/// 落柿舎と向井去来 ///  (01/10/04)

嵯峨野らしい景観、落柿舎
 落柿舎(らくししゃ)は嵯峨野観光の
メインストリートに位置します。俳人で
蕉門(しょうもん)、いわゆる松尾芭蕉の
門下の一人であった向井去来(きょらい)
が閑居した跡と云われています。

幸いなことに門前に広い畑が残っており、
嵯峨野らしい長閑な風景の中に溶け込んで
います。この畑は生産緑地に指定されて
いるようなので当面は今の景観が保たれる
のかなと思います。庭の片隅には
「柿ぬしや木ずゑは近きあらしやま」と
記された句碑が建ちます。

そのいわれは、商人が庭の40本の柿の買い
入れを決めて代金を置いて帰ったけれど、
その夜の嵐で柿の実が全て落ちてしまった
ことから生まれたと云います。
以来「落柿舎」の名は嵯峨野になくては
ならないものとなります。
笠と蓑、主人は在宅のようで…
師匠でもある松尾芭蕉もこの落柿舎を
訪れていたようで、「五月雨や色紙へぎ
たる壁の跡」の句を残し、また嵯峨日記を
記したのもこの落柿舎だと云います。
でも、去来の落柿舎は明和七年(1770)
には既になくなっていて、今の落柿舎は
明治28年に近くの弘源寺の旧捨庵が売却
されようとしているのを地元の名士が
買い受け再建した建物だそうです。

確かにどう見ても今の落柿舎に40本もの
柿の木が植えられる広さはないです。
それはそれとして、今の落柿舎には
小さな門を入った目の前の壁には、主人の
在宅を知らせると云う蓑と笠が掛けられて
いたりと、芭蕉、去来を始めとする俳人が
交わった雰囲気に触れることが出来ます。

その主の向井去来は長崎に向井玄升の
次男として生まれます。その父の上京に
よって聖護院に住み文武両道に通じた
人物だったと云います。落柿舎はその
彼の別荘だったそうです。
真如堂にある俳諧奉行、向井去来のお墓
去来と芭蕉の出会いは、上方への旅の
途中に知り合いを通じ去来と其角がまず
出会い、その其角の紹介で知る仲と
なったと云います。
いつの世もそうですが、人との出会い、
縁とは不思議なもの、この二人の出会い
がなければ落柿舎が今に伝わることも
なかったかも…

また、落柿舎の北側には弘源寺の墓苑が
あり、ガイドブックなどでは、去来の墓が
あると紹介されていることが多いですが、
ここは遺髪を埋めたいわば別野、本当の
お墓は哲学の道近くの真如堂にあり、
去来とだけ刻まれた小さなものがそれです。

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