/// 大田垣蓮月  ///  (04/06/10)

蓮月が身を寄せた茶所の碑
 明治元年(1868)一月、鳥羽伏見の戦い
で勝利した薩摩、長州の官軍が慶喜追討の
ため、江戸へ赴こうとする三条大橋での
出来事。
馬前に進みて一葉の短冊を差し出す一老尼
の姿。島津久光公の後ろにあった西郷南洲
は歩み寄り「そなたは誰ぞ、何の用が
あってのことか」と尋ねます。

老尼は「めでたきご出陣のほど承はり、
腰折一首差し上げたいと存じまして…、
私は蓮月と申す尼でございます。」と。

短冊には「あだみかた かつもまくるも
   哀れなり 同じ御国の人とおもへば」、
としたためてあり、繰り返し口ずさんだ
南洲は「よく分かりました、必ずよいよう
に取り計らいますから安心してお帰りなさい、
私は西郷吉之助でごわす」と。
神光院境内の茶所
東海道を下った官軍は三月十二日に品川に
到着、江戸城総攻撃は十五日と決定された
けれど、歴史で習ったように勝海舟と
西郷南洲(隆盛)との会談によって江戸城
無血開城が成されたのでした。
蓮月の一首が歴史を変えたとまでは云え
ないかも知れないけれど、大きな歴史の
転換点での、ひとつのエピソードです。

蓮月と名乗るのは文政六年(1823)、
知恩院で頭をまるめ仏門に入ってからの
こと。俗名は大田垣誠(おおたがきのぶ)、
誠は寛政三年(1791)、伊賀上野の城主、
藤堂金七郎と鴨川近くの東三本木にいた
某女との間に生まれます。
直ぐに知恩院寺侍の大田垣伴衛門光古
(みつひさ)の養女となります。
やどかさぬ人のつらさをなさけにて おぼろ月夜の花の下ふし
二度の結婚で四人の子供ももうけますが、
親子を顧みない伴侶、次の夫は病死、
四人の子も相次いで失うなど、薄幸の
人生であったと云います。そうした人生の
中で仏門に入ったのでした。

蓮月は聡明な美人であったとかで、尼僧と
なってからも言い寄る男が絶えなかった
ようですが、自ら釘抜きで歯を抜き、
男達の目をそらそうとしたとも伝わる
気丈な女性であったりもします。
蓮月の名が今に残る訳は、先ほどの三条
大橋の一首にもみられるように、和歌、
書、舞にも優れた才があって、そこから
今に思いが伝わるからでしょうか。

歌の世界では税所敦子と共に桂園派の
双璧とも云われ、与謝野礼厳、
また梁川星巌、梅田雲浜、勤皇僧梧庵ら
とも親交があったりで、幕末の歴史にも
関わりがあるようです。
”粟田焼発祥之地”碑
そして、蓮月は岡崎の地で生活の糧と
して、蓮月焼を造ります。
その住まいは桂園派の創始者であった
香川景樹宅近くであったと云います。
粟田焼の中で特に蓮月が造形したものを
蓮月焼と称するのですが、粟田焼は今の
蹴上から三条通にかけて、安土桃山時代
後期に生まれた陶芸で、京焼、清水焼へ
とつながる焼物でした。

古い地図を見ると今の都ホテル北側辺り
から西側にかけて登り窯の記載が見て
取れるのですが、今はそれらしき痕跡
すら見つけることは出来ません。
ただ粟田小学校(四月から白川小学校)
の北側路地に”粟田焼発祥の地”碑が
歴史を伝えます。

話はそれましたが、蓮月焼は一つ一つに
自作の歌を刻みつけた作品で、その素朴
さから人気を博し、贋作(がんさく)が
登場する程であったと云います。
西方寺に眠る大田垣蓮月
また、蓮月は引越し好きであったとも
云われ、”屋越し蓮月”との異名が残る
ほどで、岡崎、大仏、北白川心性寺、岡崎、
聖護院、川端丸太町と転々とし、晩年は
蓮月76歳に神光院に身を寄せます。
屋越し蓮月を象徴するかのような歌が残り、
歌碑が神光院の植え込みに隠れるように
あります。
”やどかさぬ人のつらさをなさけにて 
        おぼろ月夜の花の下ふし” 

神光院で約十年間ほどの人生を送り、
明治八年その生涯を終えます。
”願わくはのちの蓮の花の上に 
      くもらぬ月をみるよしもがな”
これが辞世の句、お墓は舟形送り火で
知られる西方寺にあります。

幕末維新の頃、戦乱の世を、国を思って
綴った歌、二つです。
”うつ人も うたるる人もこころせよ 
       おなじ御国の御民ならずや”
”聞ままに袖こそぬるれ道のべに 
     さらすかばねは誰が子なるらん”

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