/// 新島襄と旧宅 ///  (01/05/19)

新島襄は天保14年(1843)に江戸は神田の
安中藩邸で生まれます。安中藩は上野国、
今の群馬県にあった藩です。今は群馬県
安中市となっていますが、そこにも新島襄の
旧宅が残っているそうです。
新島は安中藩で漢書、蘭学などの学問に励み、
また幕府の軍艦教授所に通い航海術なども
修得します。

そんな折り、元治元年(1864)、脱藩し
アメリカに留学。慶応2年(1866)、
アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、
キリスト教徒となります。 
時代は移り変わり、日本では明治を
迎えます。学校令を公布したことで知ら
れる森有礼、その有礼駐米大使の斡旋で
日本への帰国も認められ、岩倉具視遣外
使節に随行するなどして各国の教育制度を
視察します。日本へ帰って来るのは明治
7年(1874)のこと。
翌、明治8年(1875)、京都府顧問だった
山本覚馬の勧めで同志社英学校を設立、
同志社の歴史はここに始まります。

京都の新島襄の旧宅はこの同志社英学校が
あった場所だそうです。ちなみに今の同志社
今出川キャンパスは薩摩藩邸跡です。
新島がこの旧宅に住んだのは、明治11年
(1878)から永眠する明治23年(1890)
までの約11年間。木造2階建て、数寄屋根、
瓦葺き、外観は洋風建築。でも一歩中に
入ると不思議な空間が広がります。壁は柱を
露出させる和風な真壁造り、襖、障子の
仕切があるかと思えば、一方、暖炉が
あったりテーブルに椅子の応接間があったり、
ベットが置かれていたりの和洋折衷です。
建物の周りはバルコニーが囲む洋風スタイル
が見て取れ、明治と云う時代の斬新な生活
様式だったに違いないと思います。
現在は昭和60年(1985)に京都市の
有形文化財に指定されており、
3月〜7月、9月〜11月の水、土、日曜日
(祝日は除く)と御所の一般公開日に
合わせて、新島旧邸として一般公開されて
います。

住所:上京区松陰町
交通:京都駅より市バス205、17系統、
   河原町丸太町下車徒歩5分
備考:問い合わせは同志社社史資料センター
   075-251-3042 
新島襄が眠る地は哲学の道の南外れ、
若王子神社脇から山道を登ること20分の
若王子山山頂にあります。
葬儀は明治23年1月27日、翌24年には
勝海舟の筆による碑銘を刻んだ墓碑が
建てられます。その後事故によりその
墓碑は失われ、現在の墓碑は新島襄
ゆかりの地でもあるアメリカのヴァモンド州
ラットランド産の花崗岩のもの。旧墓碑から
写し取りその名も刻まれています。
この地は京都市の共葬墓地ですが、
同志社ゆかりの故人、そしてキリスト教徒の
墓が多くみられます。

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