶の湯も雑炊も何もかも、いつも
鉄瓶の手取り釜を使っていたけれど、その話を
聞きつけた秀吉が「その手取り釜を持ち帰り
茶を点てよと」利休に命じたと云います。
利休が金子を持参し赴くと、善輔は怒り
おさまらず釜を投げつけ、こなごなに打ち壊
してしまいます。
途方に暮れた利休は事の次第を秀吉に述べた
ところ、秀吉は「善輔とやらこそ本当の
茶道人だ。」と讃え、鋳物師に命じ元の形と
同じ手取り釜を二つ作らせ、一つを善輔に
詫びとして送り、一つは秀吉が愛用したと
云います。その一つの手取り釜と秀吉が
鋳物師に作製を命じた文書が良恩寺に残ります。
ただ、良恩寺は観光寺院ではなく普段は
拝観出来ないのが残念です。

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