/// 泉涌寺と楊貴妃 /// (06/10/18)

御寺(みてら)と呼ばれる泉涌寺
泉涌寺は東福寺の東側、即成院を越えて、
今熊野観音寺への道を分けさらに進んだ
最も奥まった所で、東山三十六峰の一つ
月輪山の麓にあります。

東山(とうざん)または泉山
(せんざん)と号する真言宗泉涌寺派の
寺院。天長年間に弘法大師がこの地に
庵を結んだことに始まり、真言宗に
属していますが、伽藍を一見すると
禅宗のような佇まいです。

その訳は法輪寺と名付けられた後に一時
仙遊寺と改称されるも、順徳天皇の時代に
月輪大師が時の宋の様式を取り入れて
伽藍を営み、境内の一角より清水が涌き
出た事により寺名を泉涌寺と改めました。
このような経緯から禅宗のような雰囲気を
感じ取ることが出来ます。

大門から仏殿への伸びやかな境内
月輪大師は律を基本に天台、真言、禅、
浄土の四宗兼学の寺としての礎を築いたと
伝わります。
その隆盛から時の皇室の帰依も深く、
鎌倉時代に第八十七代四条天皇が泉涌寺に
葬られてより、少し時は経ますが江戸時代
初めの第百八代、後水尾天皇より第百二十
一代、孝明天皇まで江戸時代の天皇は全て
この泉涌寺の月輪陵に葬られることとなり、
皇后、親王なども含め多くの山稜、灰塚、
御墓が営まれ、皇室の菩提所、御香華院と
して篤い信仰を集め「御寺(みてら)」と
称されるようになります。

このように皇室との深い関係から本坊書院は
京都御所の皇妃御殿を移したものであったり、
霊明殿は明治天皇による再建、御座所も
明治天皇により京都御所の御里御殿が移築
されたものだそうです。
歴代天皇、皇族の御念持仏を祀る海会堂も
御所の御黒戸を移したものです。

泉涌寺の名の起源の湧き水
仏殿は徳川家綱により再建された重層入母屋
造りで、唐様建築を伝えます。内部の鏡天井
には狩野探幽筆になる龍図が描かれています。
また舎利殿の天井にも狩野山雪の筆になる龍が
描かれており、「鳴龍」として知られます。

大門を入ってすぐ左手には楊貴妃観音を祀る
お堂があります。楊貴妃は世界三大美女に
数えられるとか…、その三大美女に小野小町が
入っていたりしますが、多分、日本だけの語り
ぐさでしょう。
歴代天皇を葬る月輪陵
楊貴妃は中国、唐の時代の人物。719年生まれ
で幼名は玉環(ぎょくかん)と云いました。
貴妃は皇妃としての順位を表す称号。
735年、玉環は玄宗の第18皇子の妃となります。
玉環は貴妃の称号を得て次第に玄宗皇帝の
寵愛を受けることになります。このことから
玄宗皇帝が政治を顧みなくなったり、楊貴妃の
一族が勢力を伸ばしたりで、政治は乱れます。

腐敗、混乱する政治の中で起こるべくして
起こったのが安禄山の反乱、逃げ落ちる
玄宗皇帝を護衛する近衛兵からも「楊貴妃は
国難を招いた元凶である」との不満が噴出し、
玄宗皇帝はやむなく楊貴妃を処断します。
大門を入ってすぐ左に楊貴妃観音堂
僅か38歳でこの世を去った楊貴妃ですが、
何故か亡くなったのは身代わりで、楊貴妃は
生きながらえ、山口県長門市油谷(ゆや)町に
流れ着いたとの伝説が油谷町の二尊院には残り
ます。そして、手厚い看護の甲斐なく亡く
なった楊貴妃のお墓もあるそうです。

日本には義経がチンギスハーンになった
とか、何とも壮大な伝説、突拍子もない
話が色々と残るものですね。

ちょっと不釣り合いにも思える楊貴妃観音像が
何故に泉涌寺に残るかですが、玄宗皇帝が
亡き妃を偲んで等身座像にかたどった観音像を
彫らせたと云われ、それを泉涌寺の留学僧の
湛海(たんかい)宗師が建長7年(1255)の
帰国に際して勧請、持ち帰ったものだと
伝わります。

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