/// 岡崎辺り  ///  (04/07/21)

 今、岡崎と呼ばれる地域は平安神宮近辺から東側には南禅寺、
北側には金戒光明寺(黒谷)辺りを指します。

岡崎には岡の先っぽ、先端と云う意味合いがありますが、
その岡に当たるのは吉田山から続く黒谷栗原の岡、その南端に
広がる地域が岡崎となり、そして、まさしく山が落ちる地に
岡崎神社はあります。
黒谷栗原の麓にある岡崎神社
岡崎神社は平安時代初期より東光寺の鎮守
社としての歴史があり、素戔嗚尊
(すさのおのみこと)、奇稲田姫命
(くしいなだひめのみこと)と、その御子
三女五男八柱神を祀ります。

素戔嗚尊の本地が牛頭天王(ごずでんのう)
であることから、素戔嗚尊を祀る社は
天王社と云われ、ここ岡崎神社も慶應年間
までは東天王社と呼ばれていました。
境内には雨社があり、竜神さんとも呼ばれ
鹿ケ谷山中の如意寺の鎮守社であったと
云われますが、大正六年にこの地へ移され、
雨乞い祈願の信仰が残ります。

元の東天王社との関わりは不明ですが、
今はウサギが神の使いだとかで、狛犬の
台座にウサギが彫り込まれていたり、
境内の手水屋には黒御影石の「子授け
厄除けうさぎ」が立っています。
かつての黒谷の栗原の岡にはウサギが多か
ったのかも知れません。
黒御影石の「子授け厄除けうさぎ」
東天王社があれば西天王社もある訳で、
平安神宮の蒼龍楼の東北にあったとされます。
歓喜光院の鎮守社として祀られ、やはり
素戔嗚尊を祀っていました。その後の変遷を
経て交通神社として知られるようになった
今の須賀神社が西天王社の歴史を伝えて
います。また、この地には陵墓参考地と
なっている西天王塚が残っています。

陵墓参考地といえば、この西天王社跡南側の
岡崎グランドには後高倉太上天皇、後高倉
天皇第一皇女である利子内親王の古墳が
ありましたが、グランド整備に伴って跡形も
なく消えてしまっています。
発掘調査以前では後高倉太上天皇陵は以前
紹介した源頼政によって退治された鵺塚だ
とも伝わっていました。

平安の頃より人跡の残る岡崎の地ですが、
時を経て幕末、明治の頃には多くの文人墨客
が隠棲した所としても知られます。
住宅街の中にある香川景樹宅址碑
この前に紹介した大田垣蓮月は歌を上田秋成、
香川景樹、小澤芦庵(廬庵)に学んだと
伝わりますが、皆、岡崎辺りに住んだ文人
でした。

香川景樹(かがわかげき)は江戸時代後期の
歌人で、「古今和歌集」を重んじ、多感優美
で親しみやすい歌で知られます。
歌集では「桂園一枝」がよく知られ、伝統的
な歌学にも拘泥しない斬新な景樹の歌は、
京都の冷泉家ほか和歌宗匠家からも激しい
非難を浴びますが、晩年には門弟一千を数え
桂園派と呼ばれ、明治にかけての歌壇に
大きな影響を与えた人物でした。

その隠棲の地は金戒光明寺(黒谷)西門を
西へ少しの住宅街の中、今は一本の石碑のみ
が往時を伝えます。また、大田垣蓮月も
景樹の直ぐ近くに住み、その地図も残るの
ですが、今では住宅の区画が変わったりで
何も残っていません。
丸太町通の小澤蘆庵宅址碑
景樹は歌の師匠であった香川景柄(かげもと)
の養子となって香川家の主君、徳大寺家に
出仕する訳ですが、この頃に小沢蘆庵
(おざわろあん)と出会います。

廬庵は歌に古語を使うことを嫌い、自然、
平易な言葉使い、「ただごと歌」を主張した
人物。三十歳の頃に冷泉為村に入門し和歌を
学び伴蒿蹊、澄月、慈延と共に冷泉門下の
平安四天王と呼ばれるまでになりますが、
次第に現代に合わない古語和歌に反発を強め、
やがては冷泉家を破門される道を辿ります。

そのような人となりに共鳴した一人が国学者
の上田秋成、秋成は「雨月物語」、「春雨
物語」など、教科書で習ったような記憶も
ある人物です。その生涯は波乱に満ちていた
ようで、当時不治の病と云われた天然痘を
患い、後遺症として両手の指が不自由に
なってしまいます。
上田秋成が眠る西福寺
しかし不遇の身、逆境に立ち向かうのが
当時の人々か、俳号に自分の指、手をカニ
に見立てて「無腸」と付けたりしつつも
自由奔放な性格、特に晩年は奇行の連続、
自らを浮浪者(のらもの)とあざけった
日々を送っていたと云います。

この当たり、やはり秋成も歴史に名を残す
人物の一面を持ち合わせていたようです。
小沢蘆庵を垣間見ることが出来る場所は、
香川景樹住居跡石碑から南へ平安神宮の北東、
丸太町通に面して石碑が建っています。

一方の上田秋成はインクラインの下部より、
湯豆腐店などが建ち並ぶ南禅寺への参道の
一筋目を北に入った西福寺と云う小さな
お寺で、カニの台座のお墓に眠ります。
なお、西福寺は非公開寺院です。

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